第35話 傲慢
許されぬ物が在るとして、それはやはり自分で決めた物、なのか。
遠く、過ぎ行く時の中で、私は過去を振り返る。
この長い歩みを止めてしまおうと、自棄になっていた時の話だ。
私は病気で、愛する妻を亡くした。子を望んだが叶わぬ願いではあった。元が病弱な妻の身体はとてもではないが、妊娠に耐えられそうになかったからだ。そちらは諦めも付く。
しかし、伸ばしたはずの天寿での夫婦の時間は、勿論幸せであり2人での暮らしは楽しかったが、同時に辛くもあった。
妻は時々ある言葉を呟いた。また1人、誰それが旅立ったと。重ねる時が多く成れば成る程に、身近な誰かが死んでしまう。それは強く固く決意した事のはずだった。
自分の親が先に逝くのは天命だろう。それが兄妹に移り、流行病のように伝染して行く。可愛らしかった甥や姪。そのまた子供たち。仲が良かった友人たち。皆が老いて死んで行く。
病気や怪我もあるだろう。事故や戦死もあるだろう。そんな中で段々と周囲の人間の目の色が変化する。
殆ど老いる事のない私たちを見て、奇異の目を向け始めた。身体と同じように普通の人間は、心も非常に脆かった。祝福は最初の頃だけ。その内に、誰も彼もが長寿の秘密を知りたがる。教えられないと答えると、皆一様に怒り出した。自分達だけ、狡いと。
嫉妬。妬み恨み辛みが私たちを囲み、搾り取ろうと冷たい波が押し寄せる。流す涙を拭うのを止めてしまった妻の、震える背中を抱いて。私たちは誰も知り合いの居ない、凍て付く北の大地に引っ越した。私の故郷に帰るという手も勿論あったが、それだけは嫌だと妻は言う。
北の大地に越して数年。そこまでが愛する妻の限界だった。身体がではない。長い時間に、遂に妻の心が壊れた。
軽い肺病を患い、寝込む妻の薬を得る為、ほんの一時家を空けた隙に。妻は我が家から逃げ出していた。私の事は諦めて下さい、と短い手紙を残して。
東側の崖ではないかと考えたが、落ち着いて妻の気配を辿ると、北部の山嶺を目指しているようだった。あそこには、弱い魔王が沸いていた。とても嫌な予感がした。妻は、その身だけでなく、魂までも魔王に喰らわせようとしている。
許せない!妻ではない。己自身に嫌悪と憎悪を燃やした。妻の心が弱っていたのは知っていた。何に悩んでいたのかも知っていた。優しい言葉では無駄であるのも知っていた。私は妻を止められなかった。私は妻の心を救ってやれなかった。知っていたのに、私の我が儘で彼女を手放すのを拒否をしていた。聞いていたのに、無視をした。もう、放して下さいと。そう、言っていたのに。
私は間に合わなかった。死ぬ為に死力を尽くす妻に、追い着く事は出来なかった。私の脚に迷いが有ったのかも知れない。私の伸ばす手が震えていたのかも知れない。
伸ばした手の先で、私の妻の身体が上下に分かれていた。白い魔王は、その大きな口を開けて妻の身体を美味そうに食べていた。
「止めろぉぉぉ、それは私の、それは私の・・・」何だと言うのか・・・。
私は響く骨が砕ける音を聞きながら、伸ばした手を止めてしまっていた。この期に及んで、自分の間違いを認めたくはなかった。
そこから暫くの私の記憶は曖昧だ。魔王に対する怒りと、自分に対する怒りを吐き出し尽くすが如く時を忘れて暴れ狂った。
何度も何度も、切り倒し粉微塵にしようとも復活する魔王。何度も何度も、魔術で壊そうとも元の姿に戻ってしまう洞窟。長き時を共に過ごした自慢の剣も折れ、大切な友人に貰った世界樹の枝杖も折られた。残ったのは己の拳のみ。何も救えなかった、見窄らしい掌だけだった。
何時間、何日過ぎたのか。動かぬはずの私の身体は尽き果てぬ怒りだけで暴れ続けた。
「助けて、あなた・・・」その幻聴を聞き、やっと私は手を振るうのを止めた。
「セラス!何処だ、セラス」目の前には、復活した白き魔王のみ。「もう許して、ブライン・・・」
魔王が口を開いて動かしていた。嘘だ・・・。こんな事は有り得ない。これは、天罰だとでも言うのだろうか。この傲慢な私への。
次の瞬間、私は外へと逃げ出した。もう何もかも見たくない。もう何もかも聞きたくはない。もう、私もここで終わろう。もう、魔王に喰われよう。もう、何処にも妻は居ないのだから。
助けて・・・。僅かに耳に残る妻の声。それが私の脚を掴んで止めさせた。と同時に洞窟出口の手前で、誰かの視線を感じてそちらを向くと、たった1人の少年が立っていた。
人間で言えば成人のようにも見える。しかし私たちからすれば、人間は誰も彼も子供のようだ。
「誰だ?」少年は懐から一振りの剣を取り出した。その禍々しき黒い剣の柄を私に差し向けた。
「あなたには選択肢がある。この魔剣はソールイーター。その名通りに、斬った者の魂を喰らい尽くす忌まわしき刃。但し、資格無き者が振れば、大きな代償を伴います」淡々と話す少年の目は、何処か悲しそうに見えた。
「何の・・・話だ」
「あなたに出来ぬなら、代わりに僕が葬りましょう。あなたが自称する、愛する者の魂さえも、己の手で救わぬと言うのならば」少年の目が私を突き刺し、逸らす事を許さない。彼は私の返事を静かに待っていた。返事の代わりに、私は魔剣の柄を取り、洞窟の奥へと走った。
そして私は、やっと妻を救え(解放し)た。これは、恩人である少年に出逢った時の話である。