第32話
白き魔王。北の大陸に住むそれは、全身を硬い剛毛で覆い尽くし、仲間の高度な魔術も、私の聖剣の刃さえも弾き返してしまう。
戦闘状態に入って、いったい何日が過ぎただろう。夕刻を過ぎると、気温がますます下がり、防護をしていても意味を持たない。だから日没と共に、戦闘は中断を余儀なくされる。
「本日はここまでだ!」私たちの戦闘を傍らで見守る存在が、大きな声で宣言した。
魔王は宣言を受けて、素直に住処である洞窟へと叫びながら帰って行った。
「先生!私たちはまだやれます!」連日のように食い下がるが、その訴えが通る事はない。
「その凍に侵された手足でか?今日は薬を飲んで、風呂で癒やして休みなさい」
彼はどんな寒い場所でも軽装で、厚手のグローブさえ着けていない。皮膚の皮が異常に分厚い訳でも、全身を脂肪の壁で覆っている訳でもない。一見すると散歩にでも出掛けただけのような・・・。
その人成らざる偉業を成す者は。「今日は比較的暖かいほうだがね」信じられない言葉を口にしていた。凍て付くような寒さだと言うのに。昨日との気温の違いが解らない・・・。
先行する先生の背を追い、先生の御自宅へと帰還した。仲間たちも終始無言で後ろを歩く。
到着後に真っ赤な薬を飲ませて頂き、暖かなお風呂を上がった後は、先生のお手製の美味しい夕飯が出来上がっていた。一番風呂は毎日私に決まっているようで、清々しい気持ちで心が温まった。
「先生。今日の戦闘はどうでしたか?」私は毎晩行う、作戦会議で毎回同じ質問をした。
「昨日と同じ。進歩が無い」断言された。感じる処ではなく、無いのだと。しかし続く言葉はこれまでに無い言葉だった。
「君以外の連携の精度、技の切れ、基本動作。個人の負を充二分に補うに値する」
「私以外の・・・」
「君自身の力は突出している。流石は勇者なだけはある。だが所詮はそこまでだ」
「ブライン殿・・・」僧侶のアーレンが呟いた。
「例えば君一人が今よりも強かったとする。であれば、君は一人で各地の魔王を斬って回れば済む話で、果ては魔神を討伐すれば全て終わりだ」
「それは、どう言う・・・」
「解らないかね。今この時に、この場所で魔王を討ち切れなかった君が居る」
「詰まりは、私はやはり弱いと?」
「ハッキリと言おう。今のままでは何れ限界が来るのだと言っている。君は、この場に居る仲間4人を何だと考えているのだ?」先生の鋭い眼差しに、つい目を逸らしてしまう。
「考えを聞いただけだが、なぜ答えに詰まるのかね?」
「それは・・・」
「それは?それは、君が仲間であるこの者たちを、露天で売っているような道具か何かだと考えているからだ!」私は、何も返す言葉が無かった。無言を重ねてしまう。
「ある日ある時、偶然か必然か。出会い、集まり、同じ苦難を乗り越える旅の仲間たち。寝食を共にし、どれだけの時を過ごした?性別や年齢を越えた友であり、家族ではないのかね?」
「ブライン殿。これ以上は・・・」無言を続ける私の代わりにアーレンが口を挟んだ。
「いや止めない。例えば今日の戦闘中、君は何回後ろを振り返ったのか?」
「い、一度も・・・」無かったのだ。
「例えば、何回も君が聖剣を振りかぶった時に、後方との距離は何回測ったのか?」
「い・・・」無いのだ。
「剣先が当たる事は無い。余波が掠める事も無い。それは後ろの4人が君の動きに合せて、常に適切な距離を測りながら動いているからに過ぎない。離れ過ぎず、近付き過ぎず、後ろの動きだけは一流だとも。君以外のね・・・」
「私は、勇者だから・・・」こんな言葉しか出て来ない。
「勇者だから?いったいそれが何だと?」
「強く在らねばならないのです。魔王を倒さねばならないのです」
「話にならないな。答えですらない。仲間の君たちには同情する。こんな小娘に命を預けねば成らぬとはね」
「ブライン殿。言葉が過ぎますぞ」
「仲間は道具でしかない。仲間は危険を回避するだけの盾になればいい。仲間なら、魔王を討つ為の踏み台にでもなればいい。仲間なら、隣で死んでいたって構わない。仲間なら、代用品は幾らでも渡してくれるから!」先生が語気を荒げてテーブルを叩いた。置かれたカップやグラスが揺れて音を立てていた。本気で叩いていたら、テーブルは粉々であったに違いない。先生は優しかった。
馬鹿な私は、その優しさにすら気付かずに。
「ち、違う・・・ちが」否定の言葉が喉から出ない。心の中で肯定している自分が確実に居た。
「違う?違うと言うのだな。ならば、仲間たちの顔をしっかりと見て、私の質問に答えなさい」
俯いた顔を上げ、回し辛い首を強引に回して席に座る仲間の顔を見た。一様に暗い。何時もの笑顔は見られない。
「アーレン君の趣味は何だ?」「知りません」
「メデス君の好きな食べ物は何だ?」「知り・・・ません」
「ユード君の将来の夢は何だ?」「・・・知りません」
「若手のガレストイ君の好きな人は誰だ?」「・・・解りません」
先生は両手を掲げて、天井を仰いだ。「何だ、その答えは・・・」唯々呆れている。
「私は、何も知りません・・・」何一つ、仲間たちについて。知っているのは名前と使える技位で。私は何も見て来なかったし、誰にも私情は聞こうともしなかった。それこそ時間は幾らでも有ったのに。
先生が指摘している事が朧気ながらに見えて来た。
「私は、何一つ、聞こうともしていなかった・・・」
「言い訳かね?」「いいえ、事実です」今度はすんなりと言葉が流れ出た。
「そんな仲間思いの勇者の君に。もう1つの選択肢を与えよう」先生は追撃の手を緩めない。
「選択肢・・・ですか?」
「君の代わりを為せる者が居る。その者なら魔王を滅ぼす事も、世界を救う事も朝飯前だ」
「そ、そんな人が?本当に居るのですか?」到底信じられない言葉だった。仲間たちも顔を見合わせて首を横に振っている。
「居るとも。先週までここに居た、私の愛弟子だ。彼は私に一撃を加えて、ここを去った。真に命を賭す戦いであったなら、勝敗は見えない程のな」
「そ、そんな・・・本当に・・・」
「彼は今でも君の動向を、遠くの空から見ているだろう。もしも君がこの先、苦しみ藻掻き足掻いてでもその剣を地に落とす事になれば、彼は必ず君の前に現れる。自分にはもう無理だと諦めるならば、その時彼にその聖剣を渡せば良い」
誘惑を促す言葉だった。勇者の代わりが私以外に居るのだと。
「とても、信じられません」
「信じる信じないは君の勝手だが、この世界は君の成長をのんびりと待っていてくれる程に、優しくはないぞ」
先生は押し黙る私たちを尻目に、席を立った。話は終わったのだ。話を続ける意味が無くなったのだと言わんばかりに。先生は暖炉に新しい薪を追加した。
「私はもう寝るが、君たちは話をするといい。心行くまでな。明日、君たちが魔王を討てなかったなら。やはり君たちはここまでと言う事だ。私が全力を以て君たちに引導を渡してやろう」恐ろしい言葉を残して、居間を出て行った。
先生が去った後、暫くしてから私は席を離れて床に伏せた。そして、仲間たちに向かって土下座して謝った。御免なさいと、何度も。
「顔を上げて下さい。グリエール」ガレストイの優しげな言葉が響く。涙でグシャグシャになった顔を上げるのは、とても恥ずかしかったが今はそれ処ではない。
「本当の馬鹿はここに居ました。それでもです。こんな馬鹿な私の話をどうか聞いて下さい。そして皆さんの話を聞かせて下さい。お願いします」
「勿論ですよ。私の大好きな人の話も相談させて下さい」
「はい!」
それから夜が明けるまで話し合った。魔王でもなく、戦略でもなく、政治でもない。ただの世間話。
仲間たちは舐める程度にお酒を飲んでいたが、私は飲まなかった。全てを忘れない為に。
趣味や趣向や特技について。それぞれの家族について。幼い子供たちの話とか。恥ずかしい思い出話を。出来そうもない果てない夢の話を。楽しかった。腹の底から笑ったのは何年振りだろうか。
アーレンが同じ話を繰り返していたが、3度目でメデスが止めていたり。ガレストイが大好きな人は実は私だったり。とても驚いたが、自分でも不思議なくらい嬉しく思い、その告白を受け入れた。
何でもない日常の話。私たちはその夜、本当の意味でのパーティー(恋人含む)に成れた。
朝を迎え、出発する時間になり身支度をした。皆徹夜明けだと言うのに身体は軽く、顔は晴れやかだった。とても魔王を討ちに行くような気配ではない。そして私の右手はガレストイの手と繋がっている。した事もないが、デートにでも行く気分だ。我ながらウキウキしていた。魔王の住処までの短いデートではあるが。
その日、2つ目の魔王が勇者のパーティーに依って倒された。その報はまたしても世界を駆け回り、南の大陸以外の国々は沸いた。
「少年よ。これで、あの時の恩は、少しは返せたのだろうか・・・」北の大陸の端の小さな家の、小さな菜園から、去り行く5人の人間を眺めながら、小さく一つ呟く壮年のエルフが・・・幻想の光の中で霞んで消えた。
小屋から少し離れた丘に建つ素朴な墓石には、人間とエルフのとても仲の良かった夫婦2人の名が明るく輝いていた。優雅な舞曲を踊るかの如く、供えられた花の花びらが舞っていたと言う。
聖院歴698年、9の月。北の大地に短い夏がやって来る前の、決して小さくない出来事。