第21話
雨。いつも旅立ちの日は、決まって雨に邪魔されて。
強くもない弱くもない。根っからの雨男である私が、干ばつに苦しむ砂漠を旅したならば、きっと楽しい事が起きる予感がした。実行した事は未だない。
今は遠出は出来ない理由。寝室で眠り続ける私の妻、サラリエ。私が小さな商談の為、比較的大きな隣町に出向いていた隙に、歪な魔物に村が襲われた。多くの被害を受け、村の畑で作業していた農夫たちを取り仕切っていた妻。勇敢にも逃げ遅れた子供たちの前に立ち、逃したまでは良かったが、その身に受けた傷は容赦なく妻を追い込んだ。一命を取り留め、生きている証である息はしているものの、あの日から目を二度と覚まさなかった。
なけなしの財や、村中のお金を掻集めたとしても、その深い傷を癒やす上級ポーションは手に入らない。しかし愚かで稚拙な私は、ポーションを自らの手で作る事を考えた。常識で考えれば、無理からぬ手段だった。聖都に居る上位神官でさえ、かなりの幸運に恵まれなければ作成出来ない代物なのだから。それでも馬鹿な私は、親類に妻の面倒を任せては各方に薬草を採取に出掛けた。
これが良いと聞けば走り、これが効くと聞けば食事も忘れて駆け回った。私を突き動かす物はなんだろう。チープな妻への愛だろうか。ここまで来ると、単なる自己満足だと否めない。長い雨が続く。今日も変わらず、安らかな寝顔を浮かべる妻の横顔を覗いた。
美しかった面影は影を潜め、豊潤だったその唇はザラザラに乾き切っていた。私は決められた作業のように妻の唇をなぞった。少量の植物油を含む水を気道に入らぬよう、ほんの少しずつ口へと誘い、含ませた綿布で唇を丁寧に濡らした。排泄綿を取り替え、同様に妻を移動させて清潔なシーツに取り替える。一貫した作業の時でさえ何も返してはくれない妻に、心の中で謝りながら。
日増しに軽くなる身体。硬くなる関節。痣にならぬように屈伸させるものの、妻の身体はもう限界を訴えていた。すでに一刻の猶予も残されていなかった。窓の外の止まない冷酷な雨を睨み、痛む腰を伸ばしては無機質な天井を見上げた。
次の晴れ間には、少しだけ遠出をしようと考えていたのに・・・。人生とは上手く行かない事の連続だ。思い通りに進む事のほうが少ない。
今日も日没まで結局、雨は止むことはなかった。何度も、何度も窓から空を見上げる。「神よ、どうか居るなら聞いて欲しい。悪魔よ、罰ならこの私が受けよう」誰でもいい、どうか妻を救ってくれ。
突然、ノックされる玄関ドア。こんな日暮れに最初は聞き間違いではないかと固まった。コンコンと強めのノックが続いた。「このような雨の日暮れに、どなたかな?」
「こんな時間に申し訳ない」玄関の外には見知らぬ男が1人立っていた。彼の外装は皮布の軽装だった。不思議だったのは、彼の衣服がまるで晴れの日を歩いて来たかのように一切濡れていなかった事だった。訝しむ私に対し、彼は温和な笑顔で軽く会釈していた。
「シュレイズ殿とお見受けします。少しだけお話をしたいのだが宜しいか?」
「シュレイズは確かに私ですが、何処かでお会いしましたでしょうか?雨が降り込みますので、取り敢えず中へどうぞ」初対面だと確信していた私は、彼を客間の椅子に座らせ薄い果実水を出した。
「お構いなく。すぐに終わりますので」彼は私の腹回りを見ては、ふむふむと唸る。そういった趣味でもあるのだろうか。「で、お話とは?」
「私と取引をしませんか?」彼は途端、満面の笑みへと変わる。嫌な印象は受けない。
「取引・・・と申されましても、今は畑の収穫時期ではないので取引材料が・・・」正直に答えた。事実畑の野菜は時季外れであり、妻の為に切り崩して財にも余裕はない。
「とても簡単な取引です。財も、まして収穫物も要りません」不可思議な笑顔だった。
「では、私にいったい何を差し出せと?」
彼の目線が、私の後ろの寝室に向かった。背筋が凍り付く。
「いやいや少し怪しかったですね。ご心配は要りません。私はあなたの命もサラリエさんの命も要求したりはしませんよ」彼は手を翳して、大袈裟に振っていた。妻の名を、何処で聞いたのだろう。
「ここに・・・」彼がそう言って、使い込まれた道具袋から取り出したのは・・・。深紅の液体が入った上質な小瓶。その透明な瓶だけでもかなりの高値が付くだろう。「上級、ポーション・・・」
私は続く言葉を失った。追い求め、探し求め、土下座までして聖都で漸く見せて貰えたそれと酷似する色合。本物なのだろうか。
「やはり・・・解りますか。これは手段です。あなたの真意を試す。寝た切りの妻を救うのか。それとも妻をこのまま死なせて、これを売り捌き財を成すのか」彼は私を試していた。何が目的なのかは解らない。彼の言う通りにこれを売れば、巨額の財が手に入る。妻に飲ませれば、快方へと傾くかもしれない。これが、本物の上級ポーションであるならば。
「偽物かも知れない物で、私を釣ろうと?」私も商人の端くれ、本物ならば喉から手が出て裂けようとも欲しい物である。しかしながら、どれも彼のメリットが浮かばない。吹き出る汗を拭いながらも冷静に考える。彼は返答を待っていた。そのどちらの答えも、私自身に損は無い。
「そうですね。全くの紛い物の可能性もある。ですから、これは試供品です」「試供品?」
「まずはサラリエさんに試し、もしも本物だと解ったなら。今後、この先のあなたの人生で幾つかやって頂きたい事があるのです」
「私に将来の時間を売れと?」実質の命の取引だった。人生を賭した。
「そんな大業な事ではありません。それ程に難しい事でもありません。これは恩義の押し売りになります。それを返してくれるかは、あなたの商人としての良心の判断にお任せします」
「良心の判断・・・」彼は不思議な事ばかりを言う。更に彼は畳まれた上質紙を取り出して、小瓶と共に机の上に差し置いた。目の前に置かれた薬と紙。
「これは契約です。これが本物であったなら、この紙に書いてある事をやって頂かねばならない」
「不履行。違反した場合は・・・」
「そうはなりませんよ。あなたはそちらを選ばない。先程、サラリエさんを死なせろと聞いたあなたは少しも動揺しなかった。紛れもない、あなたの愛を私は信じます」訳が解らなかった。彼の言葉がではなく、彼が私に何を求めているのかが。金を出せ、命を差し出せと言われたほうが、余程納得が出来ただろう。彼は神でも、まして悪魔でもなかった。
「その取引をお受けします」私は納得以前に自らの望みを返し、その2つを受け取った。お互いに大きく頷き合うと、彼は水も飲まずに席を立って一礼した。踵を返して出て行こうとする。
「済みません。まだ、あなたのお名前を伺っておりませんが」
「大丈夫です。私の名前は変わるかも知れませんし」また彼は不思議な言葉を呟いた。
「これから、あなた様はどちらへ?」
「行く充てはありませんが。強いて言うなら・・・」その後に続いた彼の言葉と、彼の悲しそうに薄ら笑う表情を、私は生涯忘れる事はないだろう。
本物ならとても貴重な薬である。私はそれを何十倍にも水に薄めて、飲用水に混ぜてみた。
なんと2日後に妻の目が開いた。3週間が過ぎ、漸く自分で起き上がり、2ヶ月後には立ち上がり歩行の訓練を開始した。会話が戻るにはそれから更に1ヶ月を要した。これはもう疑うべくも無く、本物の上級ポーションであった。
すっかり料理も出来るようになった私が、妻への流動食を作り終えた所で。その日、初めて彼に貰ったメモ紙を読んだ。
「そうか・・・。そうなのか」その内容に目が眩む。昔の私なら鼻で笑って破り捨てていたと確信出来る程の内容。もう神も悪魔も信じはしないが、彼の事だけは信じられる。何せ、本物のポーションを私たちにくれたのだから。
それから顔を上げ、庭先で歩行訓練中の妻を見つけると、大きな声で叫んだ。「飯を食ったら町へ行こう。そして、そこから始めるんだ!」
「今度はいったい何を始めるの?」まだ本調子ではない妻の、その顔が不安で曇る。
「なーに。ちょっとした恩返しさ。私たちの命の恩人へのね」その言葉を聞いて、サラリエの顔も綻んだ。昔に見た美しくて優しい、心からの笑顔。それに満足した私は、手元に目を移した。そこには中身が空になった、真透明な小瓶。
「さぁて。恩返しはこれからだ。忙しくなるぞ」勢い良く席を立つ。
恩には恩を、恩義には恩義を返す。それが私の商売に対する基本方針となった。空は私たち夫婦の新たな門出を祝うかのように、澄み渡った快晴の青空だった。