社会的見地から考える「神聖かまってちゃん」
自分はもっぱら神聖かまってちゃんというバンドを純粋にアーティストとして論じてきた。今回は見方を変えて、社会の方から見てみようと思う。ただ、社会、歴史に関する自分の知識はあやふやなので、推量的に、アバウトに論じる。
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さて、神聖かまってちゃんというバンドが出てきたのは、の子が二十三歳くらいの時だから、今から七、八年前くらいだろうか。思えば時間が結構立っている。
神聖かまってちゃんというバンドはネット上の活動を主としている。あまり知識のない人は、神聖かまってちゃんを「頭のおかしい狂人」あるいは「狂人を演じている人」「ライブで滅茶苦茶する人」みたいに思っているだろう。そう思われるのは神聖かまってちゃん自身がそう演じてきたからだ。ただ、ここにはある種の必然性みたいなものがある。の子という、外面とは違い、非常にオーソドックスな詩人的魂を持った芸術家が社会の表面に浮かび上がるには、どうしてもあのような不自然な態度を取らざるを得なかったという事だ。僕はこの事を良いとも悪いとも思っていない。今は、純粋に社会と個人との関係で捉えていく。
昔の話からはじめよう。夏目漱石や森鴎外が活躍した日本近代文学、その始まりにおいては、文学を志したり、文学をしている人間は大抵、東京帝国大学という場所に集まっていた。優等生タイプには見えない、太宰治ですら、東京大学の仏文科に所属していた。これは現代とはだいぶ状況が違っている。現代では芥川賞作家が、日雇い労働者だったり、ニートだったりフリーターだったり、派遣労働者だったりしても、誰も全く驚かない。つまり、知識というのが一極集中から、全体に分散したという事だ。
漱石や鴎外の頃は僕らが思い描く文学というものの正体すらつかめていなかった。近代文学というのは西洋からの輸入でもたらされたのだが、当時のインテリ達はその正体をつかもうと必死だった。だから、漱石や鴎外がドイツやイギリスに留学したというのは、ただ日本のエリートが海外に行ったというだけでなく、日本全体の文化を背負っているという気勢があった。最初の文学者は大抵、語学ができた。最初の文学者達が外国語を習得して東大にいたというのは、昔の文学者は今と違って賢かったのだと人は言うかも知れないが、僕はそんな風には考えない。彼らがそもそも文学を志し、それを理解しようとするには、東京帝国大学という狭いコミュニティであれこれ翻訳したり考えこんだりしなければいけなかったわけで、今僕たちが当たり前のように知っている事を知る為に彼らは必死だったのだ。現代のように翻訳で、いろいろな国の文学や哲学を知るという事ができなかった。漱石や鴎外をはじめとする知的エリートは、国家や社会全体の動静とその運命をともにしていた。
現代は全く状況が代わっている。現在、東大に行くという事は知的ステータスのような意味合いが強い。「いや、東大にはもっと意味がある」という人もいるだろうが、まあ、それはいい。いずれにしろ、昔と違い、我々は様々な知識、情報をネットで、図書館で、自由に得られる事になった。それに伴い、かつての知的シンボルだったものは形骸化した。現代でも一応文壇というものが存在して、それは日本近代文学の延長にあるかのような感じだが、実際存続しているのは雑誌名などの表皮的なもので、知識、知性の本質は全く違う形に変わってしまった。
神聖かまってちゃんを作り上げた「の子」という人物の経歴は高校中退である。高校中退の後、の子はニートやフリーターをやっていたらしい。だが、の子は自分で音楽を勉強し、音楽につけるPVも一人で作り上げている。の子のそれらに対する教養は僕は別に、幅広いものでも深いものでもないと思う。しかし、高校中退した、どん底の人間が己を具現化する為の様々な知識は、ネットなどが彼に用意していくれていたのである。彼がアーティストとして自己表現する為の素材は、彼が規定のどこそこにいかなくても得られたのである。またその表現も、自宅にいながらネットで世界に向かって拡散できたのである。この二点が、の子という、オーソドックスな詩人が世界に向かって開かれていく過程で重要な要素である。の子が高校中退で、社会的にはいかに恵まれていなかったにせよ、彼は自分一人の力で自分の得たい知識を得られたし、その成果としての表現も世界に発表できたのだ。これを普通の事だと思うなら、例えば、中国とか北朝鮮とかなら、そううまくはいかない事が想像できるだろう。我々はどん底にいても、一応この社会に生きているという事で、現代日本が我々に与える恩恵は得られるのである。
ただそうは言っても、問題はある。現代は大衆社会であり、いろいろなシステムが形式化した、固定的な社会である。インテリはただクイズ番組に出て、クイズに答えるくらいしか能がなくなったのは、そもそも僕たちが本質的な意味でのインテリをそんなに必要していないからである。漱石や鴎外のように、社会が進歩発展する上で、未知の領域を開くインテリがそんなに必要と感じられていないからである。つまり、現代は戦後何十年も経って、それなりに発展し、進歩した。だから、大衆に必要なのは彼らの耳目を一時的に潤す人物だったり物事だったりする。それで、インテリもタレントもアイドルも皆、大衆に対して座興を提供する演者となっている。いわば、我々は豊穣故に、座興を見たがっているのであり、それ以上の事は大して望んでいない。(これはこれまでの所の話で、現在は風向きが変わりつつある。だがその事には今は触れない)
ただ、ここにも一つの問題がある。大衆の前に立つ、つまり「売れる」「スターになる」というのは現代では誰もが夢見る事だが、誰しもがこれを望んでいる為には、過当競争が生まれる事になる。また、人々は長年の平和のためか、自分達の感覚をガリガリと削るような、スキャンダラスなものを望んでいる。彼らは自分達を安定した傍観者の立場に置き、目の前の座興を論評してみせる。この傍観者たちに訴えるには、普通の方法では無理だ。だからこそ、の子とか、ホリエモンのような、おそらくは話してみれば案外普通な人間も、外面上は異常な、普通とは違う、神経を駆り立てるような姿で現れてきたのだ。現代はいろいろな事が麻痺している社会であり、この社会でまっとうな、賢者的な事を言っても誰も見向きはしない。人々が望んでいるのは異常なもの、珍奇なものであり、なおかつ彼らはそれを軽蔑したがっている。他には、自分達が楽に浸れる、都合の良い物語、価値がすぐにわかりやすいモデル、お笑い芸人なとが次々と現れてくる。
こういう状況の中で、神聖かまってちゃんというバンドは現れてきた。僕の見る限り、の子という人物は、非常にオーソドックスな芸術家である。そういう詩人的、音楽的な魂を持っている。しかしそういうオーソドックスな魂の芸術家が、オーソドックスでない形で現れてくるには以上のような社会が土台にあると考えられる。の子は世間に訴える為に、一応、世間が望んでいる姿に身をやつさなければならなかった。の子はその事を良く知っているだろう。の子は、オリコンで一位になるとか、もっと売れたいとか、Mステーションに出たいとか言っているが、一方ではそれらの事は「どうだっていい」という感覚も持っている。そういう事をインタビューで言っているのを聞いた事がある。
僕にはの子が何故、そういうのか、よくわかる気がする。一方では社会に訴えかけ、のし上がりたいという気持ち、もっと言えば、人に認められたい、人に自分の価値を知ってもらいたい、「かまって」もらいたい、という気持ちがあり、もう一方ではそういう人々に反発し、自分の作品の中に没頭し、孤独の中に価値を見出している、そういう二人の「の子」がいる。僕にはその気持がよくわかる。の子という人物にはこういう二重性が絶えずあって、この二重性が彼の魅力の源泉をなしているのだと思う。例えばこれと勝間和代を比べてみれば、勝間和代は社会に認められているようで、社会に踊らされている個人の姿が透けて見えるばかりだ。
神聖かまってちゃんという異端のバンドが、異端というスタイルを取ったのには上記のような状況があったからだと思う。現代ではいろいろな事が形式化、形骸化しており、資格とか学歴とかいうのが、表面的には支配している。資格や学歴が問題になるのは、それらに重大な価値があるからではなく、知識が全体に広がって分配され、差異を設けるのが難しい為に、社会通念上、一応、差異をつくり上げる為にある。もちろん、資格や学歴に価値はあると言ってもいいが、僕は現代の傾向性を言っている。この社会においては差異というものが、根底的になくなってきている。だからこそ、社会通念上、社会構成上、一応の差異を設けなければならない。(2chで年収の話がしょっちゅう出てくるのも同じ事情だろう) 人間は人を見下したがるし、人から尊敬されたくもあるし、「あいつは俺達とは違うから」と言い訳もしてみたいのである。だからこそ、差異は設けられなければならない。その為に色々なシンボルができあがる。
しかしあらゆるシンボルを持たない、高校中退の少年は独力で世界に己を明かさなければならなかった。だからこその子は「キチガイ配信」みたいな一見異様な行動も取った。この行動が見識ある人から嫌われるのはある意味当然の事である。ただの子の方にはそういう社会に訴えかけるには、自分のやった愚かさが必要であったと感じているだろう。神聖かまってちゃんが世の中に出てくるというのは、そういう現代社会との関係があったと思う。この論自体は、ここで終わる事にする。ちなみに、そういう神聖かまってちゃんがこれからどう評価されるかというのはこの社会自体がどうであるかという事と関連性があると見ても良いだろう。僕としては、の子の仕事の意義は、「ロックンロールは鳴り止まないっ」から「美ちなる方へ」という一連のPVにあったと思う。社会の極小の一部としての僕個人には、これらのPVが一つの啓示として現れたのだった。