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Samsara~愛の輪廻~Ⅰ(序章)  作者: 二条順子
3/5

03.揺れる心

季節は夏から冬へと足早に駆け抜けて行った。

長野地方は今朝、例年よりも早く初雪に見舞われた。

うっすらと雪化粧を施した庭の木々が水墨画のように美しい。

亜希は、もう誰の目にもはっきりと分かる八か月を迎えていた。

志津江の暖かい思いやり、舞の無邪気な明るさに囲まれ穏やかな日々を

送っている。


亜希にとって拓也は初めて本気で好きになった男だった。

彼と過ごした時間、交わした会話の一つ一つが、目を閉じると

映画のシーンの一齣一齣のように瞼の裏に鮮明に写し出される。

彼の腕の中で何度も何度も、このまま時が止まって欲しいと思った、

あの切なく甘美な感触が躰の奥深くに残っている。

拓也の裏切りをどうしても信じることができない。時々ふと、この半年

余りのことが夢の中の出来事のように思え、「遅くなって、ゴメン!」とでも

言いながらひょっこり姿を現すような気がする。

そうあって欲しいと願う気持ちがまだ自分の中にあることが、たまらなく

悲しくて、つらくて、やりきれない。男に捨てられたという事実を現実の

ものとして受け入れられずにいる自分が、哀れで、みじめで、情けない。


耕平にめぐり逢わなければ、彼のやさしい愛がなければ、今の自分はいない。

絶望の淵から生きる希望を見い出してくれた彼には心から感謝している。

好意も寄せている。けれど、その想いは、まだ恋愛感情には至っていない。

何も迷わずこのまま黙って大きな胸の中に飛び込めば、子供のころから

憧れていた平凡で暖かな家庭を手にすることができるだろう。が、本当に

それで良いのだろうか。心のどこかに拓也を引き摺ったまま耕平の想いを

受け入れることは許されない・・・


迷いと葛藤を繰り返した亜希は、耕平に何もかも打ち明け、自分の正直な

気持ちを伝えた。

生まれてくる子供を私生児ではなく高村耕平の実子として、未婚の母ではなく、

高村耕平の妻として育てていくには、そしてなにより、耕平の誠実な愛に

報いるためには、拓也への想いを完全に断ち切り、彼の存在を自分の中から

抹消しなければいけない。それにはもう少し時間が欲しい…と。

耕平は何も言わず、すべてを受け入れたように強く亜希を抱きしめた。



* * * * * * *



「よおっ、久しぶり! 元気してた?」

「なーんか、耕平、生き生きしてる。やっぱ、若いカノジョのせい?」

「…」

「本気なの? ひと回りも年の離れた相手と… ちょっと癪だけど、

綺麗なね、若い頃の陽子に似てる」

杏子はティースプーンを弄びながら悪戯っぽく笑った。



島崎杏子とは高校の同級だった。高三の時、父親の転勤で東京から

転校してきた。どこか都会の匂いを漂わせ大人びた感じで、回りの

同級生たちとは一線を画していた。なぜか耕平には心を開き、陽子と

三人で休みの日に洋画を見たりコンサートに行ったりした。

卒業後は東京の大学に進学し、広告関係の仕事に就いた。

一年ほど前からニューヨークと東京を往復する生活をしている。


「そんなびっくりした顔しないで。久しぶりに実家へ行って親孝行

してきたの。その帰りに陽子にお線香を上げようと思って、ちょっと

おばさんちに寄ってきた」

「そっか…」

「耕平もおばさんもどうかしてるわ! 二人ともあの娘の中に陽子を

見てるとしか、私には思えない。ほんとに結婚するつもりなの?

本気で、自分の子でもない子供の父親になる気?」

「ああ、俺は本気だよ。確かに最初は君の言う通りだったかもしれない。

けど、今は違う。彼女のこと真剣に愛してる」

「まあ、ずいぶんはっきりと言ってくれるわね」

呆れたように耕平の顔をまじまじと見た。

「お腹の子の父親のこと聞いてるの? 彼女アメリカにいたそうじゃない、

青い目や黒い肌の子供が生まれてくる可能性だってあるわけよ。

それでもいいの?」

「正直に何もかも俺に話してくれた。それに… 」

「あまいなあー」

耕平の言葉を遮るとバッグから煙草を取り出した。

カルティエのピンクゴールドで火をつけると、杏子はふーと大きく煙を吐いた。

その手慣れた仕草は洗練された都会の女のものだった。


「…そんなの都合のいい作り話かもしれないじゃない。今の若い娘って、

あなたの想像もつかないくらい凄いのよ。おばさんや舞ちゃんに取り

入って、すんなり医者の妻の座をゲットするんだから、彼女もたいした

もんだわ」

「亜希はそんな女じゃない‼」

耕平は自分でも驚くほど強い調子で反論した。


「もう今のあなたに何を言っても無駄みたいね。でも、親友として

一つだけ忠告させて。もし今の職場で頂点を極めたいなら、仕事が

できるだけじゃダメよ。少しは周りのことにも目や耳を傾けて、

ライバルは蹴落とすくらいの勢いじゃないと。自分のところの学生に

手をつけ妊娠させたなんて噂でも流されたら、あなたはおしまいよ」

耕平の顔をキッと見据えた。

厳しい男社会の業界内で女が管理職のポストを手に入れるのは容易な

ことではない。杏子はおそらく競争相手を陥れるような非情な手段も

辞さず、ここまでのし上がってきたのだろう。


「ご忠告、ありがたく承っておきます」

「じゃ、ま、若い奥さんのために老体をあまり酷使しないように。

どーぞ、お幸せに!」

皮肉たっぷりに言うと慌ただしく席を立った。


(相も変らずだな。昔とちっとも変ってない…)

突然、人を呼び出して自分の言いたいことだけ言って、さっさと

帰って行く。杏子の我儘、気まぐれには昔からずいぶん振り

回されてきた。

久しぶりに再会した同級生の後姿に苦笑しながら、耕平は残りの

珈琲を飲み干した。



* * * * * * * 



(なんで、こうなるんだろ… )

耕平の前ではいつもあんな風に勝気で、可愛げのない、嫌味な女に

なってしまう。


杏子は昔から耕平のことが好きだった。

親の都合で不本意ながら田舎の高校に転校させられた時、単身赴任を

断固として拒む父と、それを容認する母をずいぶん恨んだりもした。

同級生の男子たちを“信州の山猿”程度に見ていた。

耕平だけは別だった。頭脳明晰な上、自分好みの端正なルックスに一目で

魅了された。プライドの高い杏子は一度も告白したことはないが、はじめて

出逢った十七歳の頃から現在に至るまでその想いはずっと変わらない。

当時、耕平はすでに一級下の菊池陽子と付き合っていたっが、杏子には

彼を絶対自分のモノにする自信があった。それまで狙った獲物は確実に  

射止めてきた。そんな性格が災いしてか、彼女には女友達がほとんどいない。

結局、耕平は陽子と結婚し幸せな家庭を築いた。自尊心をずたずたにされた

杏子はNY支社への転勤を希望、仕事に逃げるように日本を離れた。


杏子は頭も切れるし仕事もできる、なかなかの美人で上司や同僚からも

一目置かれている。自他ともに認める才色兼備だが、むろん実力だけで

今の地位を築いたわけではない。営業実績を上げるため、女の武器を駆使し

ライバルからクライアントを横取りしたこともある。

顔のパーツが大きく肉感的な容姿を持つ彼女に、これまで言い寄って来る

男は何人もいた。が、耕平を越えるような男にめぐり逢うことはなかった。

妻を失くしたショックから立ち直れず抜け殻のようになった耕平に再会した時、

彼が望むなら積み上げてきたキャリアを捨てても構わないとさえ思った。

だが、その想いは杏子の一方的で独りよがりな妄想でしかなく、またしても

耕平には届かなかった。そして、今度は、突然現れた二十三歳の小娘に

あっさり寝盗られてしまった。


(陽子の時のような失敗はしないわ。絶対、奪い返してやる。

たとえ、どんな汚い手を使っても…)

色白で透明感のある清楚な美人ーー耕平好みの若い女の姿が脳裏に浮かぶ。

杏子の中で獲物狙う肉食獣のような闘争心がメラメラと湧きあがった。


















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