02.恋の予感
暑かった夏も終わりを告げ、九月に入ると信州地方は秋の色に染まり始めた。
志津江のところに来て一か月余り、亜希は徐々に元気を取り戻していた。
舞といる時は努めて明るい笑顔を浮かべている。それでも時おり見せる
翳りの表情に彼女の抱えている悲しみの深さ、苦しみの大きさが想像できた。
「おねえちゃん、こんどは、いっしょに、お絵かきしてえー!」
「じゃあ、クレヨンと画用紙もってきてね」
「はあーい!」
「もう、舞ったら、いい加減にしないと、おねえちゃんが可哀そうよ」
亜希に纏わりつく孫娘を窘める志津江の口元から笑みがこぼれる。
舞は母親に甘えるように亜希に良く懐き、以前よりもずっと明るくなった。
まだ二歳だった幼子の心にも母親の死は暗い影をおとしていたのだろう。
耕平はあらためて、両親不在の生活を強いている娘を不憫に思った。
アメリカに戻るという亜希を半ば強制的に義母の家へ連れてきた。
志津江は何も聞かず、暖かく亜希を受け入れ見守ってくれている。
彼女もまた亜希の中に最愛の娘、陽子の姿を重なり合わせているのかもしれない。
「耕平さん、確か、来週は学会でしょ、今回はどれくらい?」
「週の半ばから十日ほどの予定です」
「じゃあ、今年のお祭り、パパは無理ね」
志津江は残念そうに孫娘に目を遣った。
「あ、そうか、次の週末だったね。ゴメンな、舞」
「いいもん、おねえちゃんと行くから」
すまなそうに謝る父親に向かって舞はそっけなく応えた。
毎年、神社の秋祭りに一緒に行くのを楽しみにしている娘の冷たい反応に、
耕平は志津江と顔を見合わせ苦笑した。
ワシントンDCでの学会の後、耕平はメリーランド州にある大学病院を見学に
訪れていた。ここの小児科病棟は、小児がんや脳腫瘍、白血病などで長期入院
を余儀なくされた子供たちのための院内教育施設が充実していることで知られ
ている。親日家だという病院職員の中年女性が丁寧に説明しながら病棟内を
案内してくれた。
最後の娯楽室に入ると窓際に大きなグランドピアノが置かれていた。
そばの棚の上に並べられた一つの写真立てに耕平の眼は釘づけになった。
子供たちに囲まれ満面の笑みを湛える若い東洋人女性。傍らで彼女に寄り添う
ように白衣を着た長身の男が立っている・・・
写真をじっと見つめる耕平に案内役の女性は、待ってましたとばかりにその
写真の説明をはじめた。
南部訛りの彼女の早口の英語を要約すると、「ボランティアとしてピアノを
弾いていたアキは、子供たちからとても慕われていた。彼女は素晴らしい
ピアニストで、クリスマスやイースターの演奏に皆が感銘を受けた。そして、
日本人ドクターの “タク” とアキは誰もが羨むような恋人同士だった」と、
いうことになる。
“奥寺拓也”ーー
それは数か月前、医局に集まる若い連中の間で話題に上った男の名前である。
「すげぇー 逆玉だよな!」
「それ、ちょっと違うんじゃないか? 逆玉ってフツ―は、俺たちみたいな
ド庶民が金持ちの令嬢を射止めることだろ?」
「まっ、どっちでもいいけど、やっぱ、いいよなあー」
都心の一等地にある奥寺クリニックは、莫大な資産をバックに最新の医療
設備を導入、有名大学病院から高額な報酬で引き抜いた優秀な医師たちを
揃えている。某インテリアデザイナーが手掛けたとやらの、一流ホテルの
ロビー並みの待合室にはBGMが流れる。パステルカラーに身を包んだ美人
揃いのナースたちが笑顔で応対してくれることで、今、評判の病院である。
そこのアメリカ帰りの息子が、出身校の名門私立大学医学部教授の
(主婦向けの昼のワイドショー医学相談コーナーで人気があるらしい)
一人娘と婚約したことで女性週刊誌を賑わしていた。
耕平には興味のない話なので適当に聞き流していたが、民間病院に比べ
収入の低い医局に残った若い研修医や医局員にとって、義父の人脈と
実父の財力でピラミッドの頂点にある教授の椅子を、簡単に、しかも
確実に手に入れるであろう男はやはり羨望の的のようだった。
写真の中の亜希は本当に幸せそうだった。そんな彼女を死の淵に
まで追い詰め、笑顔を奪った男・・・
絶対に許せないと思った。その男が同業の医者であることにさらに
激しい怒りを覚えた。
耕平はこの時、亜希に対して好意以上の感情を持つ自分をはっきりと
意識した。
* * * * * * *
九月も半ばを過ぎると、残暑の厳しかった東京もめっきり涼しくなり
街にも秋の気配が漂いはじめた。帰国した耕平は雑用に追われ長野に
帰りそびれていた。無性に亜希に逢いたかった。この週末は帰る
つもりでいたが、できればその前に二人だけの静かな時間を持ちたいと
思った。金曜の午後、亜希を東京に呼び寄せコンサートに行き、食事をし、
最終の新幹線で長野に帰ることを思いついた。
舞から少し解放されて良い息抜きになると、志津江も大賛成してくれた。
待ち合わせのコンサートホールには亜希が先に来ていた。
大理石とマホーガニーで統一された落ち着いた構えのロビーにはシックな
装いの老若男女が開演を待ちわびている。ソファに座りプログラムに目を
通している亜希は周りの雰囲気と溶け合い、いつもよりずっと大人びて
見えた。なぜか、すぐに声をかけるのが躊躇われしばらくの間そんな
彼女の姿を柱の陰からそっと眺めていた。
「悪い、待たせた?」
「いいえ、私も今来たところ。でも、先生にクラッシックの趣味が
あったなんて…」
「似合わない、かな?」
「なんとなく…」
亜希は俯いて可笑しそうにくすっと笑った。
こんな風に二人きりで会話をするのは初めてだった。彼女は長野にいる時
よりどことなくリラックスしているように見えた。
二時間の上演時間はあっという間に終了し、耕平は久しぶりに生のオーケ
ストラの醍醐味を堪能した。特にクラッシクの趣味があるというわけでは
ないが、オペの前にCDを聴くことがよくある。亜希も演奏にうっとりと
酔いしれているようだった。
コンサート会場を出ると外は雨だった。隣接するホテルのレストランに
予約を入れておいた。遅い時間にもかかわらず、ウィークエンドの夜を
エンジョイするカップルたちで賑わっていた。場所がら外国人の客も多く
様々な言語が飛び交っている。三十二階から見下ろす雨に煙る都心の夜景も、
一瞬、ここが日本ではないような錯覚すら起させる。
テーブルの上のキャンドルの灯りに写し出された亜希の顔がきらきらと
輝いている。耕平は彼女を連れ出してよかったと思った。
ホテルを出ると、雨は一段と激しさを増していた。
東京駅に向かうタクシーのラジオから、停滞する秋雨前線の影響で長野
地方が局地的な豪雨に見舞われ、新幹線が上下線とも全面ストップした
というニュースが流れた。
(まいったな…)
耕平は仕方なくタクシーの行き先を駅からマンションへと変更した。
部屋に着くとすでに深夜を廻っていた。亜希に寝室を譲り、自分は
リビングのカウチで寝ることにした。
寝室から何かに怯えるような亜希の声がした。
ノックをしたが返事はない。中に入ると、何か悪い夢にでも魘されて
いるようだった。ベッドに近づき肩に手をやると、いきなり物凄い
力でしがみついてきた。身体は小刻みに震え、額にはうっすらと汗が
滲んでいる。よほど怖い夢を見たのだろう。
子供をあやすように優しく背中を撫でてやると安心したのか、腕の中で
軽い寝息を立てはじめた。赤ん坊を抱いて添い寝をするような格好で
耕平もベッドに横たわった。
どれくらい眠ったのだろう。雨は止み、窓の外は白みはじめている。
亜希はまだ腕の中にいた。薄明りの中で童女のように眠る顔をみつめて
いると、何かたまらなく愛おしいものに思え、言い知れぬ激しい感情が
込み上げてきた。
耕平は思わず唇を押しあてた。目を閉じたまま亜希はそれに応える。
激しくお互いを求め合うように二つの唇が重なり合っていく・・・
亜希は、か細い声で「抱いて」と言い、喘ぐような熱い息を洩らした。
耕平は、一瞬、躊躇った。が、身体はすでに彼女の言葉に反応している。
六か月を迎えたばかりの亜希の裸体は眩しいくらいに綺麗だった。
豊かさを増した形の良い乳房、服の上からはあまり目立たなかった
下腹部の膨らみは、そこに確かに新しい命が息づいていることを
物語っている。透明感のある瑞々しい肌は、上質な絹織物のように
しっとり滑らかで柔らかい。
美術品にでも触れるように、耕平の手が優しく亜希の全身を愛撫する。
若い肉体は悶えるように激しくそれに応えてくる・・・
耕平の頭の中から戸惑いも、躊躇いも、理性も消えていく・・・
下半身はただ、雌を求める雄のように激しく脈動を開始し、何か強い
エネルギーにでも導かれるように静かに亜希の中に入っていった。
* * * * * * *
カーテン越しに差し込む柔らかな光の中で亜希は目覚めた。
時計を見るとすでに十時を廻っている。
明け方の余韻が心地よい気だるさとなって身体の深部に残っている。
遠くに想いを馳せるように、ゆっくりと目を閉じた。
・・・FMラジオから流れてくるオールディーズの軽快なリズム、
トーストの焼きあがる香ばしい匂い、引き立ての珈琲豆から漂う
ヘーゼルナッツの甘い香り・・・
時間がゆったりと流れる週末の遅い朝ーーそれは、愛する男の腕の中で
目覚め、愛されていることを実感する満ち足りた空間だった。
(男って、あんなにも見事に恋人役を演じ、あんなにも鮮やかに女を
欺き、なんの躊躇いもなく女を裏切ることができるものなのだろうか…)
閉じた目から涙が溢れた。
遠い昔、少女の頃に夢見たような甘美な恋物語は、あまりにも儚く、
虚しく、まるで蜃気楼のように亜希の前から忽然と姿を消した。
(俺は、十以上も年の離れた若い娘を本気で愛しはじめている…)
カウチに寝そべりながら、耕平はマルボロに火をつけた。
煙りがゆっくりと立ち上りゆらゆらと揺れている。
電流のように全身を駆け巡ったあの鮮烈な快感は、もう忘れかけていた、
いや、これまで味わったことのないような新鮮な快楽だった。
妻の死後、女を抱かなかったわけではない。ただそれは、定期的に
身体の中に溜まった老廃物を処理するような、何の感情も伴わない、
事務的な行為に過ぎなかった。
亜希はまるで何かにとり憑かれたように興奮し、激しく男を、おそらく
奥寺拓也を求めていた。自分を裏切り捨てた男のことをまだ愛している
のだろうか・・・
亜希の身体をあんなにも燃え上がらせた若い研修医に、耕平は軽い嫉妬と
羨望を覚えた。