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Samsara~愛の輪廻~Ⅰ(序章)  作者: 二条順子
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01.車窓の女

愛の輪廻りんねーー 命に限りがあるように永遠に続く愛は存在しないかもしれないけれど、死と再生を繰り返す不滅の愛は在ると信じたい……。



~亜希、その愛 Ⅰ~

陽子を失くしてから二年、耕平の中にぽっかりとあいた心の空洞を埋めてくれる

ような女は未だ現れない。子持ちとはいえ、都内でも有数の大学病院に勤務する

美形の外科医、群がってくる女は星の数ほどいる。だが、誰一人として硬く

閉ざしてしまった彼の心を打ち砕くことはできない。

車窓に寄りかかり虚ろに宙を見つめる若い女を見た瞬間、耕平の心はいつになく

動かされた。どう見ても一人旅を楽しむ若い娘の姿ではない。

とてつもない大きな悲しみと絶望の中で身も心も打ちひしがれた人間の姿・・・ 

そう、妻を失った直後の自分の姿だった。

列車がホームに着き、三連休を行楽地で過ごす家族連れや観光客の群れに紛れ、

消えて行った彼女のことがひどく気にかかった。どこか、出逢った頃の陽子に

似ていたせいかもしれない。

(俺は、まだ死んだ女房を引き摺っているのか…)

苦笑しながら娘の待つ妻の実家へと足早にホームの階段を駆け下りて行った。



「パパっ!」

「舞、いい子にしてたか?」

玄関先で一週間ぶりの父の帰りを待ちわびていた娘を抱き上げ頬ずりをした。

「お帰りなさい、暑かったでしょ。いま冷たいもの入れるから、さあさあ、

中に入って」

志津江も嬉しそうに娘婿を迎え入れた。


四歳になる娘は妻が亡くなって以来ずっと義母に預け面倒を見てもらって

いる。家族の居ない都内のマンションはただ寝るだけの場所となり、週末

ここで過ごす娘との時間が今の耕平にとって何よりも貴重なものになって

いた。時々ふと、この田舎町の診療所でのんびりやるのも悪くないな、と

思うことがある。確かに最新設備の完備した最先端の医療現場で医者として

腕を磨いていくことには、多いに魅力がある。だが、今の大学病院の実態は

患者のための医療という理念とはかけ離れたところで、教授をめぐる派閥間

の熾烈なポスト争い、どろどろした人間関係、野心や保身のために私利私欲

が渦巻く巨大組織に変貌している。



高村耕平は長野県下の小さな町で生まれた。幼くして父と死別、小学校の

教員をしていた母と二人の母子家庭で育ち奨学金で医大を出た、いわゆる

苦学生だった。同期には医者の息子が多く何不自由なく優雅に大学生活を

送る彼らとは馴染めず、都会暮らしはあまり性に合わなかった。

苦労して育ててくれた母親は医大卒業後しばらくして他界した。

暖かい家庭に人一倍強い憧れを抱いていた耕平にとって、陽子との五年間の

結婚生活はやっと手にした理想の家庭だった。

陽子とは高校の先輩後輩という関係からスタートした。耕平が研修医になると

すぐに結婚、東京で新婚生活を始めた。三年後には舞が誕生し順風満帆な

日々を送っていた、二年前のあの悪夢のような日まで・・・ 

陽子はあの日、二歳になる舞を乗せ郊外の大型スーパーまで車を走らせていた。

突然、前方から対向車線を越え一台のトラックが猛スピードで陽子の車に

突っ込んできた。ほとんど即死の状態だった。病院に駆け付けた耕平は変わり

果てた妻の姿に茫然となった。後部座席のチャイルドシートに座っていた舞は

奇跡的にかすり傷一つなく無事だった。耕平は一瞬にして最愛の妻、そして

息子を奪われてしまった・・・ 

陽子は二人目の子供を身ごもっていた。



耕平はいつものようにいつもの場所でストレッチ運動を始めた。

日曜の朝、この湖の周りを軽くジョギングするのが、仕事で溜まった一週間分の

ストレス解消法になっている。ふだんは静かな湖畔のあたりが今朝は妙にざわ

ついていた。

「救急車呼んで!」「人工呼吸できる人いないか?!」

人だかりができ緊迫した声が飛び交う。急いで駆け付けると、若い女が波打ち

際でぐったりと横たわっていた。その傍らで五、六歳の男の子が母親らしき女に

抱かれ泣きじゃくっている。

若い女に人工呼吸を施すと、すぐに大量の水を吐き出した。

「もう大丈夫だよ」

声をかけた耕平は、はっとなった。目の前にいるのは昨日新幹線の中で見たあの

若い娘だった。

「…あ、の、子は?」

彼女はうっすらと目を開け喘ぐように言った。

大丈夫だと応えると、安心したように再び目を閉じた。


けたたましいサイレンの音を轟かせ救急車が到着した。

念のため顔見知りの内科医がいる近くの総合病院に搬送した。

一通りの検査を受けている間、耕平は待合室でインスタントの不味い珈琲を

啜っていた。こんな風に待合室に座るのは、二年前のあの事故の日以来だった。

暫くして永井医師が経過報告にやってきた。


「意識ははっきりしているし、外傷もない。一応脳波も取ったが異常は見られ

ない。ただ… 彼女、妊娠してるよ。もう十三週に入ってる。

それと、精神的にかなり参ってるようだから、そっちの方は結構、時間かかる

かもしれんな。なんか “訳アリ” って感じだな…」

永井は医大の二年先輩にあたる。

耕平の脳裏に、車窓にもたれかかる女の寂しげな横顔が浮かんだ。

ふと、彼女は死に場所を求めてここへ来たのかもしれないと思った。

溺れている子供に遭遇し、無意識のうちにその子を助けようとした。そして、

朦朧とする意識の中でも子供の安否を気遣っていた。そんな彼女が、今巷に

溢れているような無責任で身勝手な若い女とはとても思えない。自分の中に

宿った新しい命とともに自らの命を絶とうとするには余程の理由があるはずだ。

言葉を交わしたわけでもない、列車の中で見かけただけの見ず知らずの若い

娘のことが、何故こんなにも気にかかるのか、自分の中でも説明がつかない。

ただ、どうしてもこのまま放って置けない、何とかしてやりたいという強い

思いに駆られた。


「お世話かけました」

先輩医師に礼を言い頭を下げた。

「あまり深入りせんほうがいいぞ、高村」

永井は後輩の胸の内を見透かしたように耕平の肩をポンと叩いた。


               

* * * * * * *



気がつくと湖のほとりに来ていた。思考回路が完全に遮断されたかのように

頭の中が真っ白だった。

ただ、このまま水の中に身を沈めれば楽になれるような気がした。

真夏の太陽に晒された湖水は火照った肌に心地よく、亜希の身体は湖の中に

ぐいぐいと吸い込まれていく・・・

「だれかぁ‼ その子を助けてぇー‼」

背後で突然、悲鳴のような甲高い声がした。

亜希の前方に黒い小さな物体が浮き沈みしている。はっと我に返り、その物体に

向かって夢中で泳ぎ出した。



成瀬亜希は二年前東京の音大を中退、友人を頼ってアメリカの東海岸へと

向かった。一年後に卒業を控えながら大学を辞めたのは、母親の突然の死による

経済的なものが表向きの理由だった。が、実際のところは、何もかもが嫌になり

今までの自分の人生をリセットしたくなった。

亜希の両親は正式な婚姻関係にはなかった。戸籍上、亜希は非嫡出子、いわゆる

私生児になっている。父親は売れない絵描きだった。地方の旧家の長男として

生まれたが、若い頃から芸術家気取りで家を継ぐ意志などまるでなく、早くから

親に勘当を言い渡されていた。定職もなく母が昼間は近所の子供にピアノを教え

夜はスナックで働きながら家計を支えていた。

ぐうたらな男と一緒になったばかりに母もまた父母兄弟とは絶縁状態にあった。

母は若い頃ピアニストを目指していた。果たせなかった自らの夢を託すように

娘への期待は大きく、物心つくかつかないうちにピアノの前に座らされ厳しい

レッスン漬けの毎日が続いた。

父は結局、亜希が小学校に上がる前『もう、描けない』という短い遺書を残して

富士の樹海に消えて逝った。母はそんな父のことを一度も悪く言ったことは

なかった。社会通念からすれば、とうてい容認されるような夫婦ではなかったが

互いを理解し信頼し愛し合っていた。そんな両親のことを少しばかり理解できる

ようになったのはだいぶ大人になってからだった。

天涯孤独の身となった亜希に母の死を悲しんでいる暇はなかった。

学生ビザを発行してくれる現地の格安語学スクールを探し出すと、身辺を整理し

母の残してくれた預貯金とバイトで貯めた全財産をかき集め、慌ただしくアメリカ

へと旅立った。


亜希の通う語学スクールにも日本からの留学生が何人かいた。

留学生と一口に言っても大まかに二種類に大別される。

フルブライト等の公的機関によって選別されハーバード、エール、コロンビアなど

アイビーリーグの名門大学に送られる、いわゆるエリートたち。私費留学でも大学

資格、さらに大学院でのMBAやPhD取得をめざし真剣に勉学に励む者たち。

そして、外国人に簡単に学生ビザを発行してくれる商業ベースの語学スクールの

ようなところに身を置き、自由気ままなアメリカ生活を体験する者たち。

前者が人生の「勝ち組」ならば、後者は「負け組」あるいは、その予備軍と言える

かもしれない。最初は皆それぞれに希望を胸に膨らませ毎日せっせとスクールに

通う。だがそのうち、思うように上達しない語学力に苛立ち所持金も底をつき、

親からの仕送りも期待できなくなる。そこで、とっとと見切りをつけて帰国すれ

ば良いものを、変な意地とプライドが邪魔をして出口の見えない迷路に入って

しまう。まずは生活のため日本食レストランなどでバイトを始める。

それが次第に本業のようになり、語学スクールは英語を学ぶためではなく、不法

滞在を免れるためだけに授業料を払うようになる。


亜希のアメリカ生活も来た当初は何もかもが新鮮で刺激的だった。

が、一年も経つと単調で色褪せたものになっていった。

スクールの日本人グループの中には挫折して帰国する者も出始めた。

明確な目的もなく、ただ母の敷いたレールの上を歩んできた受け身の人生から

逃げ出すための留学だった。貯えも乏しくなり、コリアン人が経営する日本食

レストラン兼カラオケバーで夜のバイトを始めた。亜希の心は揺らいだ。

だが、帰国したところで待っていてくれる家族がいるわけでもなく、

“大学中退、私生児、身元引受人なし” の若い娘にまともな就職口などあろう

はずはない・・・

拓也と出逢ったのは、そんな悶々とした日々を送っていた頃だった。


単調な生活を変えなければと思っていた矢先、ふと、目にしたネットの掲示板に

地域の病院でボランティアを募集していた。“ピアノ” の文字が目に飛び込んで

きた。もう二度とピアノとは関わらないつもりでいたが、活動の内容は週二回、

小児病棟でピアノを弾くという簡単なものだった。子供は好きだし英会話の勉強

にもなると思い参加した。

その病院にいた日本人が拓也だった。陽気でユーモアのセンスがある彼は患者や

ナースの間で人気があった。日本人というと今だに、背が低く度の強い眼鏡を

かけ、首からカメラをぶら下げているくらいのイメージしか持ち合わせない

アメリカ人にとって、長身で茶髪にピアス、流暢な米英語を話すイケメン研修医は

かなりのインパクトがあったようだ。

亜希でさえ、「へぇー、今時のお医者さんはこうなんだ」というのが拓也に対する

第一印象だった。同じ日本人ということもあって会話を交わすようになり、食事や

映画のデートを重ねるうちにほとんどの週末を一緒に過ごすようになった。

チャラい男を絵に描いたような外見とは異なり、中身は意外としっかりしていた。

生来の明るさというか、一緒にいるとポジティブなオーラに包み込まれるようで、

とにかく楽しかった。亜希は自分の生い立ちについて何も話さなかった。

拓也もあえて聞こうとはしなかった。ただ、彼のプロフィールはナースたちの間

ではけっこう知れ渡っていた。


奥寺拓也の家は代々続く医者の家系で父親は大きな病院の院長、兄は副院長、

次男の拓也も見かけによらず秀才だった。東京の私大医学部にストレートで入り

六年終了時には国家試験に合格、医師免許を取得した。教授の推薦を受け二年間

の予定でこの病院にやってきた。そして、どうやらその教授の一人娘と将来を

約束しているらしい。この事実を知った亜希は自分に言い聞かせた。拓也とは

所詮住む世界が違う、一年経てば自分の前から消えていくだろう。それまでの間

適当に楽しくやればいい、と。だがそんな強がりに反し、彼の存在は亜希の中で

大きな位置を占めるようになる。

そして、いつしか互いに惹かれ合い恋人同士の関係にまで発展する。

研修期間が終わりに近づいた時、拓也は亜希にプロポーズし「二週間後に必ず

迎えに来る」という言葉を残し帰国した。

だが、二週間経っても彼は戻ってこなかった。ずっと携帯もメールも繋がらない

状態が続き一か月が経過した頃、身体の変調に気づいた。市販の検査薬で妊娠の

事実を知り、不安はいっそう募った。音信不通のままさらに一か月が過ぎ、心身

ともに限界に達した亜希は成田行きの便に飛び乗った。



病室の白い天井をぼんやり眺めていると涙が溢れてきた。

“セレブの恋!電撃婚約!奥寺クリニックの御曹司……”

成田の到着ロビーで何気に手にした女性誌の一ページが、はにかむように微笑む

拓也とその傍らに寄り添うブランド物に身を包んだ女の写真が、頭の中に鮮明に

蘇ってくる。

彼を信じずっと待ち続けた。事故にでも遭ったのではないか、急病で入院でも

しているのではないか・・・

成田に着くまでの不安が予想もしなかった形で現実のものとなった。

(拓也にとって自分は、いったい、何だったんだろう… 生まれた時から

「勝ち組」の人生を歩んできた男が、偶々、「負け組」の女と出逢った。

期間限定の恋愛ごっこを楽しみ、賞味期限が切れるとゴミ屑のようにポイっと

捨ててしまった。まるで不要になったデータを処理するように、拓也は自分の

存在を消去してしまったのだろうか…)



「成瀬さん、気分はどう? それにしても自分の身体のことも考えずに

無鉄砲すぎるわよ。あの先生があそこに居合わせなければ、今頃、あなたも

お腹の赤ちゃんもどうなっていたことやら…」

人の好さそうな看護師が、亜希がここに運ばれてきた経緯を話してくれた。

自分を助けてくれたのが、高村耕平という東京の大学病院の医師であることを

初めて知った。


(あのまま、死なせてくれれば良かったのに…)

窓のブラインド越しに洩れてくる夏の強い日差しが、白い病室をよりいっそう

明るいものにしている。その明るさに耐え切れないように、亜希は目を閉じ

顔をシーツで覆った。






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