盥回し
「とにかく私は、こんなの認めませんからね。早く返してきてください」
妻は冷たく言い放った。
「そんなこと言ったって、可哀想だろう? 両親が同時に亡くなってしまったんだ……」
私はおろおろとしながら妻から視線を反らした。その先の布団には今日、私が預かってきたまだ言葉も喋れない赤子がすやすやと寝ている。
妻が両手を机に叩きつけた。古臭いアパートの電灯の笠が大きく揺れる。
「うちにそんな余裕なんて無いわよ! 何のために子供を作らなかったと思っているの!」
「し、親戚の子なんだぞ!」
「だからってうちで預かることなんか無いでしょう! なんだってこんな貧しい家で赤の他人の子を預からないといけないのよ!」
「あ、赤の他人だと! 親戚の子だって言っているじゃないか!」
私の声が怒りに震える。
対照的に、妻は冷たくあざ笑う。
「どうせ他の連中に頼み込まれて断りきれずに預かってきたんでしょう? 違う? それとも本当に子供が欲しかった? ふん、ろくに稼げもしない役立たずのくせに!」
事実である。私は何をやっても駄目だった。
「……それとこれとは関係ないだろう!」
私はどもるようにして答える。
「とにかく、うちには『これ』を『飼う』予算なんて一切ありませんからね! 何とかしなさいよ!」
「なんだと! 人を散々役立たずと言っておいてなんでもかんでも俺に任せやがってっ! 調子付くのもいい加減にしろっ!」
その時、赤子が火がついたかのように泣き出した。
「……ほら見なさい、子供なんてうるさいだけよ!」
妻が伏目がちになって嘲るように言う。
「さっさと捨ててきてよ!」
「犬じゃないんだぞっ! この子を何だと思っているんだ! 人間の子供だぞ!」
「そんなこと知った事じゃないのよ! 私にとっては邪魔なだけなの!」
妻は頭を抱えて金切り声を発した。
赤子がますます大きい声で泣き出す。
「とにかく! 『それ』を黙らせてよ! でないと本当に黙らせるわよ!」
彼女がここまで赤ん坊を嫌悪するのには理由がある。彼女の両親は、変死しているらしい。
死んだ親戚の、子供を預かった次の日に。
その時、妻は修学旅行に行っていたので詳細は分からないらしいのだが、彼女はその『餓鬼』のせいだと信じて疑わない。
彼女が帰ったとき、腐りかけた両親の死体の横で赤子が泣いていたという。
預かってきた子はまだ言葉も喋れない赤子だったと聞くのだが。
妻の目に殺気が浮かんでいるのを見てぞっとする。
「お前……殺そうというのか?」
「だから、そうなる前に早く『それ』をどこか別の所に持ってってよ!」
「……分かった、分かったよ、明日のうちには何とか受け取り先を探してみるから」
妻はやっと感情を押さえ込んだようだった。
「……お願いよ、私、子供が同じ家の中にいるなんて……耐えられない……」
妻はそう言うと、寝室に入って行った。
「たかが赤ん坊じゃないか」
一件落着したことにほっとしながら、私は密かに苦笑した。
うちは確かに貧乏だが、それ以上に妻は赤ん坊に対する憎しみに耐えられないのだろう。もっとも、他の赤ん坊にはとんだとばっちりである。
いつの間にか赤子はまた泣き止んでいた。
私と妻は寝室が別である。
私はベッドに潜り込んだ。
……そういえば、妻の両親が預かったという赤子は、どうなったのだろう?
気味悪がって誰も受け取ろうとしなかったのではないだろうか?
まあ、今となってはわからない。
……待てよ、その境遇は自分たちにとっても同じことである。
死んだ親戚の……死因。
死因は何だったのだ!
葬式の時にも棺の中は見せてもらえなかった。
彼らの家は、裕福で、とても幸せな家庭だったが、『子供が居なかった』という。
子供が居なかった?
『彼らは大層喜んで赤子を預かったらしい』。
……預かった?
いや、確かにそう言っていた。
それなら、その赤子は……どこから来たのだ?
まさか……まさか……妻の両親の親戚もやはり……。
同じ子を……。
妻が昔修学旅行に行ったとき。
彼女が出た二日後に両親は死んでいたらしい。
修学旅行は1週間のものだったという。
なんで……5日間も生きていたんだ!
一歳児に食事を調達する事などできるのか!
じゃあ、あの赤ん坊は、もしや……。
馬鹿な、途方もなく馬鹿な考えだ。
妻の両親が死ぬ前日に沢山ミルクをもらっていたに違いない、そうだ、その日なら、歓迎の意を込めて沢山ミルクをやったことも考えられる。
それに、年齢が合わない。
人間は、必ず成長するのである。十数年もの年月を経て、『年齢が全く変わらない』訳が無いのだ。
別の子供に違いない。そもそも、十数年も前の、ただの赤子がここに成長せずに居るのは絶対に可笑しい。
ここに居るのは、ただの赤子だ。
そうだ、こんな当たり前のことになんで気付かなかったのだろう!
……それでも、不安はいつまでも胸に残った。
その夜は眠れなかった。
朝である。
妻が朝食を作っている。
「あなた、『あれ』は早くどこか別のところに移してくださいよ」
「あぁ」
妻は機嫌が少し直っている。昨日の喧嘩が嘘のようである。家族とはそんな物である、これからも結局はずっと一緒に居る。睨み合うのは疲れるだけである。
私が長い間かけて妥協した結果出した結論だ。
そういえば。そういえば、あの子の名前を私は知らない。
「……それで、あの子はどうしたんだ?」
「さあ、布団の中には居ませんでしたけど?」
どこだ……どこに行ったんだ!
泣き声、間違いなく赤子の。
「探してきますね」
妻が抑揚の無い声でボソリと、包丁を持って台所を出た。
私はだが、それを止める事は出来なかった。
私自身、自分の中で抑えがたい疑惑が膨らみあがってきていたのだ。
貧乏で、狭い家である。
直ぐに見つかる。はず。
だが……赤子は家中どこを探しても居ない。
泣き声。
泣き声。
泣き声。
泣き声。
どんどん音が大きくなってゆく。
「やめて……やめて……やめてよぉっ!」
妻が頭を掻き毟る。
狂ってしまう。
どうにも言い難い声のトーンだった。
悲しいようには聞こえず、勿論わがままを言っているようにも聞こえない。感情が感じられない。
ただ、泣いている。
いや、鳴いている。
これは、果たして本当に人間の赤ん坊の声か?
だって……この音の大きさは……何だっ!
何だというんだ!
音は大きくなるばかりである。
いや、近づいてきている。
こんなに大きな音を……赤ん坊は出すのか!
もはや音だけでランプの紐は揺れに揺れている。
空気の振動だけの地震のようだ。
しかも声がだんだん低くなってゆく。
最後には……哂い声に。
低い、おぞましい哂い声である。
声、いや、音が真後ろに感じられる。
妻は気絶している。
いや……狂って死んでしまったのか。
彼女の表情にはそのような凄惨な物があった。
……後ろを振り向く。
居た。
赤ん坊だ。
目が真っ赤に染まり、残忍に見える歯がぎっしりと並んでいる。
それから出る緑色の舌は、べとべとの粘液をぽたぽたとたらしている。
指は長く、爪もギラギラに研がれている。
バケモノだ。
しかも、首には……。
首飾り……?
いや、肌色の首飾りなど奇怪なものはあるまい。
肌色?
……肌?
……首飾りは、『耳』だった。
その数は……数百はあった。
殆どライオンの鬣のように……耳が、首を覆っている。
……一年で殺せる数ではあるまい。だが、この赤子は一歳だと聞いた。
妻の両親の耳もこの中に……。
そしてこれから、二人の耳も……。
「うわあぁぁぁぁぁー!」
絶叫が止まらない。
喉が……つぶれる。
だが、私の本性は叫ぶのを止めさせなかった。
バケモノが、妻の体を引き裂こうと飛び掛る。
「止めろおぉぉぉぉー!」
私は妻の前に躍り出た。
バケモノは、問答無用で私の頭を押さえ込む。
凄まじい力である。
頭蓋骨が割れるか……。
思った瞬間、突然同じ力で引っ張られた。
両の耳が……引きちぎられる。
絶叫が聞こえなくなる。
凄まじい痛みが体全体に回る。
あ、あぁぁぁぁ……。
手が真っ直ぐ、朦朧としている私の視界を塞いだ。
いや、塞いでいるのは。
指だ。
爪だ。
両目が潰された。
…………。
あとは、食われていく感覚を味わうだけだった。
動けもしない。
両腕、両足が引きちぎられた。
内臓が好き勝手に弄り回された後、頭蓋骨を……片手で潰された。
―――十月七日、東京都○○区で二人の変死体が発見されました。死体は骨と潰された頭部のみという奇怪な状態で発見され、猟奇殺人の可能性が考えられています。同じ家に居た赤ん坊は無事だというのが不幸中の幸いと言えるでしょうか―――
ニュースキャスターは一瞬だけ沈鬱な表情を作り出して見せ、直ぐに次のニュースに移った。
できうる限りの放射能を一歳の幼児の死体に照射する実験を実行した研究所があったらしい。実験実行日、研究員全員が変死している。耳がなく、目と頭は潰され、ところどころ肉の残った骨だけが残ったという。そして……被験体は研究所から『消滅』。
以後、一切発見報告は、ない。勿論、たとえその赤子の正体を見た者が居たとしても、発見してから通報できるだけの生存期間が与えられるのかどうかは疑問である。
若い夫婦が居る。二人は布団の中の赤ん坊を眺めている。
「まあ、なんて可愛い赤ん坊だこと」
若い妻は微笑む。
若い夫も満面の笑みを浮かべる。
「だろう? 遠い親戚の人が死んだというので、その子供を引き取ってきたんだ……ベビーフード買ってきたんだ、食べるかな?」
「まさか。この子はまだ一歳よ? ミルクを作りましょうね」
いいや、赤ん坊は食べるだろう、なんだって。そう、例えば自分をこんな姿にした人間族の肉とか、これは大好物。
……あと一つ、忘れてはいけない。
人間は、お互いが全員遠い親戚である。