その花だけは、綺麗にしないでください
針を布に通すたび、絹が擦れるかすかな音がする。
ノエミ・ヴァランは作業台の隅で、手元の布にぐっと目を凝らしていた。奥の応接用の一角から聞こえてくる声に、意識の半分を持っていかれそうになるのを懸命に抑えながら。
「――ええ、もちろんすべて私の手仕事ですわ。この波打つような陰影を出すために、三種類の細番手の糸を縒り合わせましてね。図案の段階から、光の当たり方まで綿密に計算して針を運んだんですの」
よく通る、華やかで自信に満ちた声だった。
ベルタン刺繍工房の看板娘であり、客との折衝と意匠を一手に担うアニエス・ベルタンだ。彼女が貴婦人の前で広げて見せているのは、深い夜空のような青地に銀の星唐草が散るストールだった。
貴婦人は感嘆の声を上げた。
「まあ、素晴らしいわ。あなたがそこまで手をかけてくださったのね」
ノエミは息を詰め、布の裏側で針を結んだ。
あの糸の縒り方を考えたのも、グラデーションの段数を増やして陰影をつけたのも、実際に何十時間も肩を凝らせてあの細かい星唐草を刺したのも、全部ノエミだ。
アニエスが描いたのは、大まかな唐草の鉛筆スケッチ一枚だけだった。
最初は「私がデザインしたの」と言っていたはずだった。
それがいつの間にか、「私の作品」「私が刺した」にすり替わっている。
腹が立つと、どうしても針の動きが速くなる。
ザクッ、ザクッと、布を引く手に余計な力がこもる。引きすぎて同じ織り目に針先を突っ込みかけ、慌てて手を止めた。
言えない。
言えるはずがない。
アニエスは工房主の娘で、何より実際に優秀なのだ。
流行の最先端を掴む鼻が利き、気難しい金持ちの懐に飛び込む話術がある。彼女が華やかな笑顔で仕事を取ってこなければ、ノエミのような職人は布と糸に触ることすらできない。
仕事さえ丁寧に仕上げていれば、誰が作ったなんてこと、我慢すればいい。
職人なんて所詮、裏方なのだから。
そう自分に言い聞かせていた時、工房の呼び鈴がからんと鳴った。
入ってきたのは、仕立てのいい外套を着た若い娘だった。
派手さはないが、生地の良さから良家の子女だとわかる。胸元に大切そうに、古びた木箱を抱えていた。
アニエスが素早く貴婦人への挨拶を切り上げ、華やかな客向けの笑みで駆け寄る。
「いらっしゃいませ。ベルタン工房へようこそ。どのようなご用件でしょう?」
「あの……修復のご相談ができると伺って」
娘――ルシールはおずおずと名乗り、抱えていた木箱を作業台の上に置いた。
蓋を開けると、中から薄い絹の布が現れる。
白く、柔らかな花嫁ヴェールだった。
だが、全体的に黄ばみがあり、縁のレースもところどころ擦り切れ、銀糸の刺繍は黒ずんでいる。
「母が使っていた花嫁ヴェールなんです」
ルシールは布の端を指先でそっと撫でた。
「今年の秋に私の婚礼が決まりまして……母は三年前に亡くなったのですが、どうしても、母が纏ったこのヴェールを私も着けて式に臨みたくて。全体を綺麗にして、破れを直していただきたいのです」
アニエスの表情が仕事のものに変わる。
彼女は手袋をはめると、ヴェールを素早く広げ、傷み具合を検分し始めた。
「生地の経年劣化が激しいですね。縁のレースは全取り替え、中央の銀糸も一度すべて解いて、最新の立体的な花柄に刺し直したほうがよろしいでしょう。今の流行に合わせた、もっと格式高いヴェールに蘇らせてみせますわ。私に任せていただければ――」
「あの、待ってください!」
ルシールが強い口調で遮った。
アニエスの言葉が止まる。
ルシールは布の右下、縁に近い一角を指さした。
「全体を綺麗にしていただくのは嬉しいのですが……ここだけは。この一輪だけは、ほどかずに残してほしいのです」
ノエミも思わず作業の手を止め、身を乗り出した。
ルシールが指さした場所には、直径五センチほどの野薔薇が一輪、刺繍されていた。
周囲の精緻な職人仕事とは、明らかに違っている。
花弁の形は不揃いで歪み、中心の雄しべの位置は大きくずれ、糸の引き加減が一定でないため、布地が引きつれて小さく波打っている。
お世辞にも上手とは言えない、あからさまな素人仕事だった。
「これ、ですか?」
アニエスが眉をひそめた。
「申し訳ありませんが、お客様。ここは明らかに失敗した針目ですわ。糸の張りがばらばらで布まで傷んでいます。こんな歪んだものを残したら、全体の格が落ちてしまいます。解いて、私が本物の薔薇を刺し直しますから」
「だめなんです!」
ルシールの声が上擦った。
普段はおとなしいのだろう彼女が、目を吊り上げて木箱を抱え直すように身を引いた。
「このヴェールは祖母の代から受け継がれたものですが、母が自分の婚礼の前夜、どうしても自分の手で何か一つ残したいと言って、夜なべして刺したのがこの薔薇なんです。母は刺繍なんて全然できない人だったから……こんなに下手で。でも、母自身の手が入っているのは、このヴェールの中でここだけなんです。ここを消してしまったら、母のものじゃなくなってしまう!」
アニエスは冷ややかに唇を引き結び、ため息混じりに言った。
「お気持ちはわかりますけれど。婚礼はご親族や参列者も間近で見る晴れ舞台ですのよ? うちの工房の銘が入ったヴェールに、こんな素人がぐちゃぐちゃに刺したような塊が残っていたら、うちの看板にも傷がつきますし、何よりお客様ご自身が恥をかきますわ」
「看板だなんて……! 私は、母のヴェールだから直したいと言っているのに!」
ルシールの顔が悔しさと悲しさで真っ赤になる。
アニエスは「ですから、美しく整えるのがプロの仕事です」と、客の意向をねじ伏せるように言葉を重ねた。
自分のセンスと提案が最上だと信じて疑わない時の、彼女のいつものやり方だった。
ノエミの中で、何かがぷつりと切れた。
気がつけば、作業台から飛び出していた。
「――残せます!」
二人の視線が一斉にノエミへ向く。
「ノエミ、あなた口を挟まないで」
アニエスが鋭く睨みつけてきたが、ノエミの口はもう止まらなかった。
技術の話になると、いつも頭より先に言葉が走ってしまう。
「残したまま直せます! 縁の擦り切れは下布を当てて補強して、周囲の黒ずんだ銀糸だけを解いて打ち直せばいいんです。このお母様の薔薇は、糸の引きが強すぎて布が引っ張られているだけですから、裏の渡り糸を部分的に緩めて霧を吹いて寝かせれば、布の波打ちは収まります! 周囲の唐草の密度を少しだけ調整して薔薇の輪郭に寄り添わせれば、全体の調和だって壊れません!」
「ノエミ!」
アニエスが声を荒らげた。
「あんた、私が接客してるのが見えないの? 引っ込んでなさい!」
「でも、直せます! この一輪を消さなくたって、綺麗な花嫁ヴェールになります!」
ノエミはアニエスの剣幕に竦みそうになりながらも、ルシールを見た。
ルシールは縋るような目でノエミを見つめている。
「……本当ですか? 母の薔薇を、残してくださるの?」
「はい。完璧に真っ直ぐにはできません。でも、お母様が刺したそのままの形で、布を傷めずに綺麗に仕上げられます」
ノエミが早口で言い切ると、ルシールは深く息を吐き出し、アニエスに向き直った。
「私、この方のおっしゃる通りにやっていただきたいです。母の薔薇を消さない方法で、お願いします」
アニエスの頬がぴくりと引きつった。
客の手前、激昂するわけにもいかず、彼女は作り笑いを顔に張り付けた。
「……かしこまりました。お客様がそこまで強くご希望されるのでしたら、工房として全力を尽くしましょう。ご安心ください、私の監修のもとで完璧に仕上げてみせますわ」
ルシールが安堵して内金を払い、工房を出て行った。
店の扉が閉まる音と同時に、アニエスの表情から笑みが消えた。
「ノエミ。ちょっと来なさい」
工房の奥、意匠室に引きずり込まれるなり、アニエスは腕を組んでノエミを見下ろした。
「何様のつもり? 客の前で私に恥をかかせて楽しい? 私が提案をまとめてたのに、後ろから割り込んでくるなんて、職人の分際で弁えなさいよ!」
「で、でも……あのままじゃ、お客様はお帰りになってました! あの方は母の手仕事を大事にしてたんです。それを下手だからって消すなんて……」
「下手なものは下手でしょうが! 婚礼衣装よ? あんな醜い塊、ベルタン工房の納品物として世に出せるわけないじゃない! あんたが勝手に引き受けたんだからね、みっともない仕上がりになったら、あんたの給料から引くから!」
アニエスは早口で罵倒を浴びせ、机の上の見本帳を乱暴に叩いた。
ノエミは肩をすぼめ、指先をぎゅっと握りしめて耐えた。
ここで反論すれば、さらに三倍の言葉が返ってくる。仕事を干されるかもしれない。
(……でも、あの薔薇は残せる。私の手で直せるんだから)
ノエミは奥歯を噛み締め、小さく頭を下げた。
「すみませんでした」
*
修復作業は、想像以上に難航した。
木箱から取り出したヴェールを拡大鏡の下に置き、ノエミはピンセットと極細の目打ちを構える。
問題は、経年劣化した「月蚕糸」だった。
月蚕糸は、夜間に活動する特殊な蚕から取れる高級糸で、独特の鈍い銀色の光沢がある。
王都の婚礼衣装には欠かせない素材だが、このヴェールに使われているのは三十年ほど前の古い糸だ。
新品の月蚕糸を取り寄せて合わせてみた瞬間、ノエミは思わず額を押さえた。
「ああもう……全然違う!」
新品の糸は青白くギラギラと輝きすぎていて、時を経て柔らかい灰銀色に落ち着いた古い刺繍の隣に置くと、そこだけ継ぎ当てのように浮き上がってしまうのだ。
「これじゃダメ。馴染まない……」
古い糸を再現するため、ノエミは工房の染料棚を漁った。
茶葉の煮汁でわずかにくすませ、微量の灰汁に浸して光沢を抑える。乾かしては布に当て、ため息をついてやり直す。
三日目、ようやく色が合って針を通し始めたが、今度は母親の刺した野薔薇が問題になった。
お母さんの薔薇は、下地布を強く引き攣らせていた。
ノエミは教本通りの「完璧な修復」を試みた。
薔薇の周囲にきっちりとした対称の幾何学模様を補強として刺し、全体の歪みを引っ張って正円に戻そうとしたのだ。
だが、そうすると、母親の不格好な薔薇の歪みが余計に悪目立ちした。
定規で引いたような美しい線の中に、ひとつだけ奇妙にひしゃげた毛虫が転がっているように見えてしまう。
「違う……そうじゃない」
ノエミは針を止め、自分の頭を両手で抱えた。
綺麗な線で囲めば囲むほど、お母さんの下手さが浮き彫りになる。
お母さんの薔薇を無理に「正解」に合わせようとしているからだ。
(完璧に直しちゃいけないんだ)
ノエミは目打ちを取り、今刺したばかりの幾何学模様を躊躇なく解いた。
母親の刺した野薔薇は、右下の花弁が妙に大きく、茎が頼りなく曲がっている。
なら、周囲の職人の蔦模様を、少しだけその歪みに合わせて「受ける」ように刺したらどうだろう。
風に吹かれて野薔薇が揺れ、その風を蔦が受け止めているように、あえて周囲の針目をほんのわずか、不揃いに遊ばせる。
「……ここを、少し緩めて。光の反射をこっちに逃がして……」
ノエミの口から、無意識に独り言が漏れる。
指先が熱を帯びる。
針が布を潜るリズムが、一定の心地よいテンポを刻み始める。
古い糸と新しい糸の境目が、柔らかく溶け合っていく。
母親の下手くそな薔薇が、みっともない失敗作ではなく、まるで木漏れ日の中で咲いている野の花のように、自然に布地の上に息づき始めた。
「できた……!」
思わず声が出た。
まだ母の薔薇を囲む一角だけだったが、これなら最後までいける。
時計を見れば深夜を回っていた。
ノエミは疲労も忘れ、薄明かりの下でヴェールを掲げた。
歪んでいる。
でも、美しい。
翌朝、意匠室に現れたアニエスは、作業台の上に広げられたヴェールを見て、わずかに眉を上げた。
何かに気づいた顔をしたが、すぐに口元を引き締め、値踏みするような手つきで布の端を摘み上げる。
「……まあ、悪くはないんじゃない。糸の色浮きは抑えられてるわね」
素直に褒めないのはいつものことだ。
ノエミが少しだけ肩の力を抜いた瞬間、アニエスは何食わぬ顔で言った。
「これなら、お客様にも満足していただけるわ。今日の午後の途中確認では、私が考案した、濃淡をなじませる新しい補修法として説明しておくから」
手の中で持っていた小鋏が、チリと小さな金属音を立てた。
ノエミは思わず顔を上げた。
「え……? アニエスさん、何を……」
「何って、当たり前のことでしょ?」
アニエスは手帳を開き、さらさらとペンを走らせながら言った。
「あのお客様を工房に引き留めたのは、ベルタン工房の名よ。そして、あなたにこの作業を割り振ったのは私。意匠の最終決定権も私にある。対外的に『ベルタン工房のアニエス・ベルタンの最新作』として発表するわ。そのほうが工房の格も上がるし、宣伝にもなるの。あなたも工房の一員なら、全体の利益を考えなさい」
「でも……! 糸の色を染め直して、周囲の針目を調整したのは私です! アニエスさんは、解いて刺し直せって言ったじゃないですか!」
ノエミの声が震えた。
アニエスはペンを止める。
「客を取ってきたのは誰?」
「……アニエスさんです」
「意匠の責任を負っているのは誰? もし失敗して弁償を求められたら、あんたが払えるの? 払えないでしょう? 私が看板を背負ってリスクを取っているのよ」
アニエスは一歩踏み込み、ノエミの鼻先を指さした。
「あんたは指示された通りに針を動かしているだけ。職人なんていくらでも代わりがいるの。私が名前を売って工房を大きくしてあげてるから、あんたもご飯が食べられるんでしょうが。文句があるなら、自分で店を構えて、自分で客を取ってきてから言いなさい!」
反論したかった。
言っていることは滅茶苦茶だ。
私が刺したものを、あなたが刺したことにしていい理由になんてならない。
けれど、客を取る能力が自分にはないという部分だけは、痛いほど当たっていた。
自分一人では仕事の一枚すら得られない。
ここで追い出されたら、二度と刺繍の仕事なんてできないかもしれない。
仕事を失う恐怖が喉を塞ぎ、ノエミは唇を噛み締め、じっと床を見つめるしかなかった。
*
その日の午後、ルシールが途中確認のために工房を訪れた。
アニエスは明るい笑顔でルシールを応接机に案内し、ノエミにヴェールを持ってこさせた。
「ルシール様、お待ちしておりました。私の指示のもと、補修を進めさせていただいております。いかがでしょう、この全体の一体感。古びた風合いを損なわず、なおかつ気品ある仕上がりを計算いたしましたの」
ルシールは恐る恐るヴェールに手を伸ばした。
「まあ……! 色が、ちっとも浮いていませんわ。それに、母の薔薇が……」
ルシールの瞳が潤んだ。
彼女は母親の刺繍に指を触れようとした。
その時だった。
アニエスの視線が、母親の薔薇の右端、わずかに飛び出た不揃いな糸の塊に止まった。
ノエミが、母親の当時の運針の癖をそのまま残すために、あえて残しておいた玉結びの痕跡だった。
「あら……? ちょっとノエミ、ここ、糸の始末が甘いわよ。ダマになって布が突っ張ってるじゃない」
「あ、それは……! お母様が最後に裏で留められた糸が表に響いているんですが、それを切ると薔薇の花弁全体が解けてしまうので、あえて周囲を絡めて固定して……」
「薔薇そのものをほどくわけじゃないでしょう? 飛び出している糸を始末するだけよ」
アニエスは胸ポケットから、細工用の小鋏を取り出した。
「だめです、そこは切らないでください!」
ノエミは思わず一歩出た。
「その結び目で花弁まで留まっているんです。そこを切ったら、少しずつ緩んで――」
「もう、本当に細かいわね」
アニエスは苛立ったようにノエミの言葉を遮った。
「こんな歪んだ一輪のために、そこまで全部残す必要ある?」
ルシールが息を詰めた。
アニエスはそれにも気づかず、糸の結び目へ鋏を寄せる。
「せっかくここまで綺麗にしたのに。たった一本、見苦しい糸が飛び出してるだけで全部が安っぽく見えるじゃない。ここだけ整えてしまえば――」
「触らないでっっっ!!」
工房中に、けたたましい叫びが響き渡った。
ノエミは身体ごと割り込み、アニエスの手首を思い切り払いのけていた。
パチン、と乾いた音がして、小鋏が床の絨毯の上に転がり落ちる。
アニエスが打たれた手首を押さえ、目を剥いて立ち尽くしている。
ノエミは両手を広げ、ヴェールを背にかばった。
足は震えていた。それでも、鋏の前から退く気にはなれなかった。
「あんた……」
アニエスの顔が一気に赤くなった。
「あんた、狂ったの!? 客の前で私に何てことするのよ! 誰に手を上げてると思ってんの!?」
「触らないで……!」
ノエミの声は震えていた。
頬を涙が伝った。それでも、止まらなかった。
「残す価値がないなんて、あなたが決めるな! これは、あなたの作品じゃない!!」
「なんですって!?」
「私の作品でもない! このヴェールは……この薔薇は、ルシールさんのお母様が、娘のために残した手仕事なんです! 上手いとか下手とか、看板に傷がつくとか、そんな理由で……他人が一生懸命刺したものを、なかったことにしないでよ!!」
ノエミは袖で顔を乱暴に拭った。
「私が刺した見本を、あなたが自分が刺したって言った時、私は我慢した! あなたが仕事を取ってきてるから、図案を描いてるから、私の名前なんて消されてもいいって、我慢したよ! でも……これは違う! この薔薇は、お母様が刺したんだ! それを、見栄えが悪いからって、あんたの都合で勝手に切り捨てるな!!」
「ノエミ・ヴァラン!!」
アニエスが金切り声を上げた。
「いい気にならないでよ! 誰のおかげでこの工房が成り立ってるの!? 誰のおかげで高い糸を使って刺繍ができてんのよ! あんた一人じゃ、仕事の依頼書一枚だって取ってこれないくせに! ただ部屋の隅で針をチクチク動かしてるだけの分際で、私に説教する気!?」
アニエスは肩で息をしながら、ルシールに向き直った。
「ルシール様! お見苦しいところをお見せしました。この女は今すぐこの仕事から外します! ヴェールは私が、もっと腕の立つ別の職人を手配して――」
「いいえ」
ルシールの声が、アニエスの言葉を断ち切った。
ルシールは作業台に近づき、ノエミの後ろにあるヴェールを見つめる。
彼女の目は赤くなっていた。見ているのはアニエスの肩書きでも、工房の看板でもなく、ただ一枚の布だった。
ルシールはアニエスを見ず、ノエミに問いかけた。
「母の薔薇を……この歪んだまま、糸を切らずに、最後まで仕上げられるのは誰ですか?」
アニエスが口を挟もうとした。
「ルシール様、それは――」
「私がやります」
ノエミは涙を拭い、即答した。
「私が刺します。一本も糸を切りません。お母様の針目を全部残して、絶対に綺麗な花嫁ヴェールにしてみせます」
ルシールは小さく頷いた。
そして、アニエスに向き直った。
「ベルタン様。このヴェールの修復は、ノエミさんにお願いします」
アニエスはルシールとノエミを交互に見た。
口元から客向けの笑みが消えた。
「……は? な、何を……お客様、正気ですか? こいつはただの下働きですよ!? 意匠を考える才もなければ、客との交渉もできない、ただ針を動かすしか能のない女です! 私を通さなければ、この工房の保証もつかないんですよ!? あんた一人じゃ、仕事なんて取れないくせに!!」
アニエスの剥き出しの罵声がノエミに突き刺さる。
ノエミはヴェールを両手でしっかりと抱いた。
「そうかもしれません! 私一人じゃ、仕事なんて取れません!」
そこで一度、息を吸った。
「……でも、この刺繍をしているのは私です!!」
アニエスが口を開きかける。
その前に、ルシールが二人の間にすっと割り込んだ。
「話は終わりです、ベルタン様。私はノエミさんの針にお金を払います」
アニエスはノエミを睨んだまま、小鋏を拾った。
それから踵を返し、足音荒く奥の意匠室へ消えていった。
バタン、と扉が乱暴に閉まった。
*
納品の日。
アニエスは露骨に不機嫌だった。
ルシールがノエミを指名してから、二人は必要なことしか話していない。
「ノエミさん」
ルシールがやってきた。
ノエミは深呼吸をして、仕上がったヴェールを作業台の上に広げた。
あの日からさらに針を進め、三週間。
破れていたレースは繊細に補強され、くすんでいた月蚕糸は、三十年の時を経た重みを感じさせる灰銀色に馴染んでいる。
だが、ルシールが真っ先に手を伸ばしたのは、全体の美しい意匠ではなかった。
右下の、野薔薇だった。
歪んだ花弁。
中心のずれた雄しべ。
不器用に引き攣れた布地。
ノエミは、その歪みを一切消さなかった。
代わりに、周囲の唐草模様をわずかに波打たせ、まるで風がその一輪の薔薇を包み込んでいるかのように、針目を寄り添わせていた。
下手な薔薇は、下手なままだった。
けれど、もうそれは「みっともない失敗」には見えなかった。
ヴェール全体が、そのたった一輪の歪んだ薔薇を愛おしむように、優しく咲き誇っていた。
「……ああ」
ルシールの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は震える指先で、母親が残した不格好な玉結びの跡を、そっと撫でた。
「母が、ここにいます」
ルシールはもう一度、その一輪を撫でた。
「ありがとうございます、ノエミさん。本当に……母を残してくれて、ありがとう」
ノエミは顔が熱くなって、作業台へ視線を逃がした。
「よかったです……本当に、よかったです」
代金を払い、大事そうに木箱を抱えて帰っていくルシールの背中を、ノエミは見送った。
応接用の一角で、アニエスがその様子をじっと見ていた。
何も言わなかった。
もう、ルシールの前で「これは私が刺した作品です」と名乗る余地はなかった。
*
それから数日後のことだった。
工房の呼び鈴が鳴り、裕福そうな中年の婦人が入ってきた。
アニエスがいつものように、素早く客向けの笑みを浮かべて出迎える。
「いらっしゃいませ。ベルタン工房へようこそ」
婦人は会釈を返すと、手帳から一枚のメモを取り出した。
「こちらに、ノエミ・ヴァランさんという刺繍職人はいらっしゃいますか?」
糸を整理していたノエミの手が止まった。
アニエスも婦人を見た。
「先日、ルシール様の花嫁ヴェールを修復された方だと伺いました。母の形見のショールが酷く傷んでいて、他の工房では断られてしまったのですが……ノエミさんなら相談に乗ってくださるかもしれない、と」
数日前の声が、ふいに蘇った。
――あんた一人じゃ、仕事なんて取れないくせに。
以前のノエミなら、アニエスの顔を見ていた。
自分が前に出てもいいのか、許可を待っていた。
だが、今回は見なかった。
持っていた糸束を作業台に置き、針山に針を刺す。
そして、自分から立ち上がった。
「はい。ノエミ・ヴァランです」
婦人がノエミへ向き直る。
ノエミは少しだけ緊張しながら、それでもはっきりと言った。
「ルシール様のヴェールは、私が担当いたしました」
最後までお読みいただきありがとうございました。
面白かったと思っていただけましたら、評価していただけると今後の作品制作の参考になります。




