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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

メルトダウン・バイク

作者: 川瀬 夏生
掲載日:2026/06/19

彼女の背中は、私と少しも変わらない小ささのはずなのに、今は大きい。


どうしてかそう思える。

どうしてだろう。二人きりでいるからだろうか。だけど、それが全てでもないような気がする。精密には言語化できない何かを感じる。



感じるから、考える。

大きさを感じさせるものは何だろうか。


最初に思い付いたのは今の自分の姿勢だった。

彼女の腰に腕を回して、後ろから軽く抱き着いている姿勢。


でも、誤解しないでほしい。

これは恋人同士のスキンシップではないし、ましてや今から営みたいというアピールでもない。私たちが中型バイクに二人乗りしているから、二人乗りの後ろ側に位置している私が、運転手である彼女に抱き着いているだけだ。


つまり、振り落とされないために、安全のために抱き着いている。

これでもし何にも掴まらなかったら私は既に道路へ叩き付けられているはず。


そもそも私はバイクに乗った経験などなく、バイクの免許を持っているはずもなく、要するに初体験の恐怖に怯えて反射的に抱き着いているわけだから、その点を考慮してもこの姿勢は仕方のないものと言えよう。



そして、半ば自動的にこうなった今の状況により、その途中から(恐怖が薄れてきたあたりから)スキンシップによる高揚感を覚え始め、その高揚感が「背中が大きいなあ」という愛慕にも似た安心感を与えたのだと考える。


いわゆる吊り橋効果と似た理屈で、不安による心拍数の上昇を相手への恋愛感情だと錯覚してしまっている。そういうことだ。あと、恋愛感情を持っているのは事実なので、吊り橋効果+元々の感情=今の高揚感になっていると思う。


抱き着いたあの人の背中が大きくてドキドキしちゃう、なんていうのは世間では異性愛規範に基づいて女性が男性に対して抱く好意的な感情の一種と認識されているが、これは別に性別に関わる話ではなく、抱き着いている側が相手に頼もしさを感じるのであれば成り立つ話だ。つまり、これは私たちのような女性間でも成り立つ。ましてや高校生同士でも成り立つ。年齢も関係ないのだ。(赤子や幼稚園児がどうなのかは知らない。)





次に思い付いた理由は、今のシチュエーションだ。

いわゆる、逃避行。二人きりのささやかな、でも大事な旅だ。


バイクに乗っているということは当然何らかの移動をしているわけだが、移動にも様々な種類があり、通勤通学でバイクに乗る人もいれば、観光や趣味でどこかへ向かうために乗っている人もいるし、そもそも走るのが趣味なので移動というよりは運転自体を楽しんでいる人もいる。スポーツ選手は仕事か。



しかし、私たちの移動は、その中でもかなりロマンに振り切った環境下で進んでいく。ただの観光ではない。これは壮大なデートとしてのバイク乗車だ。


今目の前に見えるのは長く続く一本道。

二車線のアスファルトには白線が規則正しく引かれているだけで、その規則を乱すような交差点や曲がり角、停止位置、カーブすらも存在しない。つまり、ツーリングのためだけに整備されたユートピアのような場所を走っている。


しかも、この一本道の両側には穏やかな風が吹く草原がどこまでも広がっており、静かな夜の月光に照らされた若草が子守唄を唄うかのように靡く。


満月が浮かぶ夜空には、わずかながら星の光も見えていて、一等星と思しきオレンジ色の光が闇夜のキャンバスに可憐な彩りを加えていた。



夜のバイクデート。

しかも、こんなにも美しくロマンチックに満ち足りた場所で。


昔、ドラマか漫画か何かで見たことのあるような、ないような、でもどこかノスタルジーも感じるような風景に胸が熱くなる。こんな経験ができるとは思っていなかったし、しかも周りを見渡しても他のツーリング客が全くいない。



この満月と星空の下、目前の景色を二人占めしながら、穏やかで優しくも切なさを感じさせる甘美なシチュエーションで、特別なデート。


こんなの高揚せずにはいられないだろう。

高揚する。だから、そんな環境で一緒にいられることに喜びを感じ、抱き着いている背中に愛おしさが増し、愛おしさの膨張によって背中が大きく見える。


我ながらロジックの怪しい理由付けだ。

でも、こうとしか言語化できなかった。愛おしさの膨張としか言えない。




更なる理由として、彼女がバイクを操縦しているという点も挙げられる。


ここまでの前提だと、彼女が元からバイク乗りで、その経験を活かして私をバイクデートに誘ったように思えるかもしれない。でも、実は違う。


そもそも彼女はバイクを操縦するのはこれが初めてなのだ。

初のバイクデートで初運転。これは大丈夫なのかと不安にもなる。


しかし、実際は逆だ。

不安に思っていたのに、とても安定してスムーズな操縦。


車体が大きく揺れることはないし、身体の軸もブレることなく安定感も十分。

しかも、運転しながらいつも通り会話もしてくれる。


その想像以上の手練れ感に、正直感激している自分がいる。

乗り始めの辺りは緊張したし怖いと思っていたけど、そんな私がすぐに落ち着いてデートを楽しめるくらいには彼女の技術は高かった。だからこそ、そんな背中を頼もしいと感じ、大きく見えるわけだ。



……あれ、結局頼もしいっていう着地点に落ち着いてはいないだろうか?

さっきも同じことを言った気がする。でも、途中のルートが違うからいいよね。


実際、この頼もしさという要素は大きい。


冷静に振り返ると、彼女は私と身長が大して変わらない。

こちらは149cm、あちらは150cm、バイクに乗るには心許ない気がする。

いや、世間のバイクに乗る人たちの身長事情には詳しくないけど。


するとまあ、世間的にはちょっと背が低い方ですねという見られ方をするし、二人で街中をデートしてたりすると、性別問わず背の高い人が近くを通る度にちょっと怖くなって身じろぎすることが多々ある。背が低いことはハンデでもある。


ましてや自分の印象の中ではバイクに乗っている人=怖いor強いみたいな先入観が出てしまうので、彼女が運転するイメージなんて欠片も持ったことがなかった。


せいぜい大学生になったら自動車の運転免許を取るのかなと想像したくらい。

しかも、過去の本人の発言でも「運転ってちょっと怖いからさ、あんまりしたくないんだよね。自転車も苦手なくらいだし……」という記録が残っている。


なので、運転という一大行為をしている彼女に驚くと同時に、怖いと言っていた割にバッチリ乗りこなしているところが頼もしいわけだ。自転車すら乗れない私とはわけが違う。勇気があって、技術もある。頼もしい。






「どう? 怖くなくなってきた?」



その思考は彼女の一言で強制終了。

優しく穏やかで、どこか甘美な響きがして、愛おしい声が背中越しに聞こえる。

怖いわけない。むしろ嬉しい。幸せ。



「うん。運転、上手だから」



素直に答えた。

語尾が少し跳ねてしまった気がする。嬉しいのが簡単にバレる。


でも、恋人がこんなに優しくエスコートしてくれて、嬉しくないわけない。

昔から何にもできなくて不器用で生活も下手で、うまくできないで泣いている私をずっと見守ってくれていた人が、いつもと変わらず優しくしてくれる。そんなの嬉しい。しかも、今日はいつも以上にカッコいい。


こちらへ振り向こうと首を少しだけ回して、その横顔から少しだけ見える澄んだ瞳の色に余計嬉しさが募る。常に気遣ってくれている優しい眼差しだった。

デートで、こんなに優しくされて、幸せじゃないわけがない。



「こういう夜のデートってさ、初めてだよね」

「そう、だね。いつもお昼だったから」



お昼のデートも楽しかった。


大きめの駅まで電車で行って、ショッピングモールや百貨店の中を気ままに巡ったり、公園でゆっくり散歩したり、喫茶店に入って休憩したり、それで夕方になったら一緒に帰ってきて、お互いの家の前で別れて、寂しくなって。


やっぱり夕方は私たちが一時のさよならをする時刻で、夜になったらSNSで連絡は取れるけど、会えない。通話は色々あって難しかった。



だから、お昼のデートにはいつも終わる寂しさが付き纏う。

どんなに楽しくても、幸せでも、夕方になれば終わってしまう。


そして、その先に位置する夜というものは、会えないことの寂しさや悲しさで胸が一杯になる時間帯であり、ある種の諦観に満ちた空気に支配されていた。


そんな時に窓から見上げる濃紺の世界とその先で光を放つ月や星は、どこまでいっても自分の手には掴めない存在であり、狭い檻のような部屋からでは一生触れることのできない天空の宝物のように思えた。



でも、今はそれが見上げた先に広がっている。

誰にも邪魔されず、時間にも遮られず、自由に触れられる。


もちろん手が届くわけじゃない。

だけど、こうして本当に夜空の下で好きなだけ天空の世界を感じられることが感動的で、こうして夜の静かなデートを楽しめることの貴重さを噛み締める。




「運転、大変じゃない?」

「ううん。ちっとも。まだまだ運転できるよ」



そう告げた彼女は横顔でニッコリと微笑んでみせて、一定のスピードを保ち続ける車体のハンドルからは手を離さず、視線だけで私の頭を撫でてくれた。あたたかい。触られてもいない頭頂部が自然と熱を帯びる。


どうしてだろう。勝手に熱くなるなんて。

不思議だ。やっぱりデートの力なのだろうか。




「それでさ、今夜はどこまで行く?」

「……私は詳しくないから、任せるよ」

「わかった。じゃあ行けるところまで、ね」



行けるところまで。なんてロマンチックな台詞なんだろう。

そんな言葉が彼女から出てくるなんて夢みたいだ。



真っ直ぐ続く、どこまでも続いているように見える一本道。

アスファルトの色も、幅も、引かれた白線の間隔も、全く変わらない一本道。

路面の劣化も、がたつきも、わずかな傾斜すらもない一本道。



向かう先はまるで見えない。地平線の先まで続く。地球は丸いのだと感じる。

辺りの草原も、広がる夜空も、二人きりの静けさも、永遠のように続く。


……永遠ってなんだろう。

ドラマの中で、小説の中で、現代文の教科書で、読んだ気がする。


どうして私は永遠という言葉を思い浮かべたのだろう。

わからない。経験したこともなく、この先経験できるはずもない概念。

それなのにどうしてか今のシチュエーションに適切だと思う。



永遠って、どうすれば叶うんだろう。

もし生涯寄り添うことだとすれば、その第一歩は愛を誓うことだろうか。でも、愛を誓った後はどうすればいいのだろう。スキンシップで寄り添うことだろうか。


じゃあとりあえず彼女にぎゅっと抱き着いてみる。

あたたかい。小さいのに大きい背中。体温の伝わる感触。

胸がぽかぽかする。それなのに心は安らかに穏やかに静まっていく。



「急にどうしたの? わたしが恋しくなった?」

「昔から、ずっと恋しいよ」

「……そっか、じゃあ甘えん坊になったってことかな」



私は甘えん坊なのだろうか。

だとしたら、その身分に甘んじていいから、もっと甘えたい。


薄い胸をぎゅっと押し付けて、身体の前面をぴたりと密着させる。

体温が溶け合って、二人で熱さを共有するような感覚。


腰に回した腕を強く彼女に押し付ける。

自分の顔を、彼女の後頭部にすり寄せる。




「身体、あったかいね」

「うん」

「こんなにくっついてたら、離れられないや」

「……私から、離れたいの?」

「ううん。一瞬も、1センチも、1ミリも、離れたくない」



嬉しい。もっとくっつく。密着する。できる限り。



ここまで近付いたら、もう周りの景色は見えない。

全身に受ける風と、バイクの小さな走行音と、全身の触覚。それが全て。


ああ、今はどのあたりを走っているのだろう。

地平線の向こうに何かは見えるのだろうか。わからない。



そう、わからないのだ。

私たちがどこでこのバイクに乗り込んだのかも、この場所が一体日本のどこに位置している場所なのかも、そもそもどうして私たちがバイクに乗っているのかも。


わからない。

何もわからない。わからないことしかわからない。



わからなくなっていく。

頭が回らなくなっていく。


この理想郷じみた場所をいつまでも走り続ける彼女が、何を考えているのか。

自分が、どうして今ここで彼女とひとつになることに執着しているのか。



わからなくなっていく。

身体の動かし方がわからなくなっていく。


腕が動かない気がした。力を込めても動かないように思えた。

手が握れない。力を込めるという動作のやり方がわからなくなった。



わからなくなっていく。

視界がぼんやりと濁っていく。


彼女の髪の黒色で満たされていたはずの視界が、白へと移り変わる。

視線の動かし方がわからない。眼球の感覚がない。視覚が消えていく。






「わたしは、1ミリも離れたくない」

「……わ、たし、も」



声が聞こえた。声を出した。

それだけは間違いなかった。


わからない。自分がどこから声を出しているのか。

どうやって喉を震わせているのか。


そもそも、私の喉はどこにあるのだろう。

視界が失われ、手足が動かず、聴覚と発声機能だけが生きていて、会話ができている。それ以上のことがわからない。



なにかドロリとしたものが肌を伝い落ちる感覚がした。

濁っていて、重くて、でも滑らかに流れ落ちるなにか。


それが流れ落ちる度に、思考が、感覚が、少しずつ失せていく。

だから、それよりも前に、言葉を発する。




「わ、たし、も、離れたく、ない」

「う、ん。わたし、も、だよ」




今自分がどんな言葉を発しているのかわからない。

何を言おうとしたのかも、どんな音声を発しているのかも、わからない。



ドロリと流れ落ちる。



私のなにかが、伝い落ちる。



「ずっ、と」

「う、ん」




あるはずのない喉が震える。

人間として最低限度の感覚だけが残された身体が、まだ、ある。




「えい、えん、に」

「う、ん」




……永遠ってなんだろう。

でも、もし永遠があるとしたら、この道の先に、きっと、たぶん。




「いっ、しょ、に、いた、い」

「う、」




全てが流れ落ちる。

私のなにかが、一滴残らず流れ落ちる。


伝い落ちる表面すら失ったなにかが、溶け落ちる。

もう少しで全部、溶け落ちる。








完全に溶け落ちるその寸前。



一瞬取り戻した視界に映っていたのは、操縦者のいないバイク。


そして、その座席の上でグチャグチャに混じって気味が悪いほどのまだら模様を描いた、人型の成れの果て。かつて二人だった一人の結末。





最期の一滴が、アスファルトに落ち、吸い込まれていった。

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