私の一日
私以外のニホンオオカミはもう居なくなってしまったようで、喜ばしい限りである。駆除すべきだのと騒ぎ立てる存在もいい加減煩わしかった。目的は達成されたと思い込んで、次第に話題にも上がらなくなっていった。何より私が種の最後の生き残りであるという響きが、何より私を高揚させるのだ。
人里離れたこの山奥で、日が昇る度に私は遠吠えをひとつ産み落とす。私だけ、私だけのものである。この瞬間の気持ちよさを誰も知らないのだから。
「ウゥーーーーーーーー」
今日も喉の奥から放ったそれは、この山と、あの山の間で幾度か跳ね返り、私の鼓膜と心を揺らすのである。霞がかった世界の色はまだうっすらとしていて、目に優しい。冷ややかで新鮮な空気を吸い込んでやると、鼻腔の奥がその心地良さに目を覚ます。今朝は少し風が出ていて、周囲の木々と私の綺麗な体毛を靡かせる。
あぁ、なんて気持ちがいい。
ひとしきり一日の始まりを味わって、腹ごしらえは完璧である。
朝飯を探しに、少し下りようか。
私は食べるのが好きだ。嫌いなものは無いと言っていいぐらいに何でも食べられるので、お腹が空いたら適当に走って、目についたものを適当に口に入れる。
そういう所もかっこいいだろう。
他の生き物は色々と選り好みするようで、大変そうである。そういう形に生まれてしまったのだから仕方ないけれど、それを目にするたびに少しの憐みを感じてしまう。
嫌いなものがあるというのは不幸だ。
今日は、木の実か。色が限られた森の中では、彼らは相当に目立ちたがりの部類である。今日だって精一杯おめかししたのだろう、その艶やかな紅色が私の目に飛び込んできた。各々思い思いの色で、同じように洒落込んでは身を寄せて固まっている。
分かりやすい奴らだ。
しかしさっと平らげてしまうには、少々高い所に実っている。知恵をつけたようだが、私にはこの立派な爪がある。軽く上ってしまえばすぐに届くだろう。ひとつ、ふたつと、爪を突き刺しては少しずつ傾斜を上っていくと、もう目の前にそれは見えた。えいっと、奴らが実った茎ごと口で捉えたら、そのまま着地したときに少しの違和感を覚えた。
嫌に体が軽いようである。視線も先より少しばかり高いなと、自分の体を見下ろすと、ごわごわとした茶色の体毛に、二足歩行で立っている。
猿、私は猿だったのか。銀色の綺麗な毛並みは、ニホンオオカミは、嘘だった。
そうか、私はニホンオオカミでは無かったのか。残念であるが、猿も悪くない。身の軽さが段違いに良い。爪を突き刺して上るなど面倒なことをしなくても、どんな所に実を付けた奴らでも一撃で手中に収まる。試しに先は取り逃したさらに上の木の実めがけて飛び上がると、何とも楽にいくことか。これはいいと思って、そこら中の木の実を大量にかき集めた。
全部、私のものだ。
どうせなら近くの川のほとりで、そのせせらぎを聞きながら優雅に頂くとしよう。集めたすべてを平らげると、非常に腹は満足したようで少し眠くなってきた。まだ日も登り切ったばかりで、ようやく折り返そうかという時である。ただの猿の身である私に取って、昼から惰眠を貪ることなど大した罪ではないけれど、多少の罪悪感はある。周囲の生き物からそろそろ積極的に活動しようかという存在感が伝搬してくるのだ。
ただ、よく動いてよく食べたあとの眠気に逆らえる生き物は存在しないので、そのまま地面にへたりこむと、自然と瞼が落ちる。いけないと思って、一度だけ重い瞼に抵抗して持ち上げて見えたものに、これまた驚いた。茶色いごわごわとした毛が、黒と白のまだら模様のふわふわの毛に変わっているのである。見ると、指の数も減って、変わりに自由にしまえる爪がついている。
「ニャーーーーー」
何の気無しに鳴らした喉からは、予想もしていない音が鳴った。
そうか、私は猫だったのか。自由に飛び回れる身軽な体は、猿は、嘘だった。
少しの間感じていたあの楽しさを思うと、寂しくはあるが、猫だって悪くない。丁度、昼の惰眠を貪ろうとしていた所であるし。猫だったら自由にそれができるどころか、周囲のやつはこぞって私を可愛がるのだから。想像したら、それだって悪くない。軽く眠ったら、人里にでも下りて行こうか、などと考えている内にもう夢の中に入っていた。
急な肌寒さに目を覚ますと、周囲は既に暗くなっていた。一眠りかましてやるぐらいの気持ちだったのに、どうやら寝すぎてしまっていたらしい。
まだ軽くぼんやりしていて、本能のままにからだを舐めだした私に、私が猫であることを思い出した。嫌にからだのあちこちが気になって、一か所綺麗にしたかと思うと、一度舐めたところがまた気になりだす。そんなことを繰り返していると、一通り満足いくまで舐めじゃくった頃にはかなりの時間が経っていた。終わると何ともいえない満足感があるが、少々面倒くささも感じてしまう。
それにしても今日の夜は冷え込んでいる。私のふわふわに整えたこの毛を持ってしても抗えないぐらいの寒さである。夜目が効くのはいいが、寒さには勝てないらしい。暖を取ろうと思い立って、周囲から適当に木々を集めた。集めた木々を焚火の形に仕上げてから、火を起こすものがないことに気付く。
バカだ、私は。
落胆して、後ろ手をついたときにライターを握っていることに気が付いた。しめた、と思ってそのままそれで火を付けた。焚火の暖かさにほっとしながら、しばらくの間ただ、じーーーっと揺らめく炎を見つめていた。
「ひとりは、寂しいな」
気付かず、自然に発せられたその音は、孤独に自分の喉から鳴っていた。
あぁ、私は人間だったのか。そうか、それは、何とも残念である。
だって。人間は嫌だった。




