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病と密告

 アシェルが、マクシムの小屋を後にし、西の国境都市へと向かう過酷な逃避行が始まった。

 二人は裏道を使い、数週間をかけてオルデリア王国を横断した。


 西への旅は、アシェルが想像した以上に過酷だった。

 『灰衣団』の追手を警戒し、主要な街道を徹底して避け、森や荒野を選んで進んだ。

 食料は数日で尽きた。


 アシェルは片腕での「狩り」を強いられた。

 彼は憎悪を燃料に、最小限の『パルソ』を使って野兎を仕留め、命を削って食料に変えていった。

 印を使うたび、左肩の接続部が激痛を発し、冷たい糸が心臓に伸びるあの「収奪」の感覚が彼を襲った。


 だが、彼はその消耗を隠し、野営地に戻った。

 イリスが怯えた目で彼を迎えた。

 アシェルが血を抜き、解体する生々しい光景に、イリスは顔を青ざめさせた。だが、彼女はもう吐き気をこらえるだけではなかった。

 数日間の飢餓が、彼女の恐怖を上回っていた。

 イリスは、アシェルから差し出された串刺しの肉を、震える手で受け取った。

 生きるために、アシェルの「罪」の恩恵を、彼女は受け入れた。

 だが、森での過酷な生活は、確実にイリスの体力を奪っていた。

 『赤の街道』での「力の暴発」による内耳からの出血は止まったが、彼女の肉体を内側から蝕んでいた「代償」が、ついに限界を超えた。


 翌日、イリスは高熱を出して倒れた。

          *

 イリスの体は、火のように熱かった。

 アシェルは、薬師からもらった痛み止めを水に溶かして飲ませたが、容態は変わらない。

 荒い呼吸を繰り返し、うわ言のように「寒い」と呟いている。

 彼は一度「見捨てる」という合理的な判断を頭で下したが、復讐者としての「合理性」が、贖罪者としての「業」に焼き尽くされた。


「……死なせん」


 アシェルは、イリスを背負い、森を抜けた。

 目指すは、地図にあった、ここから最も近い「町」。

          *

 アシェルがたどり着いたのは、オルデリア王国西部の、しがない中継都市だった。


 彼は、イリスを外套で深く隠し、自らも片腕を失った巡礼者を装い、夕暮れの雑踏に紛れて門をくぐった。

 彼は路地裏で金に目のくらんだ男に銀貨を掴ませ、医者の場所を聞き出した。


 医者の扉を叩くと、出てきたのは、噂通りの、目のいやらしい中年男だった。

 アシェルは、イリスを診察台に寝かせた。

 医者は、イリスの高熱と消耗を一瞥すると、値踏みするようにアシェルを観察した。

 アシェルの「片腕」、その腰にある(明らかに素人のものではない)剣、そして外套の下から微かに漂う、異様な「魔力」の残滓。

 医者は、アシェルの脇腹の古傷が、長旅で再び開いていることにも気づいていた。

 医者は、イリスのまぶたを無理やり開き、その瞳孔を覗き込んだ。


「……ふむ。ただの熱病じゃないな。ひどい消耗だ」


 医者は呟き、次にイリスの耳元を調べた。


「……内耳に古い出血の痕。瞳孔は開ききっている。これは神経の異常だ。……普通の熱病ではない。まるで、体の内部から生命力が急激に絞り出されたような……」


 アシェルは、男の言葉に心臓が冷たくなるのを感じた。


「金は払う。……早くしろ」

「まあ、そう焦るな。……治療には時間がかかる。金さえ払えば、裏の宿を使わせてやってもいい。そこで休ませろ」


 医者は、アシェルの様子を値踏みしながら言った。

 アシェルは、その提案に一瞬の迷いを見せつつも頷いた。

 この疲弊した体では、イリスを背負って別の宿を探す方が危険だった。

 アシェルは、医者から高額な治療費と宿代を前金で払い、二人を薄暗い離れの小部屋に通させた。


 医者は部屋を出ていき、外から重々しい音を立てて閂をかけた。

 アシェルは、その重く、冷たい音を、まるで自分の命の残り時間を告げる鐘の音のように聞いた。

 彼は、疲弊しきった体を壁にもたせかけ、剣の柄に右手を置いたまま、浅い休息に入った。

 だが、意識は休まらない。失われた左肩の接続部と、脇腹の古傷が、彼の贖罪の選択を嘲笑うかのように、ズキズキと慢性的な痛みを訴え続けていた。

 彼は、すでに罠に嵌っている自覚を抱きながら、次の「悪意」を待つしかなかった。


 その頃。

 医者は、アシェルから受け取った銀貨を握りしめ、足早に町の衛兵詰所へと向かっていた。

 彼の頭には、数日前に『灰衣団』の密偵から(極秘裏に)回覧されていた、高額な懸賞金の手配書が浮かんでいた。


『――特徴:片腕の男。十歳前後の少女を同伴。鋼鉄の義手を持つ可能性アリ。要注意:異端の力(印)の使用に警戒――』


(義手ではなかったが、間違いない。あの魔力の残滓、尋常ではない消耗。こいつは『本職』の獲物だ。……そして、あの娘も普通じゃない)


 医者の口元に、卑しい笑みが浮かんだ。


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