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最悪の賭け

 森は、再び静寂を取り戻した。

 残されたのは、かろうじて息をしているアシェルと、全滅した『灰衣団』の部隊。

 そして、意識を失い、鼻と耳から微かに血を流す一人の少女。

 アシェルは、脇腹の痛みと印の代償に苦しみながら、悟った。

 ヴィクトルが、エヴァを「失敗作」と呼び、この少女イリスを「最後の血」として追い求めた理由。すべてを理解した。


 彼は、折れた剣を杖代わりにして立ち上がった。

 そして、意識を失って倒れているイリスを見下ろした。

(……どうする)

 『灰衣団』の部隊が全滅した。ここが王都近郊である以上、組織の増援が来るのは時間の問題だ。

 王都ヴィクトルへ向かう? 無謀だ。今の自分は、この少女を抱えたままでは、町の衛兵すら振り切れない。

 では、このままイリスを捨てて、一人で逃げるか?

 それが最も合理的だ。復讐者として、ヴィクトルを殺すという目的のためには、この「爆弾」は足手まといでしかない。

 アシェルは、冷たい目で少女から視線を外し、一人、森を去ろうとした。


 だが、足が動かなかった。

 脳裏に、あの夜のエヴァの最期が焼き付いている。

 守れなかった娘。ヴィクトルに「失敗作」として処分された命。

 今、目の前には、同じように「道具」として狙われ、力を使い果たして血を流す少女がいる。

(……また、見捨てるのか)

 それは、アシェルの合理性を焼き尽くす、強烈な「業」だった。

 エヴァを失ったトラウマが、彼に選択を迫る。

 ここでイリスを見捨てることは、あの日、エヴァを見殺しにした自らの罪を、再び肯定することになる。

 アシェルは、獣のような低い呻き声を上げた。

 彼は、復讐という合理的な道を捨て、自ら「贖罪」という非合理な地獄を選んだ。

 アシェルは、薬師からもらった(まだ残っていた)痛み止めの丸薬を水なしで噛み砕くと、意識のないイリスを、残った右腕で抱え上げた。

 少女の体は、力の反動か、危険なほど熱を持ち始めていた。


「……死なせんよ」


 それがエヴァに向けた言葉なのか、イリスに向けた言葉なのか、あるいは自分自身に言い聞かせたのか、アシェルにも分からなかった。

 彼は、全滅した『灰衣団』の隊員たちには一瞥もくれず、再び森の奥深く――マクシムの小屋がある南の方角へと、よろめきながら歩き出した。

 復讐のために出た旅が、今や「異端の力」の根源を巡る、絶望的な「逃避行」へと変貌していた。

          *

 アシェルが、マクシムの小屋の扉を蹴破るようにして転がり込んだのは、森を出てからさらに二日後のことだった。

 この二日間の逃避行で、イリスの容態は刻々と悪化していた。熱は下がらず、彼女の呼吸は浅く、弱々しくなっていた。


「……ほう」


 マクシムは、書斎から顔を上げた。

 床に倒れ込み、荒い息を繰り返すアシェルと、彼が運んできた意識のないイリスを見て、初めて緊張の色が走った。


「……その、無様な様は何だ。復讐は、もう終わったのか」

「……黙れ……。この娘を、見ろ」


 マクシムは、アシェルの言葉を待たず、すでにイリスのそばに膝をついていた。

 彼は、イリスの耳に残る乾いた血痕に気づき、顔色を変えた。

 少女の脈を診たマクシムは、戦慄いた。


「……まさか。この出血は、力の暴走による内耳の損傷か」

「これは……『印』ではない。ヴィクトルが追い求めていた『オリジナル』……。生きた『血統』そのものだと?」

「『赤の街道』で、『灰衣団』の部隊がこいつを狙っていた」


 アシェルは、床に倒れたまま、途切れ途切れに説明した。


「俺が介入し……殺されかけた。その瞬間、こいつの『力』が奴らを……全滅させた」


 マクシムは、アシェルの説明を聞きながら、苦々しげに顔を歪めた。


「……愚か者め。お前は、オルデリア王国で最も『危険な爆弾』を、わざわざ拾い上げてきたのだぞ!」


 マクシムは、小屋の中を焦燥したように歩き回った。


「ヴィクトルが『灰衣団』の部隊を動かした。そして、その部隊が全滅した。……奴が、この少女の『力』に気づかないはずがない!」

「この小屋も、もはや安全ではない。あいつは俺の『理論』を知っている。俺の存在にも、いずれ気づく」


 アシェルは、壁に背を預け、必死に体を起こした。


「……どうすればいい。俺は、奴を殺さねばならん。だが、今の俺では……」

「そうだな」


 マクシムは、アシェルの無力さを肯定した。


「今のお前では、ヴィクトルはおろか、次の追手からもこの娘を守れん。お前には『力』が足りない。……『印』を増幅させ、お前の失われた『腕』となるものが」


 アシェルは、老人の言葉に目を見開いた。


「ある。……というより、それしか『道』がない」


 マクシムは、書棚の奥から一枚の古い羊皮紙を取り出し、アシェルに投げ渡した。


「西だ。オルデリア王国の法が届かん、混沌の『西の国境都市』へ行け」

「国境……? 復讐から遠ざかれと?」

「そうだ。その国境都市に、かつて俺の『弟子』だった男がいる」


 マクシムは、その名を口にすることすら忌まわしい、という顔で続けた。


「名を、バルタザール。……奴は、俺の理論を『人体』と『機械』にまで応用した、狂気の天才だ。俺の知る限り、お前のその失われた腕に、『印』の力を組み込める『義手』を作れるのは、この世で奴だけだ」


 マクシムは、アシェルに薬草と、わずかな金、そして一つの古びた「歯車」を渡した。


「この歯車は、あいつが俺の元を去る時、『俺の理論(印)』を裏切って『機械(義手)』――人体改造の狂気に溺れた証だ。これを見れば、あいつは必ずお前を『実験台』として受け入れるだろう」


 マクシムは、アシェルの目を真っ直ぐに見た。


「お前はもう復讐者ではない。『騎士』でもない。お前はただの『荷物運び』だ。……その『爆弾』を抱えて、生き延びてみせろ」


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