愚か者の代償
マクシムとの契約は、地獄の始まりだった。
リハビリと訓練は、雪解けから新緑に至るまで、数ヶ月間に渡って徹底的に行われた。
アシェルは、過去の栄光をすべて叩き壊す、地獄の反復作業に身を投じた。
彼は利き腕だった左腕を失っていた。残った右腕で剣を振るうたび、屈辱と激しい痛みが走った。
かつて『灰衣団』のエースとして、水が流れるようだと評された剣技は、そこにはなかった。
アシェルは、かつての剣技を右腕で再現しようとした。
だが、騎士道的な防御や大振りな一撃は、片腕では体幹が保てずに崩れ、雪原に無様に転倒するだけだった。
「無様だな」
マクシムは、小屋の戸口で冷ややかに呟いた。
「左腕を失っただけで、お前の剣は死んだ! 騎士道だと? その甘い大振りこそが、ヴィクトルに命を差し出す行為だと知れ!」
アシェルは、その言葉に耐えられず、夜中に一人、雪原で木の幹を剣で叩きつけた。
剣先が逸れるたび、右拳で幹を殴りつけ、自らの肉体を罰した。
彼は、騎士の剣を捨てた。
右腕で振るう剣は、受け流すためのものではなく、回避し、敵の急所を的確に突くための、**冷酷な「毒針」**へと変貌していった。
それは騎士の誇りに反する、卑怯な手段だったが、彼にはもうそれしか残されていなかった。
肉体が疲弊しきると、彼は「印」の習得に没頭した。
マクシムの理論は、「印」が憎悪や絶望、すなわち「生命力」を燃料にするというものだった。
アシェルは、印を使うたび、意図的にエヴァの最期の顔を脳裏に呼び起こした。
憎悪を燃やし、自らの精神的な傷を燃料に変える。それは、自分の心を、自らの手で抉る行為だった。
初めて『イグニス』を試した日。
炎を放った直後、アシェルは激しい虚脱感に襲われ、胃液を吐いた。
「それが『代償』だ」
アシェルが床に吐き出している間、マクシムは無感動な顔で羊皮紙にペンを走らせていた。
「脈拍、上昇。消耗度、高。炎の軌跡、不安定」
彼の目は、苦しむ人間ではなく、興味深い「データ」だけを見ていた。
「お前は今、自分の『命』を数日分、前借りした」
その代償は、決して慣れることはなかった。
数ヶ月間。剣の訓練の後は印。印を使った後は、数日間の高熱と消耗。
彼は血を吐き、寝台で痩せ細っていく自身の体躯を冷めた目で見つめていた。
かつての騎士団のエースとしての筋肉は削げ落ち、肋骨が皮膚の上に浮き上がっていた。
小屋の周りの雪が溶け、新緑が芽吹く頃。
アシェルは、完全に変貌していた。
彼は、焚き火の光で、失われた左腕の断面を無表情に眺めた。
マクシムが荒っぽく縫合した傷跡は、醜く引きつり、彼の「終わり」を象徴していた。
アシェルは、騎士団の紋章が刻まれた認識票を、腰から外した。
彼は、それを焚き火の中に投げ入れた。炎が、一瞬、灰色の紋章を舐めた。
「騎士アシェル」は、完全に死んだ。
マクシムが、一枚の地図と、粗末な革袋を投げ渡した。
アシェルが受け取った片手剣は、度重なる訓練で刃こぼれし、柄の革は擦り切れていた。
それは、粗暴な復讐者の道具だった。
「勘違いするな」
マクシムは、書物から目を上げずに、冷淡なトーンで言った。
「俺はお前に『投資』しただけだ。お前の命は、もうお前だけのものではない。無駄死にするなよ」
アシェルは、その言葉を背に受け、振り返らなかった。
「行け。お前の『復讐』を始めろ。ヴィクトルの『研究』が、オルデリア王国を喰い尽くす前に」
彼は、新緑の森を抜け、オルデリア王国の街道へと歩き出した。
*
数日後。
アシェルがたどり着いた宿場町は、彼にとって最初の「戦場」だった。
彼は、酒場の依頼掲示板から、誰も引き受けたがらない『古い砦跡』の調査依頼を引き剥がした。
酒場の主人は、アシェルの無事と、彼から漂う生々しい血の匂いに明らかに驚き、顔を引きつらせながらも、約束の「銀貨二十枚」を渋々手渡した。
アシェルがたどり着いた砦跡は、崩れかけた石壁が夕暮れの赤い光を浴びる、不気味な静けさだった。
だが、アシェルは、地面に残された新しい轍の跡と、焚き火の消し炭を見て、「人の悪意」だと直感した。
彼は音を立てず、崩れた壁の隙間から内部に潜入する。
かつての中庭は雨でぬかるみ、足元が泥に沈んだ。
そこに、数人の男が火を囲んでいた。盗賊団だ。奥の物見櫓の下には、猿轡をかまされ、縛られている村人らしき男が見える。
(敵は……五人。一人は櫓の上で見張り。四人が火のそば)
『灰衣団』のエースだった頃の、冷徹な分析力が瞬時に起動する。
(片腕で、五人)
アシェルは、まず櫓の上の見張にに狙いを定めた。
音もなく背後の石段を登り、男の背後に立つ。
アシェルは、残った右腕一本で、見張りの口を塞ぐと同時に、首筋に剣を深々と貫いた。男は声もなく崩れ落ちる。
だが、男の体が石段に倒れ込む音は、予想以上に大きかった。
「――誰だ!」
火を囲んでいた盗賊たちが、一斉に立ち上がる。
そのうちの一人が、即座に弓を構えた。
(――まずい)
アシェルは咄嗟に櫓の壁に身を隠す。
ヒュッ、と風切り音がして、アシェルの数寸横の石壁に矢が突き刺さった。
(防御手段がない)
片腕では、盾も、剣での受け流しも間に合わない。
マクシムの元での訓練が、実戦の恐怖となって蘇る。
「いたぞ! 殺せ!」
残りの二人が、錆びた剣を抜き、ぬかるんだ中庭を突っ切って、櫓の石段を駆け上がってくる。
アシェルは舌打ちし、矢の射線を切りながら、あえて石段を駆け下りた。
狭い石段で、正面から鉢合わせる。
先頭の男が、アシェルの「片腕」を見て、嘲笑と共に剣を振り下ろした。
アシェルは、その剣を紙一重で回避する。
そして、すれ違いざま、右の掌を男の顔面に叩きつけた。
「――『イグニス』!」
「ジュッ」という肉の焼ける音と、耳障りな絶叫。
男が顔を押さえて転げ落ちる。
同時に、アシェルの内側から「命」が数瞬、吸い取られる感覚――あの虚脱感が襲う。
(……まだだ!)
足がもつれるのを叱咤し、体勢を立て直す。
最後の一人が、仲間の無残な姿に怯み、石段を転がるように逃げ戻ろうとした。
アシェルは、その背中に(まだ虚脱感が残る中)再び右手を突き出す。
「――『パルソ』!」
不可視の力が、男の背中を殴りつけ、中庭の焚き火の中へと吹き飛ばした。
残るは、弓兵。
アシェルは、中庭に飛び出し、恐怖で次の矢をつがえられないでいる弓兵に、ゆっくりと歩み寄った。
男が弓を捨て、命乞いをしようと口を開くより早く、アシェルの剣がその喉を貫いていた。
「……はぁっ……はぁっ……」
アシェルは、剣を杖代わりにして、その場に膝をついた。
たった五人の盗賊。
だというのに、全身は汗と、返り血と、ぬかるんだ泥にまみれていた。
『イグニス』と『パルソ』を使った反動(代償)で、心臓が氷で掴まれたように冷たく痛む。
(これが……今の、俺の『戦い』だ)
血と泥にまみれた、クリーンさとは無縁の、命を削る戦い方。
彼は、捕らえられていた村人を解放し、得た銀貨で数日分の宿を確保し、宿場町に潜伏した。
彼は夜の酒場に入ると、片腕を隠すように壁際に座り、常に右手を剣の柄に近づけていた。
周囲の客の視線が、彼を「片腕の厄介者」として品定めするのを感じながら、彼は憎悪に満ちた視線をただ一点に集中させた。
そんなある夜。
酒場の隅で硬いパンをかじっていると、隣の卓で飲んでいた傭兵崩れの男の会話が、耳に飛び込んできた。
「...灰色の外套を着た連中さ。王都の手前...あの『赤の街道』で『本物』を見ちまったよ」
アシェルの剣を握る右手に、力がこもる。
(『灰衣団』...)
ついに掴んだ、最初の「糸口」だった。




