表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

愚か者の代償

 マクシムとの契約は、地獄の始まりだった。


 リハビリと訓練は、雪解けから新緑に至るまで、数ヶ月間に渡って徹底的に行われた。

 アシェルは、過去の栄光をすべて叩き壊す、地獄の反復作業に身を投じた。


 彼は利き腕だった左腕を失っていた。残った右腕で剣を振るうたび、屈辱と激しい痛みが走った。

 かつて『灰衣団』のエースとして、水が流れるようだと評された剣技は、そこにはなかった。

 アシェルは、かつての剣技を右腕で再現しようとした。

 だが、騎士道的な防御や大振りな一撃は、片腕では体幹が保てずに崩れ、雪原に無様に転倒するだけだった。


「無様だな」


 マクシムは、小屋の戸口で冷ややかに呟いた。


「左腕を失っただけで、お前の剣は死んだ! 騎士道だと? その甘い大振りこそが、ヴィクトルに命を差し出す行為だと知れ!」


 アシェルは、その言葉に耐えられず、夜中に一人、雪原で木の幹を剣で叩きつけた。

 剣先が逸れるたび、右拳で幹を殴りつけ、自らの肉体を罰した。

 彼は、騎士の剣を捨てた。

 右腕で振るう剣は、受け流すためのものではなく、回避し、敵の急所を的確に突くための、**冷酷な「毒針」**へと変貌していった。

 それは騎士の誇りに反する、卑怯な手段だったが、彼にはもうそれしか残されていなかった。


 肉体が疲弊しきると、彼は「印」の習得に没頭した。

 マクシムの理論は、「印」が憎悪や絶望、すなわち「生命力」を燃料にするというものだった。

 アシェルは、印を使うたび、意図的にエヴァの最期の顔を脳裏に呼び起こした。

 憎悪を燃やし、自らの精神的な傷を燃料に変える。それは、自分の心を、自らの手で抉る行為だった。


 初めて『イグニス』を試した日。

 炎を放った直後、アシェルは激しい虚脱感に襲われ、胃液を吐いた。


「それが『代償』だ」


 アシェルが床に吐き出している間、マクシムは無感動な顔で羊皮紙にペンを走らせていた。


「脈拍、上昇。消耗度、高。炎の軌跡、不安定」


 彼の目は、苦しむ人間ではなく、興味深い「データ」だけを見ていた。


「お前は今、自分の『命』を数日分、前借りした」


 その代償は、決して慣れることはなかった。

 数ヶ月間。剣の訓練の後は印。印を使った後は、数日間の高熱と消耗。

 彼は血を吐き、寝台で痩せ細っていく自身の体躯を冷めた目で見つめていた。

 かつての騎士団のエースとしての筋肉は削げ落ち、肋骨が皮膚の上に浮き上がっていた。


 小屋の周りの雪が溶け、新緑が芽吹く頃。

 アシェルは、完全に変貌していた。

 彼は、焚き火の光で、失われた左腕の断面を無表情に眺めた。

 マクシムが荒っぽく縫合した傷跡は、醜く引きつり、彼の「終わり」を象徴していた。

 アシェルは、騎士団の紋章が刻まれた認識票を、腰から外した。

 彼は、それを焚き火の中に投げ入れた。炎が、一瞬、灰色の紋章を舐めた。

 「騎士アシェル」は、完全に死んだ。


 マクシムが、一枚の地図と、粗末な革袋を投げ渡した。

 アシェルが受け取った片手剣は、度重なる訓練で刃こぼれし、柄の革は擦り切れていた。

 それは、粗暴な復讐者の道具だった。


「勘違いするな」


 マクシムは、書物から目を上げずに、冷淡なトーンで言った。


「俺はお前に『投資』しただけだ。お前の命は、もうお前だけのものではない。無駄死にするなよ」


 アシェルは、その言葉を背に受け、振り返らなかった。


「行け。お前の『復讐』を始めろ。ヴィクトルの『研究』が、オルデリア王国を喰い尽くす前に」


 彼は、新緑の森を抜け、オルデリア王国の街道へと歩き出した。

          *

 数日後。

 アシェルがたどり着いた宿場町は、彼にとって最初の「戦場」だった。

 彼は、酒場の依頼掲示板から、誰も引き受けたがらない『古い砦跡』の調査依頼を引き剥がした。

 酒場の主人は、アシェルの無事と、彼から漂う生々しい血の匂いに明らかに驚き、顔を引きつらせながらも、約束の「銀貨二十枚」を渋々手渡した。


 アシェルがたどり着いた砦跡は、崩れかけた石壁が夕暮れの赤い光を浴びる、不気味な静けさだった。

 だが、アシェルは、地面に残された新しい轍の跡と、焚き火の消し炭を見て、「人の悪意」だと直感した。

 彼は音を立てず、崩れた壁の隙間から内部に潜入する。

 かつての中庭は雨でぬかるみ、足元が泥に沈んだ。


 そこに、数人の男が火を囲んでいた。盗賊団だ。奥の物見櫓の下には、猿轡をかまされ、縛られている村人らしき男が見える。

(敵は……五人。一人は櫓の上で見張り。四人が火のそば)

 『灰衣団』のエースだった頃の、冷徹な分析力が瞬時に起動する。

片腕これで、五人)

 アシェルは、まず櫓の上の見張にに狙いを定めた。

 音もなく背後の石段を登り、男の背後に立つ。

 アシェルは、残った右腕一本で、見張りの口を塞ぐと同時に、首筋に剣を深々と貫いた。男は声もなく崩れ落ちる。

 だが、男の体が石段に倒れ込む音は、予想以上に大きかった。


「――誰だ!」


 火を囲んでいた盗賊たちが、一斉に立ち上がる。

 そのうちの一人が、即座に弓を構えた。


(――まずい)


 アシェルは咄嗟に櫓の壁に身を隠す。

 ヒュッ、と風切り音がして、アシェルの数寸横の石壁に矢が突き刺さった。

 (防御手段がない)

 片腕では、盾も、剣での受け流しも間に合わない。

 マクシムの元での訓練が、実戦の恐怖となって蘇る。


「いたぞ! 殺せ!」


 残りの二人が、錆びた剣を抜き、ぬかるんだ中庭を突っ切って、櫓の石段を駆け上がってくる。

 アシェルは舌打ちし、矢の射線を切りながら、あえて石段を駆け下りた。

 狭い石段で、正面から鉢合わせる。

 先頭の男が、アシェルの「片腕」を見て、嘲笑と共に剣を振り下ろした。

 アシェルは、その剣を紙一重で回避する。

 そして、すれ違いざま、右の掌を男の顔面に叩きつけた。


「――『イグニス』!」


 「ジュッ」という肉の焼ける音と、耳障りな絶叫。

 男が顔を押さえて転げ落ちる。

 同時に、アシェルの内側から「命」が数瞬、吸い取られる感覚――あの虚脱感が襲う。

(……まだだ!)

 足がもつれるのを叱咤し、体勢を立て直す。

 最後の一人が、仲間の無残な姿に怯み、石段を転がるように逃げ戻ろうとした。

 アシェルは、その背中に(まだ虚脱感が残る中)再び右手を突き出す。


「――『パルソ』!」


 不可視の力が、男の背中を殴りつけ、中庭の焚き火の中へと吹き飛ばした。

 残るは、弓兵。

 アシェルは、中庭に飛び出し、恐怖で次の矢をつがえられないでいる弓兵に、ゆっくりと歩み寄った。

 男が弓を捨て、命乞いをしようと口を開くより早く、アシェルの剣がその喉を貫いていた。


「……はぁっ……はぁっ……」


 アシェルは、剣を杖代わりにして、その場に膝をついた。

 たった五人の盗賊。

 だというのに、全身は汗と、返り血と、ぬかるんだ泥にまみれていた。

 『イグニス』と『パルソ』を使った反動(代償)で、心臓が氷で掴まれたように冷たく痛む。

(これが……今の、俺の『戦い』だ)

 血と泥にまみれた、クリーンさとは無縁の、命を削る戦い方。

 彼は、捕らえられていた村人を解放し、得た銀貨で数日分の宿を確保し、宿場町に潜伏した。


 彼は夜の酒場に入ると、片腕を隠すように壁際に座り、常に右手を剣の柄に近づけていた。

 周囲の客の視線が、彼を「片腕の厄介者」として品定めするのを感じながら、彼は憎悪に満ちた視線をただ一点に集中させた。


 そんなある夜。

 酒場の隅で硬いパンをかじっていると、隣の卓で飲んでいた傭兵崩れの男の会話が、耳に飛び込んできた。


「...灰色の外套を着た連中さ。王都の手前...あの『赤の街道』で『本物』を見ちまったよ」


 アシェルの剣を握る右手に、力がこもる。

 (『灰衣団』...)

 

ついに掴んだ、最初の「糸口」だった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ