失敗作の残響
「……ほう。まだ息があるか」
乾いた、老人の声だった。
その声に引きずられるように、アシェルの意識は、冷たい水底からゆっくりと浮上した。
最初に感じたのは「寒さ」。次に、腐葉土と泥の匂い。
そして――焼けるような激痛。
左腕が、ない。
いや、ある。
感覚だけが、そこにある。ヴィクトルの剣に切り落とされた瞬間の、骨が砕け、肉が断ち切られるあの激痛が、今まさに起きているかのように脈打っている。
幻肢痛だ。
失われたはずの腕が、存在しないはずの指先が、絶望的な熱量で「ここにある」と叫んでいた。
アシェルは、かろうじて視線だけを老人に向けた。
全身の熱が、失われた左腕から急速に奪われていく。ヴィクトルの顔、エヴァの最期が脳裏で明滅し、もはや何もかもがどうでもよかった。
彼は、泥にまみれた唇から、か細い息と共に言葉を絞り出した。
「……殺せ」
マクシムは、その答えを聞いて、乾いた笑みを浮かべた。
「死ぬのは簡単だ。ここで俺が何もしなければ、お前は夜明けを待たずに凍えて死ぬ」
「……だが、その目。お前は、ただ死にたいだけの男の目をしていないな」
老人は独り言のように呟く。
「『灰衣団』の犬が、師であるヴィクトルに噛み殺され損なったか...面白い」
マクシムは、アシェルの残った右腕を掴み、その痩せた体躯からは想像もつかない力で、彼を泥の中から引きずり出した。
「死にたくなったら、その時言え。だが、今ここで死ぬのは許さん」
「お前には……俺に対する『借り』ができたからな」
*
アシェルが、硬い寝台の上で意識を取り戻してから、三日が過ぎた。
彼は寝台から転がり落ち、床に這いつくばったまま、動けなかった。
『灰衣団』のエースは、もういない。床の埃を舐めることしかできない、ただの「片腕」だ。
夜は、幻肢痛で眠れなかった。
彼は右拳で、丸太小屋の壁を無力に何度も叩きつけた。なぜ俺だけが生きている。なぜ、あの場で死なせてくれなかった。
四日目の夜。
彼が深い眠りに落ちた瞬間、あの「悪夢」が来た。
――ヴィクトルはエヴァの頭に無造作に手を置いた。
「すまんな、エヴァ。お前は、『生命“エヴァ”』ではなく、『欠陥“エラー”』だったようだ」
エヴァが悲鳴を上げる間もなく、内側から崩れるようにして命を失った。
「―――あ"あ"あ"あ"あ"あ"っっ!!!」
アシェルは、自らの絶叫で跳ね起きた。
傷口が激しく痛み、冷や汗が全身から噴き出す。
マクシムが、寝台の脇に立っていた。
「……ようやく、悪夢を見る余裕ができたか」
「ヴィクトルの研究は、そこまで進んでいたか。『失敗作』が出た、ということは、奴は『オリジナル』の解析をほぼ終え、次の段階に入った、ということだ」
アシェルは、この老人がなぜヴィクトルの研究の核心まで知っているのか、その異常性にようやく気づき、警戒を露わにする。
「……貴様、何者だ」
マクシムは、再び書物に目を落とした。
「……俺か。俺はマクシム。お前が使おうとしていた『力』――ヴィクトルが『印』と呼んでいる技術の、基礎理論を構築した……愚か者だ」
「……なら」
アシェルは、床に転がり落ちた時の屈辱を思い出し、呻いた。
「なら、俺を殺せ。……俺は、もう戦えん。剣も握れん。ただの『片腕』だ...!」
マクシムは、その言葉を待っていたかのように、アシェルの胸倉を掴み上げた。
「死ぬか。いいだろう。だが、死ぬ前に選べ」
「お前がここで安らかに死んでいる間に、ヴィクトルは第二、第三のエヴァを作る。お前の娘を『失敗作』と呼んだ男が、オルデリア王国そのものを自分の『実験台』にする。……お前は、それを許すのか?」
「……!」
アシェルの目が、初めて憎悪に揺れた。
「お前の『絶望』は、ヴィクトルの『計画』に比べれば、あまりにも小さい。……エヴァの死を、ただの『不幸』で終わらせるつもりか?」
マクシムは、アシェルの前に粗末な片手剣を一本、投げ捨てた。
「『騎士』としてのアシェルは死んだ。だが、『復讐者』としてなら、まだ使い道がある」
アシェルは、震える右手で、床に投げ出された剣の柄を握りしめた。
「……教えろ」
アシェルは、獣のような低い声で言った。
「その『燃え尽きる力』とやらを。……俺の全てと引き換えに、奴を殺せるのなら、くれてやる」
マクシムは、数ヶ月ぶりに、わずかに口角を上げた。
「いい目だ。……ようやく、『実験台』から『人間』の目に戻ったな」




