内臓臭
本作品には犯罪描写が含まれますが、それらを助長する意図はありません。
人殺しの内臓は金木犀のにおいがした。
そう締めくくられた短編小説はひどくつまらないものだった。
よくこんなものを出版できたな。とすら思う。
そんな聞いたこともないような出版社の安っぽいジャケットに覆われた本を満足げに閉じて茜は言った。
「いやー悪くなかったね」
「どこがだよ」
思わず言い返してしまった俺の顔を、かかったなと言わんばかりに茜は見つめた。
8月も最終盤、夏休みは残りわずかだというのに、この山の影に覆われた校舎でさえ暑い。
じっとりとした汗が頬を伝う。
「ほうほう、平野クンはこの本がつまらなかったと」
「だってそうだろ」
主人公はニヒリズムをこじらせてて不快だし作者の意図を代弁させるためか妙に説明口調、ヒロインは、キャラクター性はいいのに物語の転換点という役割に飲まれて情緒が不安定すぎる。
おまけに話の展開すらオチに向かわせるための踏み台という印象が強く、終盤しか記憶に残らなかった。
「オチ以外なんもおぼえてねぇよ」
茜は、変わった人もいるもんだと言わんばかりの顔をして言った。
「そのオチがいいんじゃない、オチがよくってオチしか覚えてない。じゃあ面白かったってことでしょ?」
なるほどそう来たか。ほとんど屁理屈みたいな発言だが困ったことに言い返せない。
俺は潔く負けを認めることにした。
「わかったわかった、確かに面白かったよオチはね、オチは」
「よし、素直でよろしい」
勝ち誇った表情でうなずく茜。最近負けてばっかりだ。
茜と本を貸しあうようになったのは高校一年の春だった。
押し付けられるように任された図書委員、元々本の虫だった俺は特に意見もせずに引き受けた。
そこで出会ったのが茜だった。赤い眼鏡におさげが似合う童顔。
人数の少ない図書館で口数の多い茜と親しくなるのにそう時間はかからなかった。
入学してすぐだったこともあり高校とはこんなにすぐ異性と親しくなれるものなのかと感動したものだ。
しかし、クラスでは音楽好きを気取ってみたり、明らかに馬の合わないグループに潜入を試みてみたりと努力はしたものの空回り。
結果としては、傷のなめあいのようなグループと茜しか得られたものはなかった。
1年たっても大して状況は変わらず、相変わらず放課後は図書委員としての業務に精を出していた。
「平野クン」
「ん?」
「今日はうちあいてるよ?くる?」
「親父さん今日いないんか」
茜の家庭環境は特殊だ。両親はいるが離婚、茜の家に出入りしているのは父親だけである。
その父親も以前の失業をきっかけに精神を病み、酒に逃げ重度のアルコール中毒に。
現在は要領のいい茜の計らいもあって禁酒に励みながら生活保護を受けて親子で生活している。
今は落ち着いたものだが以前はそれはもうとんでもないクソ親父だった。
茜もずいぶん苦労させられたようだ。
いつだったか茜の家に行ったとき、運悪く鉢合わせてしまい。酔った勢いで口に含んだ酒を吹きかけられたこともあった。
それ以来茜は家に俺を呼ぶときは父が家にいるかどうかを教えてくれるようになった。
「家にカバンおいてから行くよ、ついでにアイス持ってく」
「おー、親切な平野クンに100ポイント!」
「何のポイントだよ...。まぁいいや本かたずけてから帰るからさ、先帰ってて」
「りょーかい。平野クンも気を付けて我が家までくるよーに」
夏はまだ終わらない。日の光を浴びた山々が四方からこの小さな町を見下ろしていた。
それがひどく煩わしくて白いキャップを深く被って地面をにらみつけた。
――――――――
「茜ー、あかねー?」
熱されたアスファルトの向こうで歪んで踊っているあぜ道を自転車で突き抜けると、古びたアパートの前にたどり着いた。
普段なら俺が来ると知っている茜はアパートの前で待っている。
勝手に入っていいのだろうか?
軽い罪悪感と茜しか家にいないのならという安心感でアパートの敷地に侵入する。
2階へ続く錆びた階段を慎重に上ると想像より大きな音が反響した。
茜の家の前に立つ。
日に焼かれて粉を吹くように劣化したインターホンからは何の返事もない。
黒い縦に取り付けられた現代式のドアノブに手を伸ばすと何の抵抗もなく扉は開いた。
何の明かりもついていない玄関は外の熱気からは考えられないほどに冷め切っていた。
「茜?」
薄暗い室内に声をかけるも返事は帰ってこない。
鍵は開いていたのだから一度帰ってはいるはずだ。俺が来るとわかっているのに鍵もかけずに出かけるとも思えない。
そんな無意味な推理を重ねているとまるで音が遅れていたかのように返事が返ってきた。
「平野クン?」
「茜?悪い、勝手にドア開けちまった」
「いいよ、それよりちょっと手伝ってほしくってさ、中に入ってきて」
普段の茜とは雰囲気の違う平坦な声。ただわずかに感じた違和感は部屋の中に踏み入る足を止めるには至らなかった。
「リビングにいるからさ、はいってきて」
薄暗い廊下を抜けるとすりガラスでできた引き戸の前に立つ。
茜はこの中にいる。取っ手に手をやると気味が悪いほど滑らかに、自ら開いたのではないかと錯覚するほどにたやすく開いた。
「お父さんを隠すの手伝ってくれない?」
何でもない風に、血に沈む小汚い瘦ぎすな男を指さして茜は言った。
暗い暗い瞳に俺は心底惚れ込んだ。
夏はまだ終わらない。あるいはもうこの夏の終わりを見届けることはないのかもしれない。
セミの声が聞こえる。目の前にいる人殺しからは、金木犀のにおいがした。
――――――――
「なんでって顔してるね」
俺は声が出ない。それが恐怖によるものか、部屋に立ち込める生温い血の匂いにあてられてか。
はたまた、目の前の殺人者のその目に吞まれてかのことかはわからない。
とにかく俺は声が出なかった。
「お父さん死にたくなっちゃったんだって」
「二人で死ねば怖くないんだってさ、そしたら幸せだって」
茜の暗い瞳には何の感動も浮かんでいない。
床に落ちた鈍く光るビール缶だけがカラカラと音を立てる。
「不幸にしたのはお父さんなのにね」
ひどく納得がいった。いまだ混乱する脳みそは状況の一握りすら処理できていないがとにかく納得がいった。
茜が今頼れるのは、俺しかいないのだ。
「いいよ」
「え?」
「いいよ、隠すの手伝ってやるよ」
茜は自分で言ったくせに呆気に取られてぽかんとしている。
この選択は間違っていたのだろう。ただ、かすかにふるえる足に俺は気づけなかった。
久しぶりに勝ったな。場違いな感想が浮かんだ。
――――――――
俺と茜は高校の裏山に死体を埋めた。
ここは市街地には近いものの、近くに小学校があるため。生徒が迷い込んでしまわないようにフェンスで入れないようになっている。
当然整備もされていないので山の中はとても人の入れる状態ではなかったが、さすがにそこは高校生、汚れや多少の擦り傷に目をつぶれば入れなくもなかった。
元々親族から絶縁状態にあった茜の父に交流のある人物はいない。
買い出しや洗濯、役所との手続きすら茜が行っていたのだ、アパートの住民の中には茜と父が同居していたことすら知らない者もいるだろう。
死体さえ隠してしまえば、茜とはそういう結論に落ち着いた。
「平野クン」
「ん?」
「アイス。食べに戻ろっか」
薄く霞んだ青空の下、茜は薄く笑みを浮かべてそう言った。
日は依然として高いままだが、少しだけ涼しい風が吹いたような気がした。
――――――――
「平野クン」
「なんだよ」
アパートに戻ると早速冷蔵庫から取り出したわざとらしく青い棒アイスをかじった。
アパートへの帰路。いや、死体を埋めてからの茜は一言も発さなかった。
それが突然口を開いたもんだから何とも情けない上ずった声でそっけない返しをしてしまった。
「いま、何考えてる?」
ありきたりで難解な質問。
死体を埋めるという行為に対しての感想を求められているのか、死体遺棄という犯罪行為に手を染めたことに対する罪悪感の有無を問われているのか、どちらにせよ答えは一つだった。
「興奮してる」
そう、興奮しているのだ。死体を埋めるという非日常に、物語の中に入ったかのような高揚感に、そして何より、これまでもくだらない日常が崩れていくという喜びに。
「だいぶヤバいね、平野クン」
自覚はある。しかし、人殺しの張本人に言われたくはない。
人一人。というか、実の父親を殺しておいて、この態度。
遠藤茜という人物はおよそまともな倫理観、罪悪感を持ち合わせてはいないだろう。
「うるさいな。それより、おまえはどうなんだよ」
「そりゃあ...」
少しだけアイスが溶けた。
推理小説の最後までもったいぶられた犯人の動機を問いただすかのような気分だった。
親殺しの犯人はどんな気持ちでその亡骸を土に埋めたのか、それが知りたかった。
「怖いよ」
少しだけ、以外な返答だった。
「もうこれで、私は独りぼっちだ。家族、という意味でも人間社会で、という意味でもね」
「人殺しは人殺しらしく一人で死ぬしかない。それが、たまらなく怖いよ」
俺は茜の何を知っていたのだろうか。
茜は俺にとって春だった。それもけたたましく響く春雷のような人物だと、そう思っていた。
俺は茜にとって何だったのだろうか。
茜の憂鬱な高校生活にとっての太陽だったのだろうか。
それとも、ただの薄く広がる間接照明のどこから湧いているのか判然としない無数の光源のうちの一つだったのだろうか。
それとも、いや。
きっと俺は、茜にとっての秋だったのだろう。そして今はそうなりたいと俺は思っている。
きっと茜は冬を、そして次の春を見たくはないだろうから。
「ねぇ。平野クン」
ひらきっぱなしの掃き出し窓から蝉の声が生ぬるい風に乗って入ってくる。それを迎え撃つように錆びの目立つ扇風機がカタカタと必死に首を振っている。
ここは2階だ、緩やかな丘陵に作られた市街地の頂上に近く見晴らしがいい。
窓からは青々とした山々がこちらをのぞき込んでいる。
そうだ、今度詩集をもってあの山へ行こう。俺は興味がないが茜はそういうのも好きだったはずだ。
アイスは溶けてしまうから。ちょうどこの前買ったクーラーボックスを持って。
でも結局のところアイスは溶けてしまう。どれだけ考えてもあの山まで持たない。
あの山を、この夏を超えられない。
あぁ、ほらやっぱりアイスは溶けてしまった。
「お願いがあるんだ、とっておきの」
――――――――――
人口一万人程のこの町は、県の中心地からはそう離れていないものの、四方を山に囲まれている。
その中心にある平野に密集して建てられた家屋は、古びてはいるものの伝統的と銘打てる程ではない。
一言で言ってしまえば何もかも中途半端な町だった。
しかし、そもそも標高が高いことや周囲を山に囲まれていることでよそに比べて夏は涼しい。
そんな理由で密かにではあるが避暑地としては一定の人気があった。
8月を過ぎると町は静かになる。フェーン現象だとかホットアイランド現象だとか、うんちく好きのクラスメイトが教室で話していたが本当のところは知らない。
要は残暑だ。
9月のこの町は暑い。
ひらきっぱなしの掃き出し窓から蝉の声が生ぬるい風に乗って入ってくる。それを迎え撃つように錆びの目立つ扇風機がカタカタと必死に首を振っている。
とうにアイスは食べ終え、ただただ生ぬるい風が体を足元から舐めまわしている。
今年は例年に比べて気温が高いと朝のニュースキャスターは無念そうな顔して話していた。
言うほどだろうか?
足の指から脳天まで。下からゆっくりと体に力を入れてみる。
冷えた汗が背中を伝う。
どうやら本日の勝者は扇風機のようだ。
アイスをもう一本。できるだけ小さな口で、すぐに食べきってしまわないようにほおばる。
甘味料とその涼しげな風貌がわざとらしく清涼感を全身に伝える。
外気に比べて冷え込んだ肺の中の空気を吐き出すと口内だけ一足先に秋が訪れたようだ。
秋は嫌いだ。大したイベントもないくせに、夏はさぞつらかったでしょうと言わんばかりに読書だの食欲だのスポーツだのを吹聴する。
俺は本当に読書が好きだったのだろうか?
軽い疑問を流すように息を深く吐く。
今度はいつもとは逆に、口から空気を軽く吸い込み、鼻から空気を深く吐き出した。
足りなかった空気の分だけ、浮遊感を覚えた。
そんな独りぼっちの部屋に金木犀のにおいが微かに漏れた。
少し寒い。
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