後攻の有利性について
頭の中に清潔な濁流が発生しているときが、生きているうちで一番気持ちがいい瞬間だと思う。僕の場合の濁流は、緑や茶色を基調とした水流によくみると赤や紫が混じっていている。あと追加情報として、遠景の暗い海が、その濁流のイメージとまったく同じ座標に存在しているのにも関わらず流れの勢いに一切なびかない。結果、遠い静かな海という土台の上、カラフルになりきらない程度の装飾を施された濁流が走っているという画でも動画でもないイメージができあがっている。
細かくいうのならあと白すぎるカモメとか百二十世紀パラソル、洗っても落ちない古い飲食店の看板とか、色々なものがあるのだけれど、それらはあえて描写するほど主張の強いものではないので、イメージをリアルに表現するのなら述べない方がいいという判断だった。こういう点で小説は漫画や映画と比べて不利になる。一応は病院とか学校とか言った時には、その施設の基本セットみたいなのが頭の中のイメージに加わるのだけれど、今僕が言いたいことにはプリセットが提供されないから、小説の悪い部分が濃く出てしまう。小説は自由であるがために、常に前もって宣言する必要があるトレードオフが、かっこいい古のプログラミング言語みたいだ。僕はアセンブリの原始的な動作で問題を解消する今となっては不毛な様が好きだ。
僕はこれまでの口喧嘩や言い合いすべてに負けてきている。勝ったおぼえというか、口論になり始めの空気を嗅ぎつけた瞬間にもうどうでもよくなるし、絶対に押し通したいと思うような出来事にも出会ったことがない。語るほどに熱は冷めていく。これ自体は全くおかしなことではないが、僕の場合そのスピードが異常なんだ。ここで、周りの人の保温機能が異常だという見方もできるのだろうけど、できることなら僕は僕の反省に他人を巻き込みたくない。他人というこちらからはどうしようもない不確定要素は反省も、あるいは怒りや強い意志をぶつけるにしても柔すぎるし、なるほど僕は他人への信頼が持てないから口喧嘩に勝てないのか。しかしその結論の反省点はまず、自分への信頼がないことへと帰ってくるのである。自分しか悪くないというよく見知った景色。そうしておいた方が納得をつけるという目的に置いて圧倒的に楽なんだ。何かといえば性悪説を持てはやす楽観的な奴らと同じで、そっちの方が楽だから、惰性でそっちの結論を採択するんだ。少なくとも僕と、その性悪説野郎どもに限っては、まだ一回も現実にマジで向き合ったことはないらしい。どうか聞いて欲しい。人生における佳境をすべて後攻の有利性で潜り抜けてきた美しいあなたに聞いて欲しい。僕はあなたに決して敵わない。そしてあなたのことを卑怯だなんて絶対に言わない。なぜなら僕はゲーマーだから。先行有利なゲームも後攻有利なゲームも、どちらも経験してきた。でもなんだか、後攻をとる方が有利で、さらに汚い手段をとったようにみえてしまうのは、そっちの論を証明する方が楽だから、先行を勇ましいとして考える方が楽だからに過ぎないんだ。ゲームは人生ではないが、そこには人生のエッセンスがふんだんに盛り込まれている。これは小説でも映画でもマンガでも、何でも同様で、すべては人生のなかに含まれている。重要そうか重要そうでないか。それは領域を築いているかどうか、その程度の違いでしかない。よく知らないで言うのもあれだけれど、これはマーケティング戦略の話に似ている。
『シルバーアントの巣を放置しておくとそこから湧いてきたシルバーアントがガーゴイルと敵対し、ガーゴイルがいるときだけこちらの味方になってくれますが、ガーゴイルは経験値がかなり美味しく、その経験値を奪われないためにもシルバーアントの巣は早めに潰しておくのが普通です。』
ゲーム上級者が書いた攻略ブログをみながら、ただ書いてあることに従ってボタンを押しているあの時間が、冬になると無性に恋しくなってくる。冬には暖房器具が一切ない部屋の中で外行きの厚着をして、その部屋でただ一つ派手な色彩を放っているPCモニターの前に貼り付いて、じっくりめのハードなローグライクに取り組むに限る。苦しさが寒さとシナジーを起こすんだ。だからロシアにはやり込み系の格ゲーが強い奴が多いんだってなんだか合点がいくような、パーマデスで死んでもう一回やり直すような、そんな深夜から朝方までの時間をゲーマーはゴールデンタイムと呼んでいる。