二つのニュースと、鉄の蓋
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マイカが頬の痛みに目を覚ますと、またもや黒い男の顔が視界に映った。
カラハという名のその男の顔は無駄に整っていて、それがマイカには余計に腹立たしかった。余裕の笑みなのか、カラハはニヤニヤ笑顔を張り付けたまま白々しくマイカに挨拶をする。
「よォ。おはよーさんだなァ」
「……何なの、またバットで殴ってまた治すとか。消すならさっさとすればいいのに。情報ももうベラベラ喋っちゃったし、もう必要ないでしょわたし」
自分の負けを認識した時点で、『処分』される事は覚悟していた。なのにこの男は──カラハが何を考えているのかマイカには全く解らない。
「お前にさ、良いニュースが二つあンだけどよ」
「……は?」
カラハの言葉に耳を疑う。この状況で良いニュースと言われても、マイカには全く意図も意味も判らなかった。しかも二つあるという。──どうせロクなものではないだろうと半ば諦めながら、言葉の続きを促す。
「じゃあ聞かせてよ。冥土の土産とかいうのにするから」
「解った。じゃあまず一つ目──お前さァ、腹にガキ居たんだぜ。知ってた?」
え? と疑問符を零し、マイカは目を見開く。言葉に理解が追い付かず、頭が真っ白になった。
ガキ? え、それって、え? ……子供? 余りにも突拍子も無い単語に、思考が追い付かない。その様子が余りにも間抜けに見えたのか、カラハが笑いを噛み殺している。しかしマイカはそれどころでは無かった。呆然としつつ何度も疑問を口にする。
「え、え? 何、それって、は? まさか、子供って、え、妊娠してたの? わたし?」
「彼氏いたんだろ? 多分そいつの子じゃねェかな」
「え、あ……元々不順気味だったから、全然、判らなかった……。でも、だとしたら、え──」
「そりゃま、あんな状態で生きてる訳無ェんだがよ。それがなァ、その水子の魂がさ、お前さんの身体にひっついたまま、輪廻もせずに居るらしくってなァ?」
「……魂が、……赤ちゃんの魂が、……身体に?」
頭を殴られた痛みの何十倍もの衝撃。精神そのものに受けるような、そんな重みがマイカのぼやけた心に鮮烈に突き刺さった。
わたしの、子供。カレシとの赤ちゃん。産まれてくる筈だった命。それが、あの事件で知らぬ間に失われていたという事実と、そして、魂はまだ居るという、希望──。
マイカは、自らを見下ろす憎かった筈のその男に、必死で食って掛かった。マイカの中の衝動が、本能が、そうさせた。
「わ、わたしの! 赤ちゃん! ど、どこに、何処に居るの!? わたしの身体って言ったよね! 何処に、何処にあるの!? あなた知ってるの!? ねえ、知ってるんでしょ!? 教えてよ!」
カラハはニィッと牙を見せて笑い、そして目の前に立てた二本の指を突き出す。
「それが、ニュースの二つ目って奴だ。な、いいニュースだったろ? ……まあそう慌てンなって。これから説明してやるからよォく聞けよ?」
涙をポロポロと流すマイカは、こくこくと何度も頷いた。先程まであんなに憎かったカラハの事をまるで仏か天使かのように感じた。
マイカには、死んでから怨霊になって此処で目覚めるまでの間の記憶が無い。そしてマイカを殺したあの男は、遺体を遺棄した場所を誰にも知らせないまま自殺したらしく、未だにマイカの遺体は見付かっていないのだ。犯人の少年達がさほど重い罰を受けずに放逐された理由もその辺りにある。
だと言うのに、どうやってカラハは身体の在り処を知ったというのだろうか──。
──いや、そんな事はそもそもマイカにはもうどうでも良かった。肝心なのは、自分の身体が何処にあるか、つまりは水子の魂が何処に居るか、その一点のみなのだから。
「いいか、お前が此処で目覚めたのは偶然じゃねェんだ。実はお前の身体は──この下にある」
そう言いながらカラハは立ち上がり三歩ほど後退すると、旧校舎の近くにあるコンクリート張りの地面、その上で静止する。そして中心にアル赤黒く錆の浮いた鉄製の蓋を、踵でコンコンと鳴らした。人ひとり通れる程度の大きさの蓋はいかにも重そうで、マンホールか何かだろうか、とマイカは首を傾げる。
「その中に、あるの?」
「そうだ。そして恐らく、年月の所為でお前の身体は骨だけになっているだろう。だからその骨を、お前自身が取って来るんだ。全部は無理だろうから、一番大切な骨──頭蓋骨だけでいい」
「頭蓋骨だけで大丈夫? 赤ちゃんもちゃんといる?」
「頭蓋骨は、その人物を特定する一番重要な骨だからなァ。多分、水子の魂が傍にくっついて小さく光を発してるだろうから、ちゃんと見りゃアすぐ判るだろうよ」
「……わかった」
マイカはそろり起き上がるとふらつきながらも必死に歩き、そしてカラハの傍に立ち並んだ。
蓋に二人の視線が落ちる。下水か何かだろうか、汚いのは嫌だな──とマイカは少し顔をしかめたが、背に腹は代えられないという奴だ。覚悟を決めるしかない。
「よし、いいな? ……しっかし錆酷ェな、すんなり動くといいんだが」
マイカの頷きを確認したカラハは、そう漏らしながら踵で踏んで蓋の取っ手を起こした。両手で握ってゆっくりと引くと、予想よりも蓋の動きはスムーズで、開けるのに大して苦労はしなさそうだ。
少し浮いた隙間からは刺激臭とも言える程の得も言われぬ臭いが漏れ、マイカは思わず顔をしかめる。やがて鉄の蓋は完全に開ききり、ぽっかりと丸い穴からは強烈な臭気が立ち上ってきた。
「え、……なに、これ」
下水よりも段違いに強い臭いに、マイカは圧倒されて中を覗こうとした顔を思わず引っ込めた。目に沁みて涙が出る、拒否反応で胃が収縮し嘔吐感が喉を突く。無意識に一歩、足が後ろに下がる。
「はン。見ての通り、便槽だな」
「え。それって……。下水道とかじゃなくて? だってあのトイレ、水洗じゃ」
「まだ下水道の整備が完全じゃなかった頃の建物だからなァ。簡易水洗っつってな、下に浄化槽──汲み取り用のタンクが埋まってるって方式だ。本来なら換気扇なんかでガスが溜まらないようにするモンだが、まあ電気も止まってるしな」
「そ、そんな……この、中に? わたしの骨、この中にあるの? 嘘でしょ? 浄化槽って、だってこれ、肥溜めじゃないの!」
青ざめた顔で震えるマイカとは対照的に、カラハは満面の笑みで、マイカの肩に腕を回した。逃げ腰になった身体をぐいと引き寄せる。
「残念ながら、嘘じゃねェんだなァ、これが」
そしてマイカの身体をぐっと押す。ひ、と引き攣ったマイカの口から悲鳴が漏れるのにも構わず、カラハは笑いながら背中を押す手に力を込めた。その大きな手の平は有無を言わさぬ程に強く、震える足がマイカの意識とは関係なく前に進む。
「ホラ、ぐずぐずすンじゃねェよ。手間掛けさせんなって」
とうとうマイカの足が、穴の縁に掛かる。唇はもはや呻きすら上げず、目は穴の中を嫌でも凝視する。
暗い槽の中、どろどろとした黒っぽい何かが、並々と湛えられている。絶望とはあんな色をしているのだろうか。マイカは暴行事件の事を思い出す。あれも酷かったが、こちらも間違い無く地獄と呼ぶに相応しいだろう。
動けない、動きたくない。ああ、ああ──ぐるぐる逃避を続けていたマイカの思考がその時、その声で、切断された。
「オラァ、行ってらァ!」
ドンッ、と余りにも強い力で背中を蹴り飛ばされ、マイカは、一瞬の浮遊感の後。
声すら上げる事も出来ないまま、真っ逆さまに、糞泥の中に墜ちていった。
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お読み頂きありがとうございます!
マイカが突き落とされる先は絶望か希望か。穢れた深淵で、彼女は目的を成し遂げられるのか……?
次回も乞うご期待、なのです!
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