終わる世界と、溶ける月
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「──ッ!」
鋭く呼気を発すると同時、軽く流すような動作でカラハが槍を薙ぐ。鈍銀の光が三本、棚引くように孤を描いた。その三本の斬撃は真っ直ぐに、百足の大剣を振りかぶり迫る女に向かって疾駆する。
「っ、あ、ああぁあああっぐおあああっ!?」
カラハの斬撃に触れた途端、女の身体を覆っていた百足の鎧が霧散する。こそげるように弾け飛び、宙を舞った百足達は地に落ちる間も無く光の粒子に変わる。女が驚きに声を上げ、見開かれた左目から幾つもの百足がばらばらと零れた。
衝撃で女がよろめき、しかしがくがくと揺れる身体はまるで見えない糸で吊られ操られているかのように倒れない。女は再び百足の義足を踏ん張ると、狂ったように叫びながら突進を開始する。
「あがうぉああっ、ママを、ママを返せええぇええああああぁあぁあっ!」
「しつっけェ女だなァ!? 事情聞き出すのに手加減しようと思ってたんだが──ヤメだ、ヤメ! 一思いにやってやらァ!」
狂気の叫びと百足の大剣がカラハに迫る。カラハはニヤリ笑うと、一層激しく神気を発し、構え直した槍を無造作にも見える仕草で振り下ろそうとする。
「っ、所長っ! 駄目えっ……!」
しかしその軌跡は、割り込んだ叫びによって動きを止めた。刹那の躊躇の後にカラハは起動を変えて、襲って来た百足の大剣を刃の腹で打ち払うに留める。それでも槍の力は相当なもので、百足の剣は半分以上が砕け崩れて、多くの百足が光の塵となって消え失せた。
カラハはそのまま槍の柄で掬い上げるように女を打ち据える。神気を込めた一撃は女に纏わり付く百足を払い、そして女自身もを軽々と弾き飛ばした。吹っ飛び地面を転がる女から目を離さぬまま、カラハは鋭い声をドーラに投げる。
「何で止めたッ!?」
声に含まれた想像以上の怒気に怯む事無く、ドーラは叫び返す。身体を侵していた百足こそ取り除いたものの、まだ裂かれた下半身の傷からはじくじくと血が滲み続けている。虎になったカゲトラに凭れる形で何とか身を起こしている状態だ。
それでもドーラは声を張り、カラハに思いを伝えようと必死だった。
「殺すのは、駄目です! 彼女はまだ人間です、まだ救いの道がある筈です! それに、私は所長にそんな事をさせたくないんですっ!」
「でもコイツは、こんな大それた事をしでかしちまったコイツには──生きてる方が地獄じゃ、ねェのかよ!」
「それでも……っ! 所長がそれを負う必要は無いんですっ、それに、所長なら出来ますよね、殺さずに済ませる事……!」
チッと舌打ちを零し、カラハはドーラへの反論を飲み込んで女を睨んだ。
使役していた百足を殆ど失った女は立ち上がる事も出来ず、ずるずると無様に這いつくばりながらもまだカラハに近寄ろうとしていた。片脚と片腕を失い、白い肌を埃と泥で汚し、瓦礫で傷だらけになるのも厭わず前身を続けている。
「……しゃアねェな」
再度舌打ちをしながらカラハは手を振り、槍を手放した。瞬時に三つ叉の槍は存在を失い虚空へと消え失せる。そのまま無造作に女へと近付きながら、カラハは腰のベルトに固定したシースから黒いナイフを引き抜いた。
「ママ……ママ……わたし、しあわせに……いっしょに、ママ……」
ぶつぶつと呟きながら惨めに這う女の前にカラハがしゃがみ込む。汚れてもなお女の顔は美しく、しかし今にも泣きそうに表情は歪んでいた。伸ばされた左手をカラハが握ってやると、その手は怯える幼子のように酷く震えている。
カラハを見上げる右眼は涙で潤み、しかし左の眼窩には──どくんどくんと脈打つ、赤黒い百足の玉が弱々しく蠢いていた。
「今、解放してやるからな」
酷く優しげな声色に、女の右眼からは涙が零れた。そしてカラハはまるでくちづけをするかのように左手でそっと頬を包む。女はほろほろと涙を流しながら、静かに目を閉じた。
開いたままの左の眼窩に、──何の躊躇も無く、ナイフが突き立てられる。
「っ、お、ごおぅ……!!」
手早く刃が捻られ、そしてゆっくりと、黒い刃身が引き抜かれる。女の喉からくぐもった唸りが漏れる。ずぼり、と湿った音を立てて眼球めいた塊が引き摺り出され、神経めいた糸がぷつぷつと千切れ垂れ下がった穴からは、一拍置いてこぽりと血が溢れた。
「へえ、コイツぁ……」
カラハはナイフに刺さったままのそれを見て目を細めた。
全て百足で出来ていると思われた球体からぼろぼろと動かなくなった百足が剥がれ、その正体を露わにする。──それは、ぶよぶよとした赤黒い何か。恐らくは呪術的なものなのだろう、鼓動を打つかのように薄く明滅を繰り返している。
そしてその表面にはくっきりと紅い線で、『結社』の印が描かれていた。
「おい、お前、これ──」
カラハが女に問おうとした瞬間、糸が切れたように女が崩れ落ちた。と同時に眼窩に埋まっていたその球体も光を失い、どろどろと溶けてゆく。女は白眼を剥いて気絶しており、呼び掛けても揺すってもしばらく起きる気配は無さそうだった。
カラハは大きく溜息を吐くと、手早くコートの裾で刃身を拭い立ち上がった。黒いナイフをシースに戻し、ドーラとカゲトラの傍へと歩いてゆく。
「……終わったんです?」
「ああ」
「お怪我とか、無いです?」
「お前の方がよっぽど大怪我だろうがよ」
「それもそうですね」
カゲトラに身体を預けたまま、ドーラがふふっと力無く笑った。カラハはそんなドーラの前に跪くと、顎を掴んでくいと持ち上げる。ドーラが見上げたカラハの額には、未だ燐光を零す第三の瞳が開かれていた。
おもむろに、唇が重ねられる。
「……ん、」
くちづけ越しに、ドーラの身体にカラハの神気が流れ込む。それはとても熱く、冴え冴えと研ぎ澄まされた、強大ながらも酷く心地良い気。
霊力を多く失っていたドーラの身体にそれは驚く程に馴染み、染み渡ってゆく。やがて唇が離れると、ドーラは充足感と名残惜しさに、はあと溜息を零した。
「間に合わせだが、ちったァ足しになるだろうよ。──それと、これもだ」
言うや否やカラハは着ていたロングコートを脱ぐと、ばさりとドーラの肩にそれを被せる。一瞬きょとんとしたドーラだったが、今の自分の状態をようやく思い出し、羞恥に息を詰まらせた。
「っ……、あ、ありがとう、ございます……」
ドーラは頬を真っ赤に染め、慌ててカラハのコートで全身を包む。着ていた組織の制服はズタズタに斬り裂かれ、身体の前面が丸見えの状態のままだったのだ。コートにはまだカラハの体温が残っており、安心感にドーラは大きく息をついた。
不意にそれまでとは違う、澄んだ風が二人の間を擦り抜ける。カラハが空を振り仰いだ。つられてドーラも月を見上げる。
重く世界を支配していた紅い月が、ひび割れ、溶け始めていた。──結界が解かれ始めているのだろう。直きに、この街も元に戻る筈だ。
何処かからカラハを呼ぶ声が聞こえる。恐らく安芸だろう、黒いスーツ姿の男が走って来るのが遠くに見えた。
「取り敢えずは──片付いたな」
ポケットから黒い煙草を取り出し、カラハはライターを擦った。ちり、と先端に火が灯り、紫煙がふわり風に乗る。
ゆっくりと煙を吐くと、崩れかけた偽物の月が霞む。何処かで生き残っていた百足が死んだのだろうか、一粒だけの光がゆるゆると空へ昇ってゆく。
カラハは大きく紫煙を吐き、そしてゆっくりと、瞳を閉じた。
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二章バトル、ようやく終了です!
後はごそごそと……闘いが終わったとはいえ、色々とまだ残っています。
それでは次回も、乞うご期待、なのです!
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