絶望の淵と、降る希望
*
悪夢だの地獄だの、おおよそそのような安易な言葉では言い表せない恐怖と苦痛と絶望の中を、ドーラは漂っていた。
女が腰を動かす度にざりざりと身体は削られ、同時に小さな百足達が外から内から蝕み続けている。美しかった身体は血と汚濁と粘液にまみれ、じくじくと染む毒が皮膚を肉を内臓を腫らし苛んだ。
通常ならば肉体は原型を留めず既に肉塊と化しているであろう程の激しい責めだ。しかし幸か不幸か、回復能力の所為でその形を保ったまま、新鮮な苦痛が与えられ続ける結果となっているのだ。これを、地獄と称さずして何と呼べばいいのだろう。
常人ならばもうとっくに正気を失っているであろう状況に、しかしドーラは狂う事も出来ずただひたすらに絶叫を上げる。自分の身体が今どうなっているのかも分からず、苦痛にくぐもった悲鳴を上げる。身体はびくびくと不規則な痙攣を繰り返し、揺さぶられるままにまるで人形の如くがくがくと跳ねた。
「まだ死なないの。まるで化物ね、埒が開かないわ。いっそ生きたまま閉じ込めてわたしのおもちゃにしようかしら」
愉悦を含んだ女の嘲りも、鼓膜の破れた耳には途切れ途切れのノイズじみた囁きにしか聞こえない。しかしはっきりとした内容は分からずとも、ドーラは言葉に反応し、百足が半分刺さったままの瞳で女を睨み付けた。
──私はこんな所では死なない、こんな奴の玩具になんかもならない。ドーラは怒りと信念を支えに、磨り減り折れそうな心を奮い立たせる。突き上げられまた嘔吐感が込み上げる。喉に居座ったままの百足が蠢く。霞み掛かる意識を必死で繋ぎ留め、ドーラは強く強く奥歯を噛み締めた。
所長──声無き声で、心で、必死に、ただ一途に叫んだ。
「呼んだか、ドーラ!」
心の叫びに応える声、それはただの幻聴だと最初ドーラは思った。澱んだ瘴気を裂く心地の良い低く響く、それはドーラが求めて止まぬ声。
「おいテメエ、俺の助手に何してくれてンだッ! とっととその汚ねェ身体、ドーラから離しやがれッ」
百足の女が動きを止め、声のした方を振り仰ぐ。ドーラもそれにつられ、ゆっくりと瞳を動かした。
影が差す。そして影よりもなお黒く、その男は立っていた。
「アンタの『ママ』が地獄で待ってンぜ。人のモンに手ェ出して、──覚悟は出来てンだろうなァ? あァ!?」
「っ、しょ、ちょ……う……!」
幻聴では無かった。ドーラは必死で言葉を紡ぎ、呼ぶ。瞳からはもう枯れ果てたと思っていた涙が溢れた。カラハはそんなドーラの様子に一瞬顔をしかめ、そして直ぐに安心させるように牙を見せて笑う。
「……すまねェなドーラ、遅くなっちまった。直ぐに助けてやるからな」
その全身からは煌めく灰にも似た神気が溢れ、額には第三の瞳が爛々と輝いている。その存在は圧倒的で、しばし絶句していた百足の女は、しかし直ぐにその表情を憤怒へと変化させた。
「突然現れて、何なのあんた!? もうこの雌犬はわたしの物よ! すっこんでなさいよ、あんたなんてママが踏み潰してくれるんだから……!」
そして女は身を起こすと、ずるりとドーラの身体から百足の棒を引き抜いた。体内がこそげられてドーラがまたくぐもった悲鳴を上げる。ぐちゃぐちゃに切り刻まれた下半身からは赤黒い血と肉片と汚物が噴き出し、溜まりを波打たせた。
それを目の当たりにし、カラハが形の良い眉を顰める。再び表情が怒りへと変わるカラハの様子にも気付かずに、女はゆっくりと立ち上がった。ぐったりと力を抜くドーラから百足の群れが離れ、蠢きながら女へと群がってゆく。
「この娘は凄いおもちゃよ、幾ら壊しても死なない。ずっと飼い殺してあげる、わたしとママとのこの楽園でね」
勝ち誇ったように笑う女の右腕に百足の大きな剣が生える。蠢く百足が女の全身を覆い、不定型の鎧を作る。カラハは不快そうにその姿を睨み付け、ギリと牙を鳴らした。
「……テメエの『ママ』はもういねェ」
「──は?」
「さっきも言ったろ。あの化けモンは俺が倒した。そろそろ地獄に着いてる頃だろうよ」
吐き捨てるカラハの台詞に、女がその意味を理解出来ず呆然と固まった。黙ったままのカラハの視線が嘘でも冗談でもないと語っている。女の顔が徐々に引き攣り、かたかたとその身体が震え始める。
「う、嘘よ……だってママは、わたしのママは。……ここで、一緒に暮らすって、ママと幸せを取り戻すんだって、こ、ここだったらそれが出来るって、……あ、あの人が、あの人が」
震える度に女の身体からは百足がぼろぼろと零れる。百足で埋め尽くされた左の眼窩からは、涙のようにぼろりと小さな百足が落ちた。
そんな女の様子にカラハはふうと息を吐き、紅い月を見上げる。
「そうやって『結社』にそそのかされたのか。騙されたんだよ、アンタは。この結界とあんなデカブツ、維持するのにどんだけの魂が必要か分かってんのか? 最初から無理な話だったんだよ。多分これを踏み台にしてもっとデカい事やるつもりだったんだろうよ、アンタらは捨て駒って訳だ。ま、同情はしねェけどな」
カラハの言葉を聞いているのかいないのか、女の震えはますます大きくなる。それはもはやがくがくと痙攣のように、小さな百足を周囲に撒き散らす。
既に女の顔からは表情が抜け落ちていた。元々美しかった顔はもはや能面じみて、身体の動きと相まってまるで壊れた人形のようだ。
「──所長!」
百足の拘束の無くなったドーラが喉の百足を吐き出し、警告の叫びを上げた。カラハに会えたお陰で気力が取り戻せたのか、全身から霊気を放出し皮膚や体内に潜り込んだ百足を排出している。猫に戻ったカゲトラもなおなおと鳴きながらそれを手伝っていた。
一瞬だけその様子を視界の端に捉え、カラハは安堵に笑みを漏らした。再び正面に視線を戻し、女の全身が赤黒い瘴気を噴き出すと同時、──カラハも空中に手を伸ばす。
「分かってる、任せとけ……ッ!」
そして顕現した三つ叉の槍──トリシューラを手にし、カラハは笑った。心底楽しげに、獰猛に笑う。
「っあああぉおあああぁああっっ!!」
女が出鱈目な咆哮を上げ巨大な百足の剣を振りかぶった刹那、カラハもまた、神気を纏った槍を一層輝かせた。
*
▼
ここから新作! ストックじゃない書き下ろしとなります!
さてさてカラハ登場! ドーラちゃんも無事なようで、安心感半端無いですね。
次回も乞うご期待、なのです!
▼