日本人が日本語を書く場合、正しい日本文法を意識しておくべきか?
藤谷 K介(武 頼庵)さんのエッセイ『文法って気にしたことある?』(https://ncode.syosetu.com/n9931io/)に感想を書いたのですが、長文になりそうだったので1本エッセイを仕立ててみました。
藤谷 K介(武 頼庵)さんのエッセイは、下のランキングタグのところから跳べますので、未読の方は是非閲覧なさってください。
日本人が日本語を書く場合、常に正しい日本文法を意識しておくべきか?
この問に対する私の答えは、基本的にNOです。
まず、この問題を解いてみてください。
Q:次のうちで文法的に他と違う語はどれですか?
ア:大きな
イ:この
ウ:豊かな
これは、高校入試などでよく問われる問題です。
中・高生などは楽勝だと思いますが、いかがでしょうか?
A:ウ
正解はウでした。なぜだかわかりますか?
理由は、アとイは、学校文法でいうところの『連体詞』(※名詞に接続して活用(変化)しない言葉)、ウは『形容動詞(連体形)』(※活用(変化)する言葉で、基本形が『だ・です』になる言葉)だからです。
『形容動詞』は『だろ・だっ・で・に・だ・な・なら』と活用(変化)します。例えば『豊かだ』は、『豊かだろ(う)・豊かだっ(た)・豊かで(ない)・豊かに(なる)・豊かだ・豊かな(こと)・豊かなら(ば)』と活用(変化)させられます。
これと同様に『大きな』を活用(変化)させてみてください。
いかがでしたか?
なお、『大きな』には『大きい』という非常によく似た形容詞がありますが、形容詞は『かろ・かっ・く・う・い・けれ』と活用(変化)させられます。この変化した形の中に『な』という語形は存在しません。どちらの基準にも当てはまりませんので、『大きな』は『連体詞』ということになっています。
加えて言うなら『大きな』は『連体形のみ活用形がある形容動詞である』等、諸説あるのですが、ここでは、いわゆる『学校文法』における考え方で説明をしていますので悪しからず。
ちなみに、イで出した『この』についても、文法的に考えると中々奥深いものがあります。
『この』は『指示語(こ・そ・あ・ど語)』です。でも、実は同じ指示語であるはずの『これ』とは品詞が違っています。
『これ』は、『が』や『は』を付けて主語にすることができますので『名詞(代名詞)』、『この』は、『が』や『は』が、そのままでは付きませんので、『連体詞』ということになっています。
さて、文法的にちょっと専門的な話をつらつらと書き連ねてきましたが、ここまで読んできて、皆さんはどう思いましたか?
「こんな難しい話があるなんて……。日本語なんて使ってられないよ!!」
って思った人は、まさかいませんよね?
よく考えてください。皆さん、こんな知識がなかったとしても、今まで普通に日本語を書けてませんでしたか?
では、それは、なぜでしょうか?
実は、現代日本語の文法学は、普段使っている全国共通語(※いわゆる標準語)をベースに、日本語の形について、法則性や分類を見出そうとする学問だからです。
言い換えれば、『日常使っている言葉に理屈をつけようとしている』と言ってもよいでしょう。
普段使っている言葉に理屈をつけただけですから、ネイティブな日本語の使い手であれば、文法など学ばなくても、文章を書くのに困る点がほとんど出てこないのは当然です(※『素晴らしい文章が書ける』と言う意味ではありません)。
なお、文法学(国文法)という学問自体を見ても、全てをスマートに説明しきっている学説は存在なかったはずです。
例えば、現代の学校文法のベースにされているのは橋本進吉博士の提唱した所謂『橋本文法』というものです。こちらは文の組み立てを考えるに際し『文節』というものを重視しているという特徴があります。この文節論は『簡潔に日本語の構成について説明することができる』という特徴があります。そのため学校文法に採用されたのではないかと私は睨んでいるのですが、先程の『大きな』の扱いなど、それなりに問題は存在します。
他にも山田孝雄博士の山田文法、時枝誠記博士の時枝文法など、いつもの学説があって、実は今をもってしても「『定説』はない」のが実態です。
じゃあ、なんでそんな不完全なものを学校で教えているのかって話になると思うんですが、それには2つの大きな理由があると考えています。
1つは『古典文法への足がかり』、もう1つは『外国人への日本語教育のため』です。
まず、古典文法についてです。
あ、古典が必要だとか、必要でないとかは、ここでは触れません。
御存知のとおり、古典って、現代語とは語彙も文法も違っているところがあります。ですが、共通点も多くあります。まあ、両方とも日本語ですんで、そんなの当たり前なんですが(笑)
見たことも聞いたこともないような古典の言葉の決まりを、一から覚えるより、共通点の多い現代国文法を下敷きとしてもっていたほうが、絶対に習熟が速い。だから、中学校までに基礎として、日常生活では大して役立ちもしない現代文法を学んでおくんです。
外国人への日本語教育に文法が必要なのは言わずもがなですよね。
教わる側はもちろんのこと、教える側にしたって、何らかの指針がなかったら効率的に教えられるわけがありませんから。
さて、ここまでいろいろ書いてきましたが、私は最初に『常に正しい文法を意識して書くこと』について『基本的にNO』の立場であると言いました。では『基本』から外れる部分とは何でしょうか?
いくつかあるんですが、特に一番大きいものを1つ挙げます。
それは『敬語』です
(※『敬語』が果たして『文法事項』なのか? という問題はありますが、まあそこは置いておきます)。
実生活の中で自然と身に付けていく丁寧語や美化語ならともかく、尊敬語や謙譲語(※特に謙譲語)は、大多数の方は少年期に日常の中で使う機会は少ないでしょう。しかし、社会に出ると、それらは必須のスキルであり、ある程度系統立てて学習していかないと、洒落にならないレベルの大失敗をすることに繋がりかねません。
他にも副詞の呼応(※『決して』という表現が出たら後ろに『ない』等の否定の表現が続くようなもの)など、理解が必要なものはあります。
でも、例えば『全然』は、学校文法においては、『全然できない』などのように後ろに否定の表現が続くはずですが、最近は『全然いい』のような使い方もしますよね。
それから、『すべからく』は、本来、後ろに『~べし(べき)』という表現を伴って、『当然』『ぜひとも』の意味で用いられる語ですが、現在は単独で『全て』の意味で用いられてはいませんか?
あと、有名なところでは、可能の助動詞『られる』における『ら』抜きなんかもありますね。
ここで出した3つの例は、全て現在の日本文法においては『誤用』にあたります。しかし、おそらくですが、誤用をする方の率は年々増えているのではないかと思われます。
実は、これらの『誤用』は日本語が変化している途上にあるから生じているのです。
こういうこと言うと、中には怒り出す方もいるのですが、あえて言いました。
こんなことを書くと
「なぜ正しい日本語を守ろうとしないのか?」
このような疑問を抱く方もいると思います。
でも、疑問を抱かれた方、皆さんが今話している言葉は、いつから使われているのか考えたことがありますか?
先程ちょっと触れた古典を見れば、現代日本語とはかけ離れた言葉を使っていることがわかりますよね?
実際、古語は、語彙はもちろんのこと、発音までもが現代とは違っていたことは、様々な研究成果からも明らかです。
そんな古語が、時代を経る中で様々なから変化(※これは『最適化』と言ってもいいかもしれません)していった結果、現代日本語があるのです。
話者がいる限り、言葉は必ず変化していくものです。意味が通じるのであれば、細かい文法事項にまで目くじらを立てなくてもよいのではないか。私はそう思っています。