終 後編 どうしようもなく愛おしい
おでこに何かが触れたような気がする。
何か、柔らかいもの。
視界に入ったのは私を覗き込む三郎さんだった。
口は閉じられている。目が合った途端、三郎さんはほんの少しだけハッとしたように目を大きく開けた。強いお酒と神社に漂っていた煙、三郎さん自身が纏う匂いを強く感じて、ぼんやりしていた頭はすぐに明瞭になった。
三郎さんが帰ってきてる!
「さぶろっ、――痛っ!?」
「……!」
ゴツッ と重い大きな音と当時に、視界は一瞬だけ白くなった。青白い光りの粒のようなものが無数に飛び散ったような気がする。
すぐ目の前に三郎さんがいると分かっていたのに。気が急いた私は急に起き上がってしまった。私のおでこと三郎さんのおでこが勢いよくぶつかって、あまりの凄まじい痛みに呻き声が漏れてしまう。三郎さんを見ると、声を出す事なく右手でおでこを押さえて静かに畳を凝視していた。
「ご、ごめんなさい……!」
「いいえ」
夏祭りの後。
長家に帰った後はすぐに共同風呂で身体を洗い、寝支度を終わらせ、寝室に二組の布団を敷いた。三郎さんの帰りは予定よりも遅くなっている。きっと、お付き合いの宴会が長引いているのだ。
お喋りは明日に持ち越しかなぁ。
とりあえず居間で繕い物をして待つか、先に寝てしまおうか。
布団の上にごろんと寝転んで、どうしようかと迷っているうちにウトウトしてしまい、どうやらそのまま眠ってしまっていたらしい。いつもなら戸口が開く音ですぐに意識はハッキリする筈が、今日に限っては体力を使い果たしてしまっていた。三郎さんが帰ってきた事に、まったく気がつかなかった。
なんとかおでこの痛みも落ち着いて、掛け布団を足下に折り畳んで寄せた。枕元の上の、畳上で胡座をかいて座っている三郎さんに向き直った。
「お帰りなさい! 三郎さんが帰って来た事に全然気がつかなくて」
「よく寝ていました。……身体を拭いてきます。起こしてすみません。おやすみなさい」
三郎さんは早口に言うと素早く立ち上がってしまう。閉じられている襖に手をかける寸前に、私は慌てて声を上げた。
「待ってください!」
動きを止めて、三郎さんは顔だけを後ろに向けて私を見下ろした。
いつもの表情だ。無表情。焼けて黒々としている顔や首は薄らと全体的に赤みがさしている。眼差しはいつもより少し、鋭い。
「今日、だいぶ飲みましたね? 宴席に誘われていたんですか?」
「はい」
力仕事を日々こなす三郎さんはとても健康体で、身体も見事としか言いようがない程に鍛えられている。そんな三郎さんの弱点はお酒だ。とても弱い、という訳ではない。私からしたら、実家の川田家の親戚達と比較しても三郎さんはそこそこ飲むことが出来る人なんだなぁと思っていた。
けれど、組合衆の人々もお得意先の人達も、なぜかお酒にはとんでもなく強い人ばかりで、その中に入ってしまうと三郎さんはどうやら弱い方に入ってしまうらしい。
肌が終始赤いまま、視線が鋭くなって、少しぼんやりとしてしまう。口数は増えも減りもしないけど、いつもより早口になる。
三郎さんは明らかにしっかりと酔っていた。
トミはすくっと立ち上がって三郎の片手を引くと、無理矢理引きずるようにして布団の上まで連れていき、そのまま座らせた。
三郎さんはされるがままだ。ぼうっと無言のまま私を見ている。自分の事は自分でさっさとやってしまう三郎さんがされるがままになっている時点で、これは大変だ、と私は苦笑した。
酔っ払いの三郎さんが向けてくる無感情な視線に構わず、ほとんど無理矢理、帯を解いて法被も脱がせ、さくさくと膝の上で簡単に畳んだ。
「風呂場には行かないで下さい! 今夜はさすがに飲み過ぎです。私が残り湯を少し持ってきますから、ここで上だけ軽く拭きましょう? 腹掛も脱いでおいてくださいね。明日は夕方早めに共同風呂は開くそうですから、その時にしっかり頭と身体を洗えば綺麗な状態で挨拶回りに行けますよ! 明日、工場がお休みで良かったですね」
「……」
「自分は大丈夫、って思うのは危険です。昔、酔っ払った父が風呂場でそのまま寝ちゃった事があるんです。洗い場の床ですけど! 私も母も寝ていたので、気付くのも遅くなってしまったんです。あの時は本当にヒヤヒヤしたんですから」
畳んだ法被と帯を重ねて布団脇に置いて、三郎さんを見上げた時。
三郎さんの大きな両手が私の顔の左右を通り過ぎていく。
全ての指がゆっくりと黒髪に深くさし込まれて、そっと梳くように下がっていき、首を包むように触れて止まった。酔っているからか、三郎さんの両手がいつもより温かい。温かいのに、ぞくりと一瞬、背中からうなじの辺りに向かって何かが駆け上ったような気がしてしまう。
口づけされる?
息が止まりそうになった。
見上げたまま、どぎまぎしながら身構えたものの、三郎さんは動かない。私を見ている眼差しが、酔いのせいだと分かっていてもあまりにも鋭くて、何となく身体が竦んでしまいそうな心地になってしまう。
「告白されていましたね」
「告白?」
「有野沢の坊ちゃんに」
「坊ちゃん……見ていたんですか!? 近くにいらしたのなら、声をかけてくだされば良かったのに!」
「宴席に移動している最中でした」
文二坊ちゃんの言葉。小さな身体の温もり。
幸福の瞬間を思い出して、トミはふにゃっと笑ってしまっていた。
「そうなんです。告白されてしまいました! 文二坊ちゃんから。私、初めてだったんです。あんなに純粋にまっすぐな言葉で大好きって言われたのが。もう、本当に嬉しくて! 思わずぎゅーってして良いですかって……」
言ってから、あ、と気が付いた。
失言してしまった?
夫婦となってから今日この瞬間まで、まったく変化もなく、三郎さんからは一度も言われた事はない。愛の言葉というものを。
私はすぐに、嬉しい感情や幸せな気持ちを言葉に伝えてしまう性格で、実際毎日のように好きと伝えてしまっている。
だからと言って、三郎さんにも同じように言葉にして返して欲しいとは思っていなかった。もしも普段から蔑ろにされていたり、無視されたり、大切にされている実感すら無かったら、せめても……と嘘でも良いからと言葉を望んでしまっていたのかもしれない。けれどそう思わないのは、三郎さんが愛情を言葉ではなく、日々の態度ではっきりと伝えてくれる人だったからだ。
充分すぎるほどに大切にされている。
けれど、今の私の言葉は。
まるで私が、三郎さんに対して、何らかの言葉をせがんでいるように聞こえてしまったかもしれない。そんなつもりじゃないのに。
トミは焦って、一度顔を横に振った。
「あの、違いますよ。違うんです」
「……」
「ええっと。文二坊ちゃんの言葉がとても嬉しかったんです。三郎さんにその時の気持ちを伝えたかったんです。ただそれだ、け……」
顔を近づけてきた三郎さんの唇が私の唇と重なる。
お酒と、三郎さんの匂い。
深くはならずに静かに触れるだけの口づけが、角度を変えて何度か繰り返され落とされる。直前まで失言に焦っていた私は身動き出来ないままに受け入れていたものの、少しすると、三郎さんから漂うお酒の匂いに酔ったみたいに頭の奥が思考を弱らせた。
自然と顔を傾けて三郎さんの口づけを受け止め、自分の膝に置いたままだった両手を三郎さんの背中へと伸ばし、抱きしめた。
柔らかい唇の感触。
もしかして。さっきおでこに触れていたのは。
唇が離されて、ぼんやりと緩慢な動作で瞼を開けて、視線だけを三郎さんに向けた。首元を包んでいた三郎さんの右手が持ち上げられて、私の顔半分をすっぽりと包んでしまう。三郎さんの親指が私の唇に触れている。
感情の読めない夫の瞳はすぐそばにあった。
「坊っちゃんと抱き合っていた時の幸せそうなトミさんの姿に、見とれていました。声をかけ損ねた一番の理由です」
自分の耳がおかしくなった?
今の言葉が幻ではないと信じきるまでに少しだけ時間がかかってしまった。まさか三郎さんがそんな事を言うなんて。そんな風に言われる日が来るなんて。三郎さんは酔っている。いつもの三郎さんではないから。弾みで滑り出た言葉なのかもしれない。
分かっていても、そう理解しても。
褒め言葉、好意を示す言葉、あるいは愛の言葉を求めていた訳ではなかったのは事実だけど。
見とれていた。
私に、三郎さんが見とれていたの?
今の言葉の威力は凄まじかった。
無防備だった心を突然ぎゅっと掴まれて、何も考える事が出来ず、返す言葉すらも出てこなかった。
「んっ……」
再開された口づけはあまりにも深く、どこまでも強かった。
まさか言葉で、はっきりと伝えてくれる日が来るなんて。きっかけが酔っていた勢いなのだとしても、それでも嬉しくてたまらない。
空気を求めて喘ぐような息が漏れて、三郎さんのむき出しの背中に回していた両手にまで力が入ってしまう。短い爪を立ててしまいそうになって、なんとか必死に堪えていた。
このまま。
やめたくない。やめないで。
夢中に、互いを求めるように長く続いた口づけが終わって、そのまま三郎さんの胸元へと倒れてしまった。三郎さんはぎゅっと強く抱きしめてくれる。ほっとして、息を吐いた。
三郎さんの背中は汗ばんでいる。胸の鼓動が早く打っているのが伝わってくる。呼吸も少し荒いまま。
でも三郎さんだけじゃない。
顔を上げて身体を動かしたトミは、そのまま三郎の大きな肩に顔を寄せ、唇を押しあてた。
大好きと、言葉では何度でも伝える事は出来る。けれど触れあう事に関しては別だ。自分から誘うという事はどうしても出来ず、しかしその必要性も感じた事は無かった。
三郎さんが求めてくれていたから。
今日までずっと、全て満たされていたから。
いつも翻弄されてしまうばかりで、積極的な行動はなかなか出来ないトミの、らしくない不意打ちな行動に、驚いたらしい三郎の「トミさん?」と呼ぶ掠れた低い声がトミの耳元をくすぐった。
「あ……あの、もう少しだけ。触れてほしい……」
恥じらいは多分、あった。
けれどそれはほんの少しだけ。砂の粒よりも小さいかもしれない。あって無いようなものだった。
恥じらいよりも遥かに大きかった。
今この瞬間、三郎さんの全てを受け止めたい。
もうすぐ夫婦になって一年になる身で、初めての事じゃないのに。初めての時みたいに心臓が大暴れしている。呼吸の仕方を忘れてしまいそう。人生で初めての激情が、身体の内側のあちこちに駆け巡っている。私が三郎さんを強く求めてしまっている。
三郎さんの事がどうしようもなく愛おしい。
もともと緩く結んでいた帯のせいで、寝間着の着物は簡単にずらされてしまっていた。
むき出しになったトミの細い肩に、三郎の唇がそっと触れる。
「……優しく出来る気がしない」
三郎さんの言葉遣いが乱れるのはとても珍しかった。
葛藤しているような言葉をこぼしながらも、三郎さんの動きは止まらなかった。そのまま緩やかに押し倒されて顔を向かい合わせていた。
酷く酔っている筈の三郎さんはまったく眠そうではなくなっていた。酔っていても変わらない無感情そうな表情に浮かぶ瞳は、しっかりとした確かな光りを宿している。強い眼差しに射貫かれて、私の胸は大きくざわついた。
今、三郎さんも私を求めてくれている。
優しく出来る気がしない、と言いつつも、肌への口づけはとても優しかった。布団に寝かせてくれた時も。いつも今も、ずっと。
まるで私のことを大切な宝物みたいに。
好き。大好き。
右手を持ち上げて、ぶつかってしまったせいで赤くなりつつある三郎さんのおでこに慎重に触れた。
「三郎さんの好きなように、したいように触れてください」
少しだけ自分の顔を持ち上げて、間近にある三郎さんに口づける。信じられない程に大胆なことを言ってしまった。さすがに恥ずかしくなって、三郎さんの反応を見るのが少しだけ怖かった。
ゆっくりと顔を離すと、珍しい事に――それどころか初めてかもしれない。明らかに酔いが原因では無さそうな理由で、鼻に小さなシワを寄せている。表情を強張らせているのに、頬をうっすらと赤らめている三郎さんの顔があった。
……照れている?
感動混じりにしばらく見つめてしまった後、あまりの愛おしさにそのまま両腕を三郎さんの首へとまわして、思いっきり抱き寄せた。
身体の重みを全身で受け止める。
三郎さんも、私の背中と布団の間に逞しい両腕をさし入れて、苦しさを覚えてしまう寸前の力で強く抱きしめ返してくれた。
「…………愛しています」
「!?」
抱きしめあったまま顔を見合わせる。
三郎さんは甘く目尻をおとして、微笑んでいた。
* 山野辺夫妻は恋をしている fin *