5 前編 どうしようもなく愛おしい
◇
ほらこれ、見て! と千鶴お嬢様が両手を突き出して見せてくれたのは一枚の紙。
箒を両手で持ってお庭を掃いていた最中だった私は、紙に書かれている文字に目を走らせて胸を弾ませた。毎年恒例で行われる、とっておきの楽しい催しの知らせだった。
「星明神社の夏祭り! 二週間後ですね。もうそんな時期なんですねぇ」
星明神社では毎年二日間、夏祭りが盛大に行われる。
鳥居をくぐって石段を登った先に、長く続く参道の両脇にずらりと様々な露店が並ぶ。この地域に暮らす人々、ほとんどの老若男女が参加していると言われている大規模なお祭りだ。
もちろんトミも毎年参加していた。
家族とだったり友人とだったり、共に行く人は毎年バラバラだ。しかし十三歳から下女中として働き始めた事をきっかけに、子ども達の面倒を見るという仕事として二年前からは有野沢屋敷の人達と参加することが恒例となっている。
あくまでも仕事のため、完全に気を抜いて存分に楽しむという事は出来なくなった。それでも、あの夏祭り独特の賑やかな雰囲気は、その場にいるだけでワクワクする。三人の子ども達が楽しそうにはしゃぐ姿を見ていると、トミも心底嬉しく思うのだ。
「川ちゃんと一緒に行きたい! 一緒に行くよね?」
三人兄弟の末っ子、千鶴お嬢様の、こぼれ落ちんばかりに見開かれた大きな瞳が期待に満ちて輝いている。
「ご主人様と奥さまのお許しが頂けましたら、もちろん喜んでお供させて頂きますよ!」
「本当!? お母さまにお願いしてくるっ!」
やったー! と、ぴょんっと二度も跳ねて大喜びして下さった千鶴お嬢様は、目にも止まらぬ速さで「お母さまー!」と大声を出しながら屋敷の中へと駆けていく。
可愛らしいなぁとにこにこ見守りながら、ハタと気がついた。
三郎さんはいつも誰と参加していたんだろう?
「三郎さーん! お帰りなさい!」
「トミさん。ただいま」
その日の夜。
共同風呂で身体を洗った後、積んでいた薪束が少なくなっていたため補充をして、長屋に戻った時。ちょうど、戸口を開けようとしていた三郎さんがその場にいて、駆け足で近付きながら声をかけた。
二人で中へと入ると、風呂に入る前に用意しておいた夕食の焼き魚の香りが漂っていた。
香りにつられるように、三郎さんはちらりとちゃぶ台の上におかずが並んでいる様子を見た後、すぐに台所のそばに行って新しい手ぬぐいを取り出した。今の季節は夏。日々工場で動き回っている三郎さんの身体はすっかり汗まみれで、太陽にこんがりと焼けて黒くなっている。夕食を食べる前に必ず、帰ってきたらまず水場か共同風呂で身体を拭うのだ。
「二週間後に星明神社で祭りがある事は知っていますか?」
まさに今、自分が話題にしようとしていた事を三郎から聞かれて、トミはびっくりしつつも頷いた。
「もちろんです! 初日は有野沢のお嬢様達の子守役として行く事になっていて、二日目はお休みをいただきましたよ」
「二日目……」
私の気のせいじゃなければ、今、三郎さんはほんのちょっとだけ残念そうな顔をした気がする。本当にちょっとだけ。気のせいの可能性の方が高すぎる事は都合良く無視しているけれど。
ま、まさか。
「まさか三郎さん、二日目が仕事で初日がお休みでしたか?」
「いいえ。もともと両日仕事ではあったんですが、」
そんな!
そもそも最初から一緒に夏祭りを楽しむ事が出来なかったらしい。トミがあからさまに残念そうな表情を浮かべてしまうと、三郎は言葉を続けた。
星明神社の夏祭りには数多の露店が並んでいるが、多数の露店は、三郎が所属している大月組合の若手見習い衆達が中心となり設営から店番の全てを行っている。三郎も三年前までは毎年、設営と店番のため参加していた。
「職人になると、祭りでの仕事は露店ではなく挨拶回りになります」
「挨拶回り?」
「堅苦しい物ではなく日頃の接待とも別物です。組合の顧客も沢山、家族連れで祭りに参加されます。祭りの雰囲気に便乗する形で今後もご贔屓にと、簡単にですが挨拶をしてまわるだけです」
「じゃあ、夏祭りには職人同士で参加するんですか?」
「どちらか一日は。俺の場合は初日が自由参加、連れが誰でも良い日で、二日目が職人衆と参加する事になっていました」
「初日……残念。今年は一緒に見てまわる事は出来ないんですね」
逆だったら良かったのになぁ。
そうは思っても、やはり決まってしまったものは仕方ない。
「独身だったり、地元から離れて組合に所属している職人もいます。初日はその職人の誰かと参加する事にします。自由参加と言われても結局はこの姿で参加するので、一人よりも複数人で動いて、大月組合の者とすぐに分かる方が話も早いので」
三郎さんは少しの間だけ視線を外して何かを考えるように正面を見つめたあと、もう一度私へと視線を戻した。
「有野沢家も大事なお客です。お会い出来たら、ご挨拶させてください」
「お客? そうなんですか?」
「去年の夏に工事が入った事は覚えていますか?」
「あぁーそういえば……去年の夏? 三郎さん、有野沢屋敷に出入りしてたんですか?」
「はい。ひとまず、身体を拭いてきます」
三郎さんは戸口を開けて外に出て行ってしまう。
有野沢屋敷が大月組合を懇意にしていた事も、結婚直前の夏に同じ屋敷で過ごしていた事も、下女中の立場の私はまったく知らなかった。
「あれ? じゃあ、私の事……」
祝言の時。
三郎さんが私の顔を、この人が俺の嫁か、と確かめるように見つめていた時があった。もしかしてあの時、三郎さんは私の事を知っていたからこそ、確かめるような眼差しで見つめていた?
『川ちゃん』と呼ばれている私を知っていた?
「ええぇー!?」
一人きりになった室内で、トミはなんとも情けない声をあげた。
夫婦になってあと三カ月程で一年になる。恥ずかしい姿、情けない姿、残念すぎる姿。もう散々三郎さんには見られているし知られてしまっている。けど三郎さんは全然驚きもせず、動揺もせず怒りもせず、そのまま受け入れてくれていた。
懐が深い人だなぁといつも感謝していた。けれど理由はきっとそれだけじゃない。
「私がぽんこつだって、最初から知ってたんだ!」
あまりの衝撃に、今さらだと分かっていても、がっくりと落ち込んでしまう事は避けられなかった。
*
夜空には雲が一つも浮かんではいなかった。
まん丸のお月様が眩いほどに美しく、広がる星がちらちらと輝いている。夏祭りの初日。雨に降られる心配もなく、夏にしては涼しく吹く風が心地良い夜だった。
あまじょっぱく焼けるとうもろこしの匂いや、焼き魚の香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。弾むような笛や太鼓の音。ぱんっと響く射的の音。人々の愉快な談笑の声が耳を楽しませてくる。
いつもは静かな参道が、今宵はあちこちから漂う美味しそうな匂いと様々な音で満たされていた。
灯された灯籠が美しい。
大きな提灯に照らされたほの明るい参道を、有野沢の主人と奥さま、三人の子ども達、上役にあたるの上女中フネと共にトミは歩いていた。
私が手を繋いでいるのは、次男の文二坊ちゃんだ。
喜一坊ちゃんはご主人様と、千鶴お嬢様は奥さまと手を繋いで楽しそうにお喋りをされている。しっかり者できびきびとしている上女中のフネさんは、奥さまから一歩下がって静かに付き従っていた。子ども達は普段はフネさんの事を怖がっているのに、夏祭りの雰囲気のせいだろうか。近くにフネさんがいる事を忘れているような様子で、楽しそうに過ごされている。
ちらっと、文二坊ちゃんを見つめた。
手を繋ぐ相手がご両親ではなく下女中の私で、なんだか申し訳ないなぁ……と思ったのは本当に最初だけ。はぐれないように手を繋ぎましょう、と奥さまが言うと、文二坊ちゃんは迷わず私のところにやってきた。お優しい文二坊ちゃんは、お兄さんの喜一坊ちゃんと妹の千鶴お嬢様にご両親の隣を譲る事を最初から決められてしまったのだろうか。私が複雑な思いを抱いてしまっているとは露程も知らず、文二坊ちゃんは、はにかむように笑って「僕、川ちゃんと手をつなぎたい」と言って手を掴んでくれた。
その時のあまりの可愛らしい笑顔と声、言葉に、私の胸には大きな穴が出来てしまった。打ち抜かれてしまった。
「文二坊ちゃん……! トミはとっても嬉しいです」
感動しながら言って、ぎゅうっと強く手を握りしめ返すと、文二坊ちゃんは嬉しそうにまた笑ってくれる。心臓が止まりそうなってしまった程にときめいてしまったのは言うまでも無い。
遊びながら。食べながら。
たまにちらっとだけ、ほんの一瞬だけよそ見をした。三郎さんの姿を瞬時に探すものの、一向に見当たらない。
「ねぇ川ちゃん。これ。あげる」
文二坊ちゃんが、左手に小さな硝子の小瓶を持って、右手の手のひらに何かを乗せて私に差し出してくる。しゃがみこんでそれを見ると、薄桃色の小さな丸い飴玉がころころと手のひらの上で転がっていた。
「綺麗な飴玉ですね。先程の、輪投げの景品ですよね? 私が頂いてもよろしいのですか?」
「うん」
「わぁー! ありがとうございます」
へへ、と笑った文二坊ちゃんは、硝子の小瓶を傾けて、色とりどりの飴玉をいっぱい取り出した。
前を歩くご家族皆さんとフネさんにも声をかけて、一個ずつ飴玉をお渡ししている。ありがとうね、と皆が受け取る姿をにこにこと見上げる文二坊ちゃんの姿に、私の目尻はきっと下がって、頬はゆるみっぱなしだったのかもしれない。
私のところへと戻ってきた文二坊ちゃんと、いただきます! と、二人で同時に口の中に放り込む。甘いねぇ、美味しいね、と味わっていたものの、すぐに文二坊ちゃんはがりがりと飴玉を噛み砕きだしてしまう。その表情があまりにも真剣そのもので、ついつい微笑んでしまった。
「さぁ、行きましょうか! 次は何をして遊びましょうか?」
もう一度手を繋ぎ直して歩き出そうとしたものの、文二坊ちゃんは動かなかったらしく、私の身体は引っ張られたみたいに動いてしまった。
振り返ると、文二坊ちゃんはなめらかな頬を染めて、もじもじした様子で私を見上げている。体調が悪くなってしまわれたのかと焦って、慌てて文二坊ちゃんの正面にしゃがんだ。
「文二坊ちゃん? どうしましたか?」
「僕……」
ぎゅっと下唇を一度噛んで、緊張した様子で鼻を少しだけ膨らませて息を吸い込んだ文二坊ちゃんは、やがて口を開いた。
「川ちゃんが好き」
「…………」
「僕が一番、川ちゃんのこと大好きだよ」
……どうしましょう。
文二坊ちゃんはいつも、とても可愛らしいけれど。今日の文二坊ちゃんは普段とはちょっと違う気がする。
けどやっぱり、とっても可愛い。愛おしい。
突然の告白にトミはしばし唖然と目をまたたかせたものの、喜びの感情が身体の隅々にまで行き渡るのを感じて、思わず涙目になりながらもパッと笑った。
「ありがとうございます! そのように思って貰えて幸せです。文二坊ちゃん、ぎゅーってしても良いですか?」
「う、うん」
「ぎゅー!」
文二坊ちゃんの身体を力いっぱい抱きしめる。
細くやわっこい腕が首にまわされて、嬉しそうな文二坊ちゃんの笑い声が間近に聞こえてくる。
「あー! 文ちゃんだけずるい!」
「!? お嬢様!」
背中から、千鶴お嬢様にまで抱きつかれてしまう。
二人に抱きしめられて、私の身体はぼうぼうと熱くなっていた。
背後から奥さま達の笑い声が聞こえてくる。神社の敷地内を歩き回る間、私はずっと幸せで楽しくて、笑いっぱなしだった。
会えるかな、と期待していた三郎さんとは結局会えずじまいに終わってしまった。
大月組合の法被を着た人はあちこちに見かけた。顔見知りの見習い衆や職人、ご家族とも簡単に挨拶や会釈をした時、どうやら一部の職人衆は、参道ではなく別の場所に改めて設けられた大人達専用の宴席のほうにお得意様に誘われて出向いていると聞いた。三郎さんもきっと誘われて宴席に向かったのかも知れない。
今夜、今日の楽しかった出来事を沢山、三郎さんにお話したい。
「あんまり飲み過ぎてないと良いんだけど」
有野沢屋敷に到着してご家族に挨拶を終えて、一人で長家への帰り道を歩きながら美しい星空を見上げて呟くトミの表情は、やはり楽しかった祭りの名残もあり、緩んだままだった。