4 後編 ◆『川ちゃん』と『トミさん』
「三郎! どうだ、今朝の嫁さんの様子は」
工場に到着してすぐ、材木を運んでいた時に三郎に声をかけてきたのは、同じ長家の二つ隣に住む職人の田中均だ。
現在の工場となっている屋敷には、大月組合から職人と見習い衆が合わせて十人程が派遣されている。均は三郎よりも四つ年上の職人で上役にあたる。現在派遣されている組合の男達の中では一番の強面を誇る均の表情は、心配そうだった。
三郎は手を止めて均に頭を下げた。
「熱がまだありますが、一昨日よりは落ち着いています」
「ああ、カホも同じ事を言ってた。このまま快方に向かえば良いんだがなぁ。ここ数日風も強いしよ、一気に冷えやがって」
カホは均の妻だ。日中不在にする三郎の代わりに、カホが主となってトミの看病をしてくれている。
迷惑かけてすみません、と言うと、均は目を丸くした後に、大笑いしながら容赦ない力強さで三郎の背中を大きく叩いた。が、もともと身体付きだけは均よりも大きな三郎は、びくとも動かない。
「あの長家に住む全員が、もう一つの家族みたいなもんでもある。助け合いだ。分かってるだろ? 俺達も何か困ったらお前とお前の嫁さんを頼る事になるんだ。お互い様だろう。あ、じゃあ、次飯行く時はお前のおごりで」
「もちろんです。奥さんの好物は?」
「食いもんなら何でも喜ぶ。酒でも良いぞ」
猪口を持って傾ける仕草をしながら均は笑った。
均はまだ話があるらしく、もう一度声をかけてくる。含みのある笑みを浮かべていて、理由が分からず三郎は首を傾げそうになった。
「お前良かったなぁ。『川ちゃん』と結婚出来て」
まだ祝言を挙げて三日した経っていない。しかも彼女は寝込んでいる。まともな会話すらろくに出来ていない現状で、なぜ突然トミと結婚出来て良かったなと言われるのか。
独身ではなくなった事を祝福されたのだろうか。
しかし、均の笑い顔を見ると、理由は違うところにあるのだろう。
有野沢屋敷に派遣されていた時、均も一緒だった。トミが元気な時の様子をよく知っている大工の一人でもある。
むしろ派遣期間、一番遠目から『川ちゃん』の言動に笑っていた大工こそ均だった。『川ちゃん』との結婚に、組合仲間で一番仰天していたのも均だ。
「カホが言ってたぞ。お前の嫁さん、どうやらもう既にお前にかなり好意を持ってるみたいで、安心したってさ」
笑って話す均の言葉が三郎にはどんどんと小さく、遠くに聞こえてくる。自分の事を言われているとは思えない程、今の言葉が信じられなかった。
好意を抱かれるような事は何もしていない。
奥さんの勘違いだろう、と、三郎は思った。
「お帰りなさい」
静かに襖を開けたが、彼女は眠っておらず、起きていた。布団の上に座って足に布団をかけたまま、粥を食べている最中だった。顔はまだ赤らんでいるものの、ここ数日で一番声には張りがあり、目も昨日よりは開いている。まだ本調子とは言えないものの、朝よりも確実に体調は良さそうだ。
「具合はどうですか?」
三郎はトミの横に胡座をかくと、トミの額に手を置いた。
やはりまだ熱い。しかし特に酷かった祝言の夜とその翌日に比べれば、大きな心配をする程のものではなくなっている。
「トミさん?」
額に手をあてていた時、トミは視線を泳がせながら三郎を見上げていた。
目があった途端、視線を粥へと向けてしまう。どこかが痛い様に眉間を寄せてうつむく仕草をしたため、三郎は額から手を離してそのまま手のひらを見た。
「手は洗ったんですが」
手に土埃でもついていて、額に擦れてしまって痛かったのだろうか。それとも、この硬くぼこぼことした皮膚の感触が嫌だったか。
トミは驚いたように赤い頬をますます赤く染めて顔をあげて、大きく顔を左右に振った。
「ち、違います! 三郎さんの手は冷たくて大きいので、気持ちいいです。とても! ただ、あの、夫婦となったばかりで触れられる事に今さら少し緊張してしまっただけなんです」
「……」
「具合はだいぶ良いです。まだちょっとボーッとするんですけど、でも今は落ち着いてますし、お粥もほら、あと少しで食べ終わります。カホさんが作ってくれました」
祝言の日以来だ。
トミがこんなにも長く言葉を話しているのは。今朝まではずっと、虚ろな潤んだ瞳で、三郎さん、ごめんなさい、ありがとうございます、の三つの言葉以外はほとんど話す事が無かった。
勘違いしていた。
この三日間、三郎がトミの顔に触れたり髪をすくと、いつも彼女は辛そうな顔で「ごめんなさい」とばかり言っていた記憶がよみがえる。
触れられる事は不快なのかもしれない。
そう思っていた。しかし熱を確かめたり、汗を拭ったり、乱れていた髪を整えるために触れない訳にはいかなかった。
三郎はもう一度、自分を見上げるトミの額に右手を置いた。
「気持ちいいです」
目を何度か瞬かせたトミが小さな声で言うと、赤らんだ頬がへらりと笑みを浮かべる。照れ混じりだが、気持ち良さそうに。
嬉しそうに。
「……食べ終わったら、またすぐ寝てください」
トミの返事を聞く前に、右手を額にあてたまま、左手をあげてトミの真っ赤な頬を包み込んでみる。そのまま首筋を撫でて、うなじの辺りに手のひらをあてた。
言葉を詰まらせたトミの視線がまたもや泳いでいたが、両手をそのまま動かさずにあて続けていると、やがてホッとした様子で息をはいた。
顔を上げたトミと視線が絡まると、彼女は目尻を下げて照れたようにもう一度笑った。
「ありがとうございます、三郎さん」
夏の盛りに遠目から何度も見た。
『川ちゃん』が三人のこども達に向ける笑顔を。正面からも横からも。何度も見ていたが、何とも思わなかった。
けれど今は、妻となった『トミさん』。
自分にだけ向けられる、気が解れた様子の笑った顔。とても弱々しいのに、眩しく思う程に明るく見えた。三郎は今、初めて知ってしまった。『川ちゃん』と笑いあっていた三人のこども達の気持ちを。
そうか。『トミさん』が嬉しげに笑ってくれると、太陽に照らされたように、心が温かな心地になるのか。
横になったトミに布団を被せて、三郎が頭を撫でながら髪をすくと、トミはすぐに眠そうに瞼を下げた。久しぶりにしっかりと多くの言葉を発した疲れと身体の怠さが、眠気となって押し寄せているらしい。
「……紅葉が」
完全に目を閉じて寝惚けた様子のトミが、三郎に話しかけている訳でもなく、ぽつりと小さな声で呟くように言葉を発した。
「風……強いから。もう終わっちゃうかな……」
呟いた後にそのまま何度か呼吸を繰り返して、すぐに寝息に変わった。トミの表情は昨日までの苦しげな様子は無い。赤ら顔のままだが、とても落ち着いていた。
三郎はしばらくの間、眠っているトミの髪を撫で続けながら、強い風が吹き付けてカタカタと揺れている戸口の音に耳を澄ませていた。
ここ数日、冷たい風が強く吹いている。
祝言の日の少し前から紅葉が盛りだったが、強風に煽られ揺られ、あっという間に落葉が進んでしまっている。トミが仕事に復帰して動き回る事が出来る頃には、ほとんどの樹木は裸になってしまっているのは間違いない。冬はすぐそこまで近づいて来ている。
彼女は紅葉を見るのが好きなのだろうか。
髪をすいていた手を動かして、そっと、色づいた紅葉のように赤い頬に指を這わせた。指先から熱が伝わってくる。柔らかな肌の感触も。
「……」
まるで火傷したかのようだった。
三郎は素早くトミの頬から手を離して、胡座をかいた自身の足の上に手を置いて拳を握った。トミは変わらず心地良さそうに眠っている。寝顔を見つめながら、三郎は胸の中の鼓動を早めていた。
どうしたら良いのか。
一体、どうしたら……
*
三郎はトミの事を何も知らないが、紅葉が終わることを残念がっていた彼女の様子は強く印象に残っていた。
結婚する事に対して夢や希望が無かった事は事実とはいえ、妻となった人と良好な関係性を築く努力を怠るつもりはない。結婚早々に体調を崩し、恐らく好きなのであろう紅葉の盛りを見る事も叶わなず、酷く落ち込んでいるトミの様子に、どうにかまずは精神的に元気になって欲しかった。
紅葉が描かれていて、秋が感じられる物であれば何でも良い。
器でも絵画でも飾り物でも。
久々に訪れた露店市で、目を惹き付けられたのが紅葉柄の小さな櫛飾りだったのは偶然だ。
最初から髪飾りとして使って欲しい思いで贈るつもりでは無かったため、その櫛飾りがずいぶんと年季の入った古めかしい物でも、まったく気にならなかった。
ただただ紅葉柄の美しさが印象的だったから選んだ。それだけの事。
櫛飾りを見ればきっと彼女は秋を感じられる。
そう考えた。
ちょっとした、妻に対してのささやかな土産のつもりだった。
贈り物、などと大層な考えなど微塵も無い。
妻への初めての贈り物を意識していたら、使い込まれた様子がはっきりと分かる中古の櫛飾りで良いわけが無い事くらい、長年男達の中でのみ生きていた三郎もさすがに理解していた。
しかし、彼女は涙を流す程に喜んだ。
抱きしめたい――と小声で言った時の彼女の表情と眼差しから、明確な好意を感じ取れて、三郎は祝言の時以上の罪悪感に襲われてしまう羽目になった。ひどく心が乱されているのに、表情がぴくりと動かない自分が恨めしくて仕方ない。せめて何か気の効いた言葉を、と思っても、結局当たり障りのない言葉しか出てこなかった。
「私、三郎さんが大好きです」
夫婦となって二週間も経った頃から、ほぼ毎日のように彼女は言うようになっていた。
まさか自分が言われているとは到底信じられず。無視するつもりは無かったが、返事に窮してしまった。ただトミの顔を見つめて気まずくなり、「おやすみなさい」とだけ言って目を閉じたら、結果として無視のような態度をとってしまった事になりすすり泣かれてしまった。
反省したものの、それでもやはり、大好きと心を寄せられる理由が、三郎には本気で分からなかった。
トミはいつも表情豊かに、多くの言葉で想いを伝えてくれる。しかし三郎はどうしても、どのような言葉を返すべきかが分からない。
妻となってくれた彼女の事は大事に想っている。夫婦、家族となったのだ。家族を裏切るなど言語道断、大事にするのは当然の事だと考えているのは、幼い頃によく面倒を見てくれた今は亡き祖父母の教えが大きいのだと思う。彼女に対して、夫として。日頃の感じている事や感謝の想いは、行動や態度で示すようにと努めてはいる。だが、それだけでは不足していると常に感じている。言葉と表情だけではない。
彼女が自分に抱いてくれる感情と、自分が彼女に抱いている感情の差が、あまりにも大きいような気がしてしまっている。
祝言の時に生まれた罪悪感。
安易な考えで櫛を渡してしまった時に泣いて喜んでくれた彼女の様子。
日々共に暮らす中で、罪悪感は確実に小さくなりつつある。しかしずっと消える事はなく、心を常に冷静にさせ、時には惑わせていた。
「……ごめんなさい……」
「いいえ」
トミは瞳に涙の膜を張りながら頬を赤くして、櫛歯が折れた櫛飾りを両手で大事そうに握って、うつむいた。
私の宝物。
その言葉は、彼女に対してずっと消えずに抱いていた罪悪感を一瞬にして消し飛ばした。どのように表現して良いかが分からない“愛しい”という感情だけが心内を支配し始めていた。
――愛しい?
自分は彼女に対して、心の根底では何を想っていたのか。どのように想っていたのか。戸惑いが完全に消えて、確固なものとして掴むことが出来た時には、自然と彼女を引き寄せて、口づけていた。
夫婦として既に半年も経過している。
唇を寄せ合い、肌を重ね合わせてもいる。それでも今この瞬間は、三郎の心を大きく震わせた。穏やかな感情と同時に込み上げる、激しいこの感情。
今までは無かった大きな感情がある。
「三郎さん。大好き」
そっと唇を離すと、彼女は照れたように言う。
毎日のように伝えてくれる言葉に対して、昨日までは感謝と罪悪感が混ざり合った複雑な想いで受け止めていた。同じ想いで返しきれていないと痛感していたが、今はまったく違う。
ただただ彼女の事が、愛しい。
表情は動かないのに口が小さく開閉を繰り返すばかりで、彼女の両手を握る事しか出来ない自分があまりにも不甲斐ない。いつもと明らかに自分の様子がおかしい事に気付いた彼女は、三郎さん? と心配そうに見上げてくる。
やっとの思いで発した言葉は、次は丈夫な髪飾りを贈ります。
三郎は自分の言葉に肩を落としかけたが、トミはしばしぽかんと呆けていたものの、やがて「ありがとうございます」と頬をほんのりと綺麗な赤に染めて満面の笑みを浮かべている。
ここでその笑顔は勘弁してほしい。
両腕をトミの背中に大きくまわして、全てを包んで隠すように、腕の中に強く抱き寄せた。腕の中のトミは驚いたように三郎を見上げて何度か目を瞬かせていたが、やがて笑って、やはり嬉しそうに三郎の胸に頬をすり寄せた。
このままで良い筈がない。
愛情を惜しみなく言葉と全てで伝えてくれる妻に対して、自分は何も返す事が出来ていない。
愛しています。
たったこれだけの短い言葉を紡ぐ事が、こんなにも難しい。