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3 前編 ◆『川ちゃん』と『トミさん』


 現在二十八歳の長兄は五年も前に結婚し、難航していた次兄の縁談もやっとまとまり、冬前には祝言を挙げようと話が決まった。

 さぁ次は三男だ、という理由らしい。



 ――話があります。



 三郎が実家の山野辺屋敷に足を踏み入れたのは正月以来。


 今の季節は秋の始まり。夏の暑さも弱まり、過ごしやすくなっている。工場での作業も真夏より格段に捗るようになっていた。

 居間の襖を開けると、イライラと不機嫌そうに両腕を組み、胡座をかいた足を忙しなく上下に揺すりながら睨み上げてくる父と、楽しげに妖しく微笑む母の二人が揃って正座していた。


「お帰りなさい。ここよ。座りなさい」

「はい」


 現在は夜。三郎は仕事終わりだ。

 食卓を挟んで両親の正面にまわって正座する。汗止めのために、仕事中は常に頭に巻きっぱなしにしていた手ぬぐいが今もそのままである事に気付き、姿勢を整えながら手ぬぐいを解き、帯に巻いて止めてある腰袋の中に素早く突っ込んだ。

 

 両親は()()口論をしていたらしい。

 父を無視した母が続けて口を開く。


「三郎ももう二十四、大工を名乗る事を許されて二年が経ったわ。お嫁さんを貰ってきちんと身を固めないと。どんなに職人の腕を磨いても、独身というだけで未熟者の扱いを受けてしまうもの」

「テルは黙れ! いい加減にしろ! いつもいつもお前は縁組みとなるとしゃしゃり出る! 決まる物も決まらん原因はお前だぞ!?」

「あら。とんだ言い掛かりですこと」

「時間だけが無駄に過ぎているという事を理解しているか!?」

「無駄な時間ではありません。必要な時間だったんですよ」


 顔を真っ赤にして怒鳴りつける父に対して、母は裾で口元を隠しておほほほ……と微笑んでいる。

 三郎は口を挟まず、黙って二人が本題を言葉にするのを待った。


 長兄も次兄も縁組みがまとまるのには時間がかかった事は三郎も知っている。子の結婚は家長である父親が決めるというのがこの辺りでは当然であり、山野辺家も例外ではなく最終的に判断を下すのは父だ。

 しかし、普段は仕事や家事に対して一切の口出しもせず従順な母が、縁組事になると周囲が驚く程に過激にしつこく口出しをする。


 父が息子達に望む結婚は、大工や鳶といった職人である息子達にとって有益であるという事。

 しかし母は違うらしい。


 息子達の縁組みに対しての母の考えは、実のところ長兄や次兄もよく分からないと言う。何をしたんですか、と母に聞いても「何もしてないわよ?」と笑顔ではぐらかされて終わりばかりらしい。母はしつこく父に口出しをするだけに留まらず、独断で動いてもいるようだが、結局、最終的には怒り狂い文句が止まらない父が負ける形で首を縦に振って全ての縁組みはまとまっている。


 既婚である長兄と、縁組みがまとまっている次兄を見ていて三郎が思う事は一つだけ。


 兄達は幸せそうだ。



「じゃあ三郎は、お嫁さんにはどんな人が来てもかまわないと? お父さんの決めた相手で本当に良いの?」

「はい」


 好いた女人はいないのか、どんな人が良いのか、希望はないのか、なんなら今交際している人はいないのか。


 母が尋ねる度に、父は三郎の意思など関係ない! 決めるのは家長である俺だ! と怒鳴り散らしているが、母は無視して聞いてくる。三郎もとりあえず父を無視して母の問いに答えていた。父は短気ですぐに大声で怒鳴り散らすが、絶対に手を出さないし物にも当たらないという事を知っているからこそ無視が出来ている。


 三郎は、結婚に特別な夢や理想は持っていない。


 大半の独身男女がそうだ。

 家長同士が決めた相手とお見合いし、結婚し、夫婦となり家庭を築く。当然の事として受け止めている。


 三郎の返事に母は不服そうな顔をしたが、結局「三郎がそう言うなら……」と渋々ながらに納得した。


 三郎に何も希望も意思も無かったため、本題はすぐに終了した。

 思いがけず短時間に、しかも父の都合の良い方向で話がまとまったせいか。父は上機嫌になった。

 せっかく帰ってきたのだから夕飯だけでも食っていけ、と誘われ、断る理由も無く、正月以来に両親と食事を共にした。

 会話の中心は仕事に占められ、ほとんど父が話している。


 特別に変わりなく、その日の夜は過ぎていった。




 *


「川田トミと申します」


 額やこめかみに玉のような大粒の汗を浮かべて、潤みきった瞳を細めてふにゃりと笑ったのは、花嫁衣装を着た具合の悪そうな細身の娘。

 丁寧に頭を下げている。苦しげな、くぐもった呼吸も聞こえてくる。顔を上げた彼女ともう一度目が合うと、辛そうに、取り繕った笑顔を浮かべている。


 三郎はトミの事を知っていた。


 かろうじで思い出す事が出来た、という程度に知っていた()()だ。どのような人物なのかは知らない。本名も今この瞬間まで知らず、ここ最近、彼女の事を意識した事すら一度も無かった。

 彼女の事を知っていたのは、有野沢家の屋敷で下女中をしている『川ちゃん』だったからだ。



 四カ月程前。夏の盛りの時期。


 有野沢屋敷の経年劣化した屋根、外壁の補修工事のために、大月組合の職人が二カ月間程出入りをしていた。出入りする職人衆の一人には三郎も含まれていた。

 職人衆と接点を持つのは有野沢屋敷の主人家族と、家族の側仕えの仕事が主である上女中のみ。屋敷の炊事や掃除が主な仕事の下女中と接点を持つ事はない。しかし、三郎に限らず大月組合の職人達は、接点を持たなくても『川ちゃん』という下女中の存在はすぐに認知する事になった。


 彼女はどうやら、有野沢家の幼い三人のこども達に一番懐かれている女中だ。

 こども達は皆、彼女の事を『川ちゃん』と呼んで慕っていた。


 子ども達はいつも楽しそうに彼女のそばをまとわりつき、仕事中の彼女は困りつつも、子ども達の事は可愛くて仕方なかったらしい。

 「ちょっとだけですよ?」と言って、少しばかりの時間ではあるものの全力で一緒に遊んでいる様子の賑やかな声は頻繁に聞いていた。主人とその奥方も、子ども達が彼女にとても懐いている事を知っており、元気が有り余っている子ども達の相手をしてもらって助かっていると笑って見守っているような状況だった。


 彼女は喜怒哀楽がとても分かりやすい。

 よく笑い、よく感動し、たまに泣いていた。ここ最近出会った人々の中で群を抜いて明るい人だったからだろうか。記憶の隅にかろうじて引っかかり、残っていた。


 ――うわあぁ! 喜一坊ちゃん! 蛇とかミミズとか長くてうにょうにょしたのは……ひゃあぁー!


「威勢が良いんだか情けないんだか分からん悲鳴っすね」

「まぁそれが『川ちゃん』なんだろう」

「……」


 ――これ、千鶴お嬢様が書いて下さったんですか? 私のために? ありがとうございます……うぅ……


「川ちゃんっすか」

「また泣いてるのか……涙腺弱すぎねぇか」

「……」


 有野沢屋敷に行けば一度は必ず川ちゃんの声を聞く。大半は悲鳴か笑い声だが、たまに呻き声のような涙声も。本来は黙々と下働きする事のみを要求される筈の下女中だが、あれ程までに賑やかにされては、覚えないでいる方が難しい。



 思い出して、三郎は自分の失態に気が付いた。


 二ヶ月程前、実家に帰った夕飯の席。

 父に仕事の近況を尋ねられ、組合の仕事で二カ月ほど有野沢屋敷に出入りしていた、と簡潔に事実だけを説明した。

 だがこの時、話を聞いていただけの母が珍しく口を挟んだ。


「有野沢屋敷って、この辺りじゃ一番の大屋敷じゃない。沢山の女中がいるって聞いた事があるけど、やっぱりそうなの?」

「はい」

「賑やかそうなお屋敷ねぇ。私、噂を聞いたことがあるの。ちょっとだけ()()()女中さんがいらっしゃってね? えぇっと……確か……お名前は……」


 うぅん、と母は首を傾げる。

 有名かどうかは知らないが、記憶に残っている女中は確かに一人いた。


「『川ちゃん』ですか」


 母に尋ねると、顔を上げた母を目を丸々とおおきく見開いた。

 驚いた表情を浮かべていたのは少しの時間だけ。母はすぐに、ニッコリと、それはそれは晴れやかな笑みを浮かべた。


「そう! 川ちゃん! その子よ!」


 ぱちんと両手を合わせて笑う母に、三郎はこの時は特に違和感を覚えなかった。何も思わなかった。

 しかし今なら分かる。


「俺は知りません」


 そう答えるべきだったと。




 気付き、後悔したが遅かった。


 目の前には今にも倒れそうな『川ちゃん』がいる。わずか数時間後には自分の妻となってしまう事が決まってしまった彼女が。


 今はとにかく、一刻も早く、顔色の悪い彼女を静かな場所で休ませなければいけない。



「落ち着きましたか」


 人混みで騒がしい場所を離れて別室に連れて行き、水を飲ませて一息ついたらしい彼女に尋ねてみる。

 途端に彼女は、焦ったように姿勢を正して頭を下げてしまった。恥ずかしそうな様子だが、どこか怯えている様子も拭えない。謝罪の言葉と挨拶を、噛みそうになりながら口にしている。


 その言葉や動作は、三郎の中にある罪悪感を刺激し続けた。


「トミさん」


 いつまでもずっと頭を下げ続けたまま止まらない言葉を、彼女の名を呼び、肩を掴んで上半身を上げる事で強制的に遮った。

 困惑にいっぱいの表情。潤みきった大きな黒々とした瞳と、火照った鼻先や頬。それなのに白っぽい唇。分厚い花嫁衣装超しからも自然と伝わってくる彼女の熱。三郎は嫌な予感を覚えた。

 彼女はとても無理をしている。

 

 三郎は簡潔に、戸惑うトミに事情を説明した。なぜ自分が職人着のままここにいたかという事、これから急いで支度を整えるという事。その間、楽に過ごして欲しいと伝えた。

 急がなければ。

 頭の中はそれだけだったが、不意に彼女に問われた言葉に、三郎の思考は止まってしまう。


「相手が私で本当に良いんですか?」



 すぐに返事が出来なかった。罪悪感で。


 あやうく「トミさんこそ良いのですか」と口から滑り出そうになってしまいかけたが、彼女から視線をそらして下を向き、畳を見つめる事で平静を取り戻す事が出来た。


 これからすぐに祝言が挙げられる。

 既に両家の家長が決めた結婚だ。


 この結婚を強行に白紙にしてしまう事も出来なくは無い。

 しかし、無理矢理反発する理由が三郎には無かった。結婚相手に特別な夢、希望、願望も無かった事が、よくも悪くも三郎をすぐに冷静にさせてしまう。


 『川ちゃん』は感情豊かで分かりやすい。自分とは正反対な人。

 他人だった。


 しかし事情が変わってしまった。

 普段、女性の名をまったく発しない自分が迂闊にも彼女の名を発してしまったばかりに。自分が何も言わなければ、恐らく彼女はまったく違う男と結婚していたのだと思う。彼女がいつ、この結婚の事を知らされたのかは分からないが、自分との結婚に対して緊張はあっても、嫌がっているような素振りは今のところ感じられない。

 気付かれないように、隠しているだけの可能性もあるが。


 彼女こそどうなのだろう。

 この結婚は――


 沈黙の時が思いがけず長くなってしまった。

 尋ねた彼女自身が、失言してしまった、と言うように顔を真っ青にさせて泣きそうな表情になっていっているのは、下を向く寸前に見て分かっている。そのことをやっと思い出し、三郎は顔を上げた。


「夫婦となる相手がトミさんで良かったと思いました」


 淡々と言ってのけてしまった瞬間、三郎は己に失望した。驚いた様子の彼女を室内に一人残して襖を閉めて、久々にため息らしいため息をついた。


 嘘をついた。

 だが、他になんと言えば良かったのだろう。 


 この嘘が彼女に気付かれていない事を、三郎は静かに願っていた。




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