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2 後編 櫛歯が折れ、祝言の日を思う



 驚きの早さで事態を把握し、あっという間に支度を終えてくれた三郎さんのおかげで、祝言は予定通り滞りなく行われた。


 分かった事は、私と三郎さん以外は皆この結婚を知っていて、めでたいめでたい! とどんちゃん騒ぎを起こしながらも心から祝福してくれたという事だ。誰から見ても、どうやらこの結婚は()()()()と捉えられるらしい。

 私はお礼を言いつつ、やっぱり少し複雑だった。


 父親同士が合意の元でまとめた結婚とはいえ不釣り合いな気がしてしまう。両親も言っていたのだ、三郎さん以上の人はいないと。その通りだと思う。なぜ山野辺のお義父さんは三郎さんの結婚相手を私に決めてしまったのだろうかと疑問だけが深まっていく。


 まさかお父さんが何か山野辺家の弱みを握ったとか?


「いやいやいやいやないないないない……」

「トミさん?」


 思わず言葉に出てしまっていた。

 隣に座る三郎さんに顔を覗き込まれて、私は慌てて「何でもありません!」と引きつった笑顔を浮かべて顔を振った。


 三郎さんはこういう時ですらも表情が動かない。

 ぴくりとも。どこも動かない。

 ただ瞳が乾かぬように瞬きを繰り返して、言葉を出したり飲んだり食べたりするためだけに口を開ける。今も、ただただ静かに私を見つめて、私がこれ以上喋らないと分かるとまた視線を正面へと戻してしまっている。 


 賑やかに行われる祝言の最中で、トミは目の前に並べられている美しい婚礼料理に手をつける事も出来ず、両手の指を絡ませたりくるくると落ち着き無く動かしていた。




 祝言が終わり、やっと重苦しい花嫁衣装から解放されてさっぱり出来たと思ったら、もう夕刻。あれよあれよという間に連れて行かれたのは今日からの新居だという長家だった。


 土間、台所があって、部屋は二間。

 風呂と便所は外、共用だからなーとさくさくと説明が続く。


 本当ならもう少し広い場所を貸せるんだが、なんせ急だったからなぁ、と案内役を任されたらしい組合の職人さんの言葉に、私は「ええっ」とびっくりしてしまう。私からしたら、十分な広さがあるように感じていたからだ。実家よりちょっとだけ狭い程度に思う。

 祝言の最中に誰かが荷物を運び入れてくれていたらしい。部屋の隅には二人分の少ない荷物が、分けられてすっきりと纏め置かれていた。


 案内役の職人さんを見送って、やっと訪れた静かな空間。


 はあぁ終わったぁ……と声を出しながらううーんと伸びをして、首やら肩やらをごきごきと回していると、上を向いた時に三郎さんと目が合った。

 私の頬と唇は、歪な笑みをつくってひくひくと震わせていた。本当に困った。分からない。三郎さんが何を思っているのか分からなすぎる。


 今日から夫婦。三郎さんと。一緒に暮らす家族。

 一緒にご飯を食べて、一緒に寝て――


「か、片付けを! 荷ほどきを! 暗くなってしまう前に終わらせましょう!」


 気持ちは逃亡に近かった。

 くるっと身を翻し、荷物とちゃぶ台、小さな木棚が置かれている居間へと駆けていこうとしたのだが。


「トミさん」

「はいっ!?」


 振り返ると、両手を降ろして拳を握り、本来は坊主頭に巻くのであろう手ぬぐいを首にまわした職人姿の三郎さんが私を見ていた。


 この緊張は、あれだ。怖い上女中のフネさんに何か粗相を注意される時か、厄介な面倒事を投げられるのではという緊張のそれによく似ている。

 私にとっての三郎さんはまだちゃんと夫ではないから。夫婦になったけれど他人行儀なのは仕方のない事だと思いたい。


 目が泳いでしまいそうになっていたら、歩み寄ってきた三郎さんは顔を近づけてくる。彼の右手が急に私のおでこにペタリと当てられた。

 その動作にも、手の冷たさにもびっくりしてしまう。


 三郎さんの手、硬い。とっても大きい。

 冷や冷やする。

 すごく気持ちいい。


 危うくうっとりしかけた瞬間、頑なに動く事が無かった三郎さんの表情が、初めて動きを見せた。


「酷い熱だ」


 ポツリと呟いた三郎さんの小さな声が、どうやら疲れた身体がまるでどろどろの油状態だったらしい私の身体に、小さな火の粒となってポンッと落ちてくる。思い出したように顔と身体に高熱が全速力で走り抜けていく。身体が酷く重たく感じる。意識がふわふわと朦朧としてしまい、おでこに触れる三郎さんの冷たい手だけが癒しに思えていた。



 その後、三日三晩も熱は下がらなかった。


 最低限の身動きしか取ることが出来ないまま、朝晩は三郎さんが、日中は同じ長家で暮らしているという職人の奥さんや姉さん達が交代で面倒を見に来てくれていた。

 嫁いで早々なんという大失態。恥ずかしい。

 高熱で頭も回らず、ろくに身体を動かす事が出来ないどころか、三郎さんや奥さん達との会話の記憶も曖昧という始末。どうか熱に浮かされて変な発言をしていませんように、とひやひやしながら眠る日々。


 布団に横たわり、大半の時間、こんこんと眠っている事しか出来なかった。




「申し訳ございませんでした!」


 陽はどっぷりと暮れていた。

 すっかり深夜になってしまっている。

 静かに開いた戸口から無言のまま現われた三郎さんに対して、正座した私はおでこを畳に擦りつける勢いで深々と頭を下げた。恐ろしすぎて、申し訳なさ過ぎて。三郎さんの顔を真正面から見る事も出来ない。



 今朝。カホさんが来る前に起床し、やっと身体が全快した事にひとまず安堵した。

 けれどすぐに肝が冷えた。 


 大慌てで三郎さんを探すものの、とっくに不在で工場へと行ってしまっていた。枕元に置かれた盆の上には水差しと粥、水を張った桶と、その中には清潔な手ぬぐいが入っている。三郎さんが用意してくれたものだ。


「最悪だ……!」


 元気になったからこそ。今さら涙が。

 トミは慌てて手で乱暴に目元を擦った。

 私の馬鹿。大馬鹿者!

 普段は健康体で滅多に熱なんて出さないのに、なぜ夫婦の始まりという、こんなにも大切な時に限って。



「面倒ばかりおかけしてしまって、本当に申し訳ございませんでした。は、恥ずかしいです。顔向けが出来ません。奥さん方や姉さん方にも。きちんとご挨拶も出来ないまま、大変なご迷惑を。とてもお世話になってしまいました。今日の午後も一応は様子を見ていたのですが、多分もう大丈夫です。明日必ず、改めてお礼とご挨拶を――」

「トミさん」


 顔を下げたまま、しどろもどろに言葉をつらつらと述べていたが、三郎さんに名を呼ばれて口を閉じた。

 三郎さんが近くにいる、そんな気配がする。


「顔を見せてください」


 のろのろと顔をあげてみる。

 正面では無く、左側に三郎さんがいた。

 土間からは小上がりになっている居間の縁ぎりぎりに正座していた私の隣に、三郎さんは腰掛けてすぐ隣に座っている。なんとも思っていなそうな無感情そうな顔があった。

 持ち上げられた三郎さんの右手。硬い指が一度頬に触れて、そのままゆっくりとおでこに当てられる。ひんやりと冷たくて心地良い、優しい大きな手が。


「熱はもう無さそうですね」

「は、はい」

「目が赤い。痒いですか」

「いいえ! お昼に少し擦ってしまったんですが、今は平気です」

「そうですか」


 三郎さんの右手が離れていく。

 どうしてか、とても名残惜しく寂しく感じてしまい、なぜだか私の視線は自然に三郎さんの右手に固定され、追いかけてしまっていた。三郎さんの右手は、脇腹あたりの半纏と帯の隙間に入っていく。すぐに引き出された右手は小さな紫紺色の巾着を握っていた。

 そのまま私に差し出される。

 困ってしまい、巾着と三郎さんの顔を交互に眺めたら、三郎さんも説明が必要だとやっと気付いたらしく口を開けた。


「紅葉の盛りが終わりました」


 三郎さんが巾着の口を開ける。

 中から取り出したのは、赤色と黄色の紅葉が小さく描かれている、木製で蒲鉾型の形をしている小ぶりな櫛飾りだった。

 三郎さんの手に右手を掴まえられ、上向かされる。突然の事にどぎまぎしていたら、上向かされた手のひらの上に櫛飾りを置いてくれた。

 艶々と。台所の火、居間の灯りに浮かび上がる二色の紅葉。影で暗くなったかと思えば、火の動きに合わせて影が揺れて、きらりと綺麗に赤色と黄色が浮かぶ。


 手のひら上にある小さな秋。

 美しい二色の紅葉に、トミはしばしの間見惚れていた。


「道端の露店で買った安物ですが。本物の紅葉は終わってしまいましたが、その絵を見れば少しは秋を感じられるかと思ったので」

「……」

「すぐ冬が来ます。身体は大事にして下さい」

「……三郎さんも」

「はい」

「ありがとう……ございます。とても綺麗……」


 三郎さんの右手が持ち上げられる。

 節くれ立った硬い皮膚を持つ人差し指が折り曲げられ、私の眦にそうっと触れた。


「泣かないでください」


 相変わらずさっぱり感情が読めない声音で言いながら、慎重に丁寧に、優しく指で涙を掬い取ってくれる。ぽろぽろぽろぽろと止まらずに、けれど声も出す事が出来ずに涙を流す私に、三郎さんの内心はとても困ってしまっていたのかもしれない。

 恥ずかしい。もう十八歳なのに。

 一体いつになったらこの涙もろさは克服するんだろう。どうしても我慢が出来ない。嬉しすぎたり、感動してしまうと、いつも涙が浮かんで抑えきれなくなってしまう。


 三郎さんの指は冷たい。

 でも、確かに冷たい筈なのに温かく感じるのはどうしてか。触れられると、身体の芯からぽかぽかと熱が生まれてくる。

 土と木。工場帰り独特の汗の匂いがとても濃く感じる。

 この匂いに包まれると、看病してくれている時の三郎さんを思い出してしまう。冷たい手のひらにおでこや頬を触れられて、髪を撫でられる度に、何度私は三郎さんの名を呼んでいたか。


 足りない。ただ触れられるだけでは。

 私はもっと――


「抱きしめたい……」

「……」

「……ええっと……? えぇ!?」


 うわあぁー! と、悲鳴をあげなかった自分が奇跡に思えた。


 ずっと寝てばかりいた私と三郎さんの今の関係は夫婦、だけど他人以上知人未満が正しい。それどころか、貧弱泣き虫挙動不審娘、と思われている可能性が濃厚な気がする。抱きしめたい、と突然告げられたところで、困るか呆れるか。引かれてしまうかもしれないのに、なんという事を口走ってしまったの。


「!」


 涙を拭ってくれていた右手がパッと離されて、私の涙もぴたりと止まった。同時にぐさりと胸の中に見えない刃物が突き刺さる。

 ……あぁほら。引かれてしまった。


 三郎さんは私から顔もそらして、戸口へと向けてしまう。自分の右腕を持ち上げて眺めたかと思えば、顔を近づけている。どうやら自分の匂いを嗅いでいるらしい、と理解出来た時、三郎さんはもう一度こちらに顔を向けた。


「駄目です。工場帰りで悪臭が酷いので」


 立ち上がった三郎さんは、台所の角の棚へと向かい、新しい手拭いを取り出してもう一度私を振り返った。


「共同風呂に残り湯があると思うので。身体を拭ってきます」

「は、はい!」

「トミさんは寝て下さい」

「……はい」


 後悔が。

 悲しい。……とても恥ずかしい。


 正座したまま膝の上で櫛飾りを両手で握り込む。

 どうして落ち込むの? 落ち込む理由なんてないのに。三郎さんはこんなにも綺麗な櫛飾りを贈ってくださった。秋を感じられるように、近づく冬に体調を崩さぬようにと、私を想って贈ってくれた。

 ……充分すぎるのに。


 視線を下に向けて「先に寝ます。おやすみなさい」と口を開こうとしたら、ふっと目の前に影が落ちた。

 三郎さんが歩み寄ってきていて、居間には上がらず土間に立ったまま私を見下ろしている。


「明日の朝に、……」

「三郎さん?」

「おやすみなさい」

「お、おやすみなさい」


 何かを言いかけていた?

 問いかけようか迷ったものの、すぐに背中を向けてすたすたと共同風呂へと向かっていく三郎さんを、私はぼんやりと見送った。



 翌朝、工場に向かう前。

 三郎さんから「行ってきます」の言葉と共に躊躇無く抱きしめられて、「明日の朝に」ってこの事!? と、早朝からあわや高熱をぶり返しそうになる程に照れてしまった。


 紅葉柄の古い櫛飾り。

 眺めるだけではどうしても我慢できず、簡単に結い上げた髪に差してお見送りしていた事も、私を抱きしめた時に三郎さんは気付いてくれていた。


「秋ですね」


 表情は相変わらず『無』そのもの。たった一言そう言って櫛飾りに触れて、すぐに工場に向かってしまったけれど。



 私、幸せ者かもしれない。

 全然笑わず、困ってしまうほどに喜怒哀楽を見せず伝えられることもない。それでもちゃんと感じる。三郎さんのあたたかな優しさを。


 あぁ、好きだなぁ。


 まだ結婚して一週間も経ってないけれど。私はきっとこれから、もっともっと、三郎さんを知る度に好きになっていくのかもしれない。






 *


「脆かったのですね」


 折れた櫛歯に触れながら三郎さんは言う。


「これはもう使わないでください。指や頭皮を傷つけたら――」

「えっ!? やめてください!」


 まさか、捨ててしまうつもり!?


 ぎょっとした私が、ひったくるように三郎さんの右手から櫛飾りを奪い取る。その様子があまりの必死な形相だったからか、三郎さんにしては珍しく口が半開きのまま私を見つめていた。


「捨てないで下さい! これは私の宝物です!」

「……」

「これ以上壊さないように、もう髪にはつけません。今後はちゃんと観賞用としてのみの用途を守って保管しておきます。危ないからって、勝手に捨てないでくださいね?」

「……」

「捨てたら本気で怒ります!」


 三郎さんはもう一度、先程そうしていたように右手で口と顎を押さえてしまう。そのまま目を伏せてしばし何かを考えたらしく、やっと顔を上げてくれた。

 既に結婚半年。感情を見せてはくれない、無表情に浮かぶ静かな眼差しを向けられる事は慣れてしまっている筈なのに。


 なぜだか、ちりっとした痛みを胸に感じて唇を閉じてしまう。


「捨てません。その櫛飾りはトミさんの物です」


 顔中に熱が集まってくる。

 冷静に考えればすぐに分かる。三郎さんは勝手に人の物をいじる事も漁る事もしない。ましてや捨てるなど、絶対にしない人だと分かっているのに。

 自分の言動を恥じて、強張らせていた肩を下げて、もう一度櫛飾りを両手で大事に握りしめた。


「……ごめんなさい……」

「いいえ」


 両の頬にわずかな風を感じる。

 顔を上げると同時に、三郎さんの右手は私の後頭部を包んで、左手は後ろに回されて腰を抱かれていた。気付かない間にとても近い距離で座り、向かい合っていたらしい。

 驚く間もなくそっと唇を重ねられる。

 三郎さんの柔らかい唇の感触に、きゅっと胸が疼いて、反省に沈みかけていた心がゆるやかに浮上する。応えるように、三郎さんの唇を軽く(ついば)んだ。


 唇同士が離れて少しだけ隙間が出来た時、ふふっ、と笑みがこぼれた。

 幸せで。

 

「三郎さん。大好き」


 三郎さんからしたら耳にタコが出来そうな程に聞いている言葉だ。この数ヶ月、ほとんど毎日のように私が伝えている言葉。鬱陶しがられてもおかしくないと思うのに、邪険にされた事がない。三郎さんから直接言葉で好意や愛を囁かれた事は一度たりともないけれど。


 言葉がなくても、大切に愛されている実感が確かにある。


 大好きと伝えると、三郎さんはただ無言のまま私を見つめて頷くか、抱きしめてくれるか、たまにこうして口づけまでしてくれる。

 今日はまだ大好きと言っていなかったのに、抱きしめて口づけてくれた。

 どうしてだろう?

 でも、嬉しい。


「トミさん」


 はい、と返事の意味を込めて見上げると、三郎さんも私を見下ろしていた。いつもの見慣れた無表情なのだが、微かに口が開きかけては閉じて繰り返している。


「……」

「三郎さん?」

「……」

「どうしましたか?」

「ありがとうございます」


 何に感謝されたかが分からず、返事に困っていたら、櫛飾りを握っていた両手を三郎さんの左手が包み込んでくる。


「次は、丈夫な髪飾りを贈ります」

「丈夫な髪飾りですか?」

「はい」


 綺麗な髪飾りでもなく、可愛い髪飾りでもなく。丈夫な髪飾りを。


 とっても三郎さんらしいなぁと思いながら、私の心は喜びいっぱいに満たされていた。




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