第二部 第四章「女神の雫」(2)
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「殿、いつの間にそんなに上達なされたのだ?!」
「アハハ! 振り落とされるなよ!」
僕は燃えるように赤い駿馬の手綱を引き寄せながら、後ろで僕にしがみついているゾフィアに言った。
馬の脚はとても軽く、馬蹄の音も静かなのに、その疾駆はまるで風のようだ。
あまりにもの速さに周りの景色の変化に目が追いつかず、世界全体の色がにじんで見える。
「マレンゴでも追いつかないなんて……ベル、待って!」
「アハハハハ! こっちだよー!」
僕は燃え盛る馬から手綱を放して、後ろから追いかけるメルに言った。
もう手綱なんて必要ない。
だって、僕はこのお馬さんの気持ちがわかる。
そして、このお馬さんも、僕の気持ちがわかるのだ。
「ふふ……お馬さん……むにゃむにゃ……」
「主様」
「よーし、メルと閣下と競争だー」
「主様」
「うーん、ちょっと待って……レオさんが何か言ってる……。あれ、レオさんはどこだ。まさか姿を消す技か何かで……」
「……現実世界におります。主様」
「そうかそうか、現実世界にね。じゃあ、この世界は現実じゃないのかな。ねぇ、お馬さん」
「その世界は夢です。主様」
「ええー、夢? 何言ってんの、こんなに速く走って……走って……ああ……そんな、嘘だろ……、このお馬さんは……僕のお馬さんは……夢なのか……」
燃え盛るようなお馬さんも、後ろに乗っているゾフィアも、追いかけているメルやジルベールの姿もスッと消えてしまって、僕は目を覚ました。
「あーあ……。僕のお馬さんが……」
「おはようございます、主様」
「……おはようございます、レオさん。もう朝ですか?」
僕は目をこすりながら、ベッドの側に立っているレオさんに挨拶を返した。
朝にしては周囲が暗い気がする。
「朝というよりは夜明けに近いのですが、起きていただいた方が良いかと思いましたので」
「なるほど。僕のお馬さん以上に重要なことがあったんですね」
僕がそう言うと、なぜかレオさんが感心したように唸った。
「さすがは主様。……無防備に睡眠をなさっているようでも、なんとなく状況は察知しておられたんですな」
「ちょっとなにを言ってるか……ふぁぁぁ、ねっむ……」
大きなあくびをしながらベッドから起き上がろうとする僕を、レオさんが軽く手で制止した。
「……今は起き上がらない方がよろしいかと」
「ふぇ? ふあんふぇぇ?」
あくびをしたまま、僕はレオさんに尋ねる。
「今の状況を結論から簡潔に申し上げますと、今、主様の枕元には馬の生首が置かれています」
「ふぁぁぁっ、そう、生首がね……」
生首。
生首ってなんだっけ。
えっ!?
「……マジなの?」
「さすがに落ち着いていらっしゃいますな。見事です」
「いや、びっくりしすぎて逆になんか、びっくりするタイミングがおかしくなっちゃった」
本当にそうなんだけど、謙遜していると思われたらしく、レオさんが激シブいおっさんの顔のまま苦笑した。
「誰がやったか……って、聞くまでもないだろうね」
「はい。あいつらの脅迫でしょうね」
「……まったく」
僕は苦笑する。
「にしても、レオさんを侵入に気付かせることなく、そんなものを置くなんて、意外とあなどれない……」
僕がそう言いかけると、レオさんが首を振った。
「いえ、何をするつもりなのか、見届けておりました」
「へ?」
「主様に危害を加えるようなら即殺いたしましたが、ただの虚仮威しでしたので。であれば、連中のやりたいようにやらせておいたほうが、後々、主様も対処しやすいのではないかと考えました」
レオさんはそう言ったので、僕が呆れたように、
「僕がビビっちゃうとは思わなかったの」
と返すと、レオさんはぷっと噴き出した。
「まさか。貴方なら女王どころか神の前でさえ物怖じなさいますまい」
「……それ、ヴァイリスの至宝にも言われたよ……」
僕はそんなにふてぶてしいんだろうか。
……まぁ、ふてぶてしいか。
「よっこいしょっと」
僕はベッドから下りて、後ろを振り返った。
大きな安物のトレイの上に、レオさんが言った通り、馬の生首が置かれていた。
あまり気持ちのいいものじゃないから詳しくは省略するけど、なかなかひどいものだ。
……赤毛の馬だった。
「……そっか」
お手が汚れます、と僕を制止しようとするレオさんを逆に手で制止して、僕は馬の頭を撫でた。
「お前は僕のせいでひどい目に遭ったのに、夢で僕とあんなに楽しく走ってくれたんだね」
エスパダの有力者だかなんだか知らないけど、こんな安物のトレイに載せちゃうあたり、お里が知れるというものだろう。
「まだみんなは起きてないよね? 庭に埋めて、お墓を作ってやろう」
「主様、そのようなことは私が……」
僕が馬の血でべとべとになったトレイを持ち上げると、レオさんが慌ててそれを受け取ろうとする。
「じゃ、レオさん、申し訳ないけど一緒にやってくれますか?」
僕はトレイを渡さず、レオさんににっこり笑った。
「……ということがあったんだよね」
「ひどい……」
僕がみんなの前で今朝のことを話すと、メルがそう呟いて顔を曇らせた。
他のみんなも同様だった。
「大変不愉快ながら、いかにも連中がやりそうな手口だと言えるでしょうね」
三日前にエスパダに渡航してきたギュンターさんが、片眼鏡を外しながら言った。
「ハニーをこんなことで脅迫しようだなんて、センスを疑うねぇ」
「まぁ、ギュンターさんとバルの言う通りだったね」
僕は苦笑しながら二人に言った。
……話は三日前。
僕が叙勲を受けた日にまでさかのぼる。
叙勲式の後、僕がエスペランサ侯爵になったという話と、僕の胸元に付けられた大鷲がエスパダ・ロペラをくわえている美しい勲章を見て、仲間のみんなは大騒ぎして、ヒルダ先輩は特に「面食らった祖父殿のことを想像すると笑いが止まらん」とか言って笑い転げていた。
でも、女王陛下のオレンジの話をすると、合流したギュンターさんとバルトロメウはさっと顔を曇らせたのだった。
「それは……、伯、いえ、侯が思っていらっしゃる以上に、厄介な案件かも知れませんよ」
「侯爵という爵位を頂戴して安請け合い、とは言えないんだろうけど……、こんなとんでもない問題を押し付けてくるなんて、あの女王陛下は相当の食わせ者だねぇ」
性格も生き方も全然違っていながら、商人としては相当のポジションにいるギュンターさんとバルトロメウの二人がまったく同じ見解だったので、僕はとたんに、ものすごく不安になってきた。
「どういうこと?」
僕の質問に、ギュンターさんは答えず、
「一度、ご一緒に市場を見て回りませんか?」
と提案した。
僕は即答して、そのまま二人でエル・ブランコの市場を見に行ったのだった。
「……え、オレンジ1つでこの値段?」
果物市場に陳列されていたオレンジの値札を見て、僕は思わず声を上げた。
他の果物はどれも、千ペセタ紙幣1枚、つまり銅貨100枚もあればお腹いっぱいになるぐらい買えるはずなのに、オレンジ1つの価格は、なんと千ペセタ紙幣が3枚必要だった。
「なんだい、冷やかしなら帰っておくれ」
値段にケチをつけられたと思ったのか、不機嫌そうな店主のおばさんが追い払うように言った。
(これ、ぼったくり価格じゃないの?)
(はい。現在のエスパダの市場価格の平均額です)
ギュンターさんに小声で確認してから、僕はおばさんに言った。
「あ、おばさんゴメンね。僕はヴァイリスっていうクソみたいな田舎から来たものだから、この辺の相場がわかってなくて……」
僕が冗談を言うと、不機嫌そうな顔をしていたおばさんの顔が少しゆるんだので、すかさずこう付け加えた。
「とりあえず、このオレンジ、2つくださいな」
驚くおばさんに千ペセタ紙幣を6枚渡すと、おばさんはパァッと顔を明るくして、一番大きなオレンジを紙袋に入れてくれた。
「いやぁー、数ある果物の中から『女神の雫』を選ぶなんて、あんた若いのにお目が高いねぇ!」
「前に食べたのがすっごく美味しくてさぁ。エスパダのオレンジは世界最高だなって」
「そうともさ!! あんたみたいな他所から来た人がそれを知ってくれるのは嬉しいねぇ」
お店の入口まで送ってくれたおばさんに手を振って、僕は埠頭にある係留柱、つまり船のロープをひっかけたり、おじさんが足を乗せてカッコつけたりするためのでっぱりに座って、オレンジの片方をギュンターさんに渡して、もう片方のオレンジの皮をむいて食べた。
「……ああ、やっぱりすごく美味しい。王宮でいただいたのと同じだ」
最初に口の中に広がる上品な甘みと、後からやってくる優しい酸味。
品質は間違いなく、最高だ。
「でも、いくらなんでも1つ3000ペセタは高すぎるよね」
「……しかし、仕入値も非常に高価なため、あの店主も他の青果店も、売れてもたいした儲けにはなりません。それどころか、高すぎて売れないため、廃棄になるのがほとんどです」
「ええええ……、『女神の雫』を捨てちゃうの?!」
驚いた僕に、ギュンターさんがうなずいた。
「捨てちゃうぐらい余ってるのに、値段が高いの?」
ギュンターさんがさらにうなずいた。
「ギュンターさんは事情を知っているんだよね?」
「……おそらくは」
一度そう答えてから、ギュンターさんは言った。
「ですが、今回は、ベルゲングリューン侯爵ご自身の目でお知りになられたほうがよろしいと思います」
「そっかぁ」
よくわからないけど、ギュンターさんがそう言うなら、そうなんだろう。
とりあえず、その日はそのまま屋敷に戻って、翌日からエスパダのオレンジ農園の経営者に片っ端から当たってみることにしたのだった。
……そして、その結果は散々だった。
どの農家も、「ウチは他所への卸しはやっていない」「とにかく帰ってくれ」の一点張り。
中には、鎌を振り回して追いかけてくるおじいさんまでいたぐらいだ。
二日間、何の成果もなく足がくたくたになるまで歩き回って、エル・ブランコの郊外でへたり込んでいた時、急に僕の前に馬車が止まった。
「失礼ですが、エスペランサ侯爵様ですね?」
妙に目つきの鋭い、体格のいい男が馬車から下りて言った。
「え、どうしてその肩書を……」
「もう市街にお触れが出ていますから」
嘘だ。
僕はこの二日間、エスパダ中を馬車や歩きで散々回ったけど、そんなお触れなんて見たことがない。
メアリーだって最近おとなしいから、今ごろ怪盗キッズたちの相手をしながら必死で記事を書いているはずだ。
でも、問題は、嘘自体よりも、嘘の言い方だ。
まったくの無表情で、しれっと嘘を言ってのける人は、そうそういない。
……そういう生き方をしてこなければ。
「さる御方から、侯爵がお困りのようならご招待するようにと仰せつかっております。よろしければご同行いただけませんでしょうか」
物言いは丁寧だけど、有無を言わせぬ眼光だった。
その態度は大変気に入らないんだけど、僕としても本当に困り果てていたので、黙って馬車に乗ることにした。
……というか、もう歩きたくなかった。
「我が屋敷にようこそいらっしゃいました。侯爵様のお屋敷と違い、狭い場所で恐縮ですが」
(どこが狭いんだよ……)
エル・ブランコの街道を北にまっすぐ上がったところにある小高い丘に、その屋敷はあった。
白亜の大豪邸、といった感じのたたずまいの屋敷を「狭い」というのは、平民上がりの僕からすれば嫌味にしか聞こえない。
男はくわえていた葉巻を分厚いガラスの灰皿に置いて、ソファーにどかっともたれながら挨拶を始めた。
「私の名はオルビアンコ。周りの人間や街の人々はドン、あるいはドン・オルビアンコと呼んでいます」
「僕の名前は御存知ですね。マンガでは爆笑伯爵ベルゲンくんと呼ばれています」
最初僕が冗談を言ったのがわからなかったのか、男はきょとん、とした顔をしてから、わっはっは! と大げさに笑ってみせた。
でっぷりと太って、はちきれそうな三つ揃えのスーツを着用していることを除けば、ちょっと顔立ちや雰囲気が、僕がネズミ野郎と呼んでいた頃のヒューレット・バッカーノに似ている。
……もしかしたら出身が同じなのかもしれない。
「侯爵は冗談がお好きだと聞いていたが、どうやら噂通りの御方のようですな」
「あなたのことは知らないけれど、とてもカタギには見えないですね」
僕がそう言うと、男はにこにこしながら手をひらひらさせた。
「とんでもない。私共はまっとうな商いで生計を立てております」
そう言ってから、ヒューレット・バッカーノがかつてそうしたように、キュッと目を細めて、こう続けた。
「まぁ、時には荒っぽいこともやりますが……。それもまた、私共のようなビジネスには必要なことでしてね」
「何か、飲み物をもらえませんか?」
「おっと、これは大変失礼しました。おい! さっさと飲み物をお持ちしねぇか!!」
ドン・オルビアンコが後ろにいる部下に向かって、まるで人が変わったように大声で一喝した。
(これはようするに、僕をビビらせたいってことなんだろうな)
ビビったフリでもしようかなとも思ったけど、向こうのやり口があまりにも露骨すぎるのでその前に苦笑してしまった。
「……どうやら、侯爵はオレンジの買い付けでお困りのご様子で」
僕はそれに答えず、部下が用意してくれた赤ワインのグラスをゆっくりと傾けて、それから軽く匂いを嗅ぐと、グラスをカタン、と置き、部下に「すいませんが、お水をいただけますか?」と言った。
「おや、どうされました?」
「いえ、別に何も。……ただ、本場エスパダまで来てこんな品質の悪いワインを出されるなんて、僕も安く見られたものだなと思いまして」
僕がそう言うと、ドン・オルビアンコの顔色がさっと変わった。
「てめぇ!! オレの顔に泥を塗る気か!! ウチで一番いい酒を持ってこい!!」
くっくっく、効いてる効いてる。
(ありがとう、アウローラ)
『そなたもこのぐらいは一目でわかるようになれ』
(い、いや、僕もなんとなくはわかったよ?)
『混沌と破壊の魔女に見栄を張るでない』
アウローラには何もかもお見通しだった。
「それで、ご用件はなんでしょう」
僕は動揺したドン・オルビアンコが要件を切り出すより先に尋ねた。
どんな交渉事でも、相手に会話の主導権を握られるのはよろしくない。
僕はそれを「外交の天才」、アルフォンス宰相閣下から学んでいた。
「コ、コホン。聞けば侯爵は通商権をお持ちで、ヴァイリスで我がエスパダのオレンジを販売するおつもりなのだとか」
「誰から聞いたのかは知りませんが、その通りです」
僕がそう言うと、ドン・オルビアンコはでっぷりと太った身体をソファから乗り出した。
「その仕入れから輸出までの一切合切を、ウチでやらせてもらうってのはどうですかい?」
「ほう」
「侯爵様はただ、私共が仕入れたオレンジをヴァイリスで売りさばくだけ。侯爵様は面倒で言うことを聞かないオレンジ農家共を相手に仕入れに悩むようなこともなく、どーんと構えているだけで、ガッポリ楽にカネが稼げる。私共は大口の卸先ができる。互いにとってウィン・ウィンな話だと思いませんかい?」
目先の欲を前にして、ドン・オルビアンコの言葉遣いに地が出てきている。
『この男は小者だな。大物ぶってはいるが』
(僕もそう思う)
僕はアウローラに答えた。
「それで、その仕入価格はどのぐらいでお考えですか?」
僕がそう言うと、ドン・オルビアンコは嬉しそうに手をすり合わせながら、言った。
「そうですなぁ……、大口の卸売になりますので、たっぷりと勉強させていただきたいとは思っておりますが……」
「オレンジ1つあたり70ペセタでいかがでしょう」
僕がそう言うと、ドン・オルビアンコの細い目が限界まで大きく見開かれた。
「……は? どわーっはっはっは!!!」
「あっはっはっはっは!!!」
ドン・オルビアンコが大笑いしたので、僕も合わせて大笑いしてみた。
「どわっはっはっは!! いや、侯爵は本当に冗談がお好きな……」
「あっはっは!! いえ、70ペセタ以上はビタ一文として払うつもりはないです」
「どわっはっはっは!!! 御冗談でないとしたら、侯爵はエスパダのオレンジの市場価格をご存じない……」
「あーっはっはっは!! 1つ3000ペセタですよね? まったく、その値段の方が冗談キツイですよ。どこかの阿呆が釣り上げてるんでしょうね」
「てめぇ、ふざけてんじゃねぇぞ!!! 神の子にでもなったつもりか!!」
その瞬間、ドン・オルビアンコの顔から笑顔が消えて、怒声と共に右手で灰皿を払い落とした。
吹き飛んだ灰皿が暖炉に当たって砕け散り、その破片が僕に飛んでくる。
僕が無言で左手を振り上げると、水晶龍の盾が出現して、その破片を弾き返した。
威嚇をしたはずのドン・オルビアンコは、その光景に驚いて、しばらく口をぱくぱくさせていた。
「……お話は以上のようですね。それでは失礼します」
「ま、待ちやがれ!! まだ話は終わってねぇ!!!」
「終わってんだよチンピラぁ!!!」
僕はそこで初めて、ドン・オルビアンコに向かって怒鳴った。
その一言だけで、怒りの形相のドンは金縛りにあったように動けなくなった。
「……そんな稚拙な恫喝で御することができるほど、アヴァロニアでただ一人の『君主』は安くないぞ、チンピラ」
彼のような人種は部下のいる前で威厳を示さなくてはならないはずなのに、僕みたいな若造の一喝で動けなくなるのは、果たしてどんな気分なのだろうか。
「じゃ、そういうわけで。僕は忙しいんで、これで」
「……このままで……済むと……思うなよ……」
ドン・オルビアンコは、ごってりと肉がついたアゴを必死に動かして、なんとかその捨て台詞だけを、立ち去っていく僕に伝えたのだった。
で。
そうしたら、歩き疲れてぐっすり眠った翌日に、寝室の枕元に馬の生首を置かれたというわけだ。
「ドン・オルビアンコはエスパダのオレンジを牛耳っているマフィアを束ねる存在で、『オレンジ・マフィア』とも呼ばれています」
今朝の顛末を聞かせた後、みんなの前でギュンターさんが説明してくれた。
アヴァロニア全土が戦乱に明け暮れていた時代。
エスパダの豊富な農作物やワインなどは他国から狙われやすく、そんな貴族の農地を守るための武装した農地管理者たちが、今のマフィアの前身だったらしい。
そんな、かつては庶民の生活を守る存在だったマフィアたちは、戦争が終わり、貴族たちが専横する時代になると、やがて庶民を搾取する側に回った。
大地主や大貴族と結託して農民たちから搾取し、恐喝や暴力によって勢力を拡大させ、エスパダ市民の誰もが恐れる犯罪組織へと変貌していったのだという。
民主化によってエスパダが大きく変化し、大貴族たちが力を失うと、エスパダ・マフィアは潜伏して、表舞台から姿を消した。
だが、今でもエスパダの主要都市の産業の根幹で、様々な影響力を持っているマフィアが存在するらしい。
「女神の雫」の値段が異常に高いのも、これまで他国で流通することがなかったのも、ドン・オルビアンコら、オレンジ・マフィアが価格操作をしているからなのだそうだ。
「あーあ、海賊、反抗勢力、怪盗の次はマフィアを敵に回しちゃうなんて……。あんた、わかってる? エスパダに来てまだ一週間も経ってないのよ?」
「そんなこと言われたって……」
ぼやくユキに、僕は口を尖らせた。
「ウフフ、海賊は壊滅、反抗勢力は馬糞まみれ、怪盗は全員まつおちゃんファミリーになって、マフィアちゃんたちはどんなひどい目に遭っちゃうのかしらん」
「くくっ、ジョセフィーヌの申す通り、私も卿が連中をどう料理するのか、今から楽しみでならん」
ジョセフィーヌの言葉に、読みかけの本を置いたジルベールが言った。
「……ですが主様。マフィアの連中は潜伏を得意としており、市民にまぎれた殺し屋なども多数おります。あの子どもたちを捕らえたようなやり方は難しいと思いますが」
「まあ、そうだろうね」
レオさんの言葉に、僕はうなずいた。
「そのアンコなんとかって奴を召喚でもしてボコボコにすりゃいいんじゃねぇの?」
「……オルビアンコね。たぶんだけど、あいつはマフィアの幹部の一人に過ぎないんじゃないかな。あいつをどうこうしても、たぶん違うやつに首がすげ変わるだけだよ」
花京院に僕は答えた。
「でもまぁ、お馬さんのお仕置きだけは、してやらないとね」
「ほら! 皆さん見ました?! 今の伯の邪悪な顔!! あれが悪魔の顔ですよ!!」
「メアリーうるさいよ」
そういえばメアリーは僕が侯爵になっても伯と呼んでいる。
「悪魔がどんなお仕置きをするのか、楽しみだわ」
アリサがくすくすと笑う。
「まったく、人類の友である馬に対して、何たる不埒な行い。殿が鉄槌を下さねば、この私が下してやるところだ」
「お姉さまのおっしゃる通りですわ」
動物を愛するゾフィアとテレサ姉妹はめちゃくちゃ怒っていた。
「……それで、どうするの、ベル?」
メルが銀縁眼鏡をくい、と持ち上げて、僕の顔を見上げた。
「……なんだかベル君、入国してすぐにこっちの人みたいになっちゃったけど、ここ、一応外国だからね? あんまりむちゃくちゃなことをすると、国際問題になっちゃうからね?」
ミスティ先輩が釘を刺した。
「そうだね、あのチンピラへのお仕置きはともかく、これからどうするかなんだけど……」
僕はジルベールが置いた本を拾い上げた。
それは、さっき僕が朝から読んでいた本だった。
表紙には「エスパダ法律全集」と書いてある。
「この本さ、民主化されてから新しく制定されたエスパダの法律について書かれているんだけどさ、貴族に関する細かい取り決めも書かれているんだよね」
「どれどれ……うわ……、字が細かすぎて読む気にならん……。お前ら、よくこんなの読めるな」
覗き込んだキムが僕とジルベールに言った。
「わかるわー! こういう本は全部マンガにすればいいんだよな!」
「だったら花京院がマンガ描きなよ」
「バカだなー。オレが描くためにはその内容を知ってなきゃならないだろ? でもオレはその内容が読んでも絶対わからないから、つまり絶対描けないわけ。わかる?」
……花京院にバカって言われるとなんでこんなに傷つくんだろう。
「でね、話を戻すけど、この本によると、侯爵はエスパダ国内において、国民を守ることを目的とするなら、一万までの私兵を持つことが許されるんだって」
「……なんだか嫌な予感がしますけど、それがどうかしましたの?」
アーデルハイドが訝しげな顔をしながら、僕に尋ねる。
「さっき、ギュンターさんが言ったでしょ。農地を守るための武装した農地管理者たちが、今のマフィアの前身だったって」
僕がそう言うと、ギルサナスがフッ、と笑い、ヴェンツェルがクッキーをぽろ、と落とした。
「ベル……、ま、まさか……」
「そう、そのまさかさ」
僕はヴェンツェルににっこりと微笑んだ。
(「神の子にでもなったつもりか」だっけか……)
ドン・オルビアンコが言っていた言葉を思い出した。
「ファミリーの諸君。僕のことは『ドン・エルニーニョ』と呼ぶように!!」
「ファミリー?」
ぽかん、とした顔をするミヤザワくんに、僕はうなずいた。
「今この瞬間から、僕はマフィアを結成する」




