虚
痛い。胸が痛い。まるで全身を、いや心臓を針で刺されたかのようだ。あるいは脈が心臓を裂きそうだ。
この痛みをどう形容すれば伝わるのだろうか。ただ、ひとつだけ確信を持って言えることがある。
今、このときにも俺を殺さんとするこの痛みは、
今、このときにも俺に死んだほうがマシじゃないかと思わせる痛みは、
俗に言う、恋というものなのだろう。
ああ、どうか、助けてくれ。
誰でもいい。もう耐えられないんだ、だから、
――だから、俺を殺してくれ。
最初は、ほんの些細な出来心だった。
いや、出来心というよりかは、欲望に近かったのかもしれない。
バイトをクビになって一ヶ月。明日の懸念はもちろんのこと、今日の晩飯を憂う日々。
親に啖呵を切って家を出てきたはいいものの、このザマではただの笑いものである。
「大学生って、もっと華やかなイメージだったんだがなあ」
そんなことを言っても金が湧いてくるわけでもなく、とりあえずは新しいバイトを見つけないといけないのだが、不運なことにここらずっと落ち続けている。
これ以上遠くなると、交通の便とかも含めて不便になるんだよなあ。
蝉の声を鬱陶しく思いながらも、ペラリペラリと求人雑誌を捲る。できれば楽で給料のよいバイトがなかろうかと。
捲って、捲って、23ページ。下段左から2つ目。たまたま目に止まったバイト。
日雇いバイトみたいな求人募集だったが、何やら変わっている。二泊三日泊まり込みのバイトのようだった。なぜ泊まり込みの必要があるのだろうかと考えてみたが、まあ思いつくのはブラックな理由。……休む暇はあるのだろうか。
しかし、それ以上に魅力的だったのはその給料。
「1000万って、どっかのガキが適当に設定した値段かっつーの」
ケラケラと笑い飛ばしながらその求人募集を読んでみたが、泊まり込みでちゃんと食事もあるようで、
そして仕事内容は眠ること…………はあ?
眠ることって、え、睡眠、睡眠なのか?
「おいおいおいおい、どういうことだよ」
血眼になって俺はその募集要綱を見る。健康な成人男性を募集しているとのことで、仕事内容は眠ること。その間に脳波を測るなどして夢の中でのことについてを調査するといった旨。
どうも胡散臭い内容だった。だが、それ以上に金のなかった俺には1000万という金額は魅力的だった。二泊三日ということは、丸三日というわけではない。仮に丸三日であったとしてもその拘束時間は72 時間、時給に換算すると……ええっと、すぐに計算できねえな。
スマホの電卓を開き、1と、0をいち、に、さん、し、……7個並べる。そして割る72っと、
「だいたい13万9000円!?」
嘘だろっ、たった1時間で俺が一ヶ月に貰ってた金額より高えじゃねえか!
それに気づいたとき、俺は自然とこの求人先を調べていた。
そして、数日後、
俺はとある研究所に向かうこととなる。
「でっけえ研究所だなあ」
こんなところにまさかこんな建物が。そう思ってしまった。こんな辺鄙な場所に。
木、木、木。森、森、森。そんな中にポッカリと穴が空くようにして平地が広がっており、その中央には、そこだけ時代が違うと言わんばかりに堅牢そうな建物がたっていた。
「それでは、こちらへ」
俺をここまで車で連れてきてくれた白衣を着た爽やかな男性は、先導するようにして建物の中へと案内してくれる。
入り口は自動ドアのようで、開かれた扉からは冷ややかで気持ちの良い風が流れてくる。
外装もそうであったが、内装を見ても最先端の3文字を想起させるようなものだった。
「それにしても、こんなところにも電気が通ってるんですね」
「いやあ、ガスと水道は届いているんですけど、実は電気は来ていないんです。だから、すべての建物の天井にはソーラーパネルが設置されていて、それだけではまかないきれないので実はこの横の建物は発電施設なんです」
こめかみあたりをポリポリと掻きながら「本当に何もない場所でしょう?」と男性は自嘲するように笑った。
「まあ、こんな立地が悪いところですから、土地代だけは安いそうで」
「そうなんですね」
「あ、そろそろ部屋につきます。そこで説明と、参加についての最終確認を行います」
男性はニコッと笑い、首からさげていたネームプレートのようなもの――おそらくカードキーみたいなものなのだろう。それを部屋の横にある機械に押し当てた。その手はそのまま下にあるテンキーに向かい、4回ボタンを押したタイミングで扉が開く。
「それじゃあ、どうぞ」
男性にそう促されて、開いた扉の中に足を踏み入れる。俺が中に入ったら、男性はあとからついてくるように入ってくる。
そして扉が閉じられる。
部屋の中は机とホワイトボード、本棚、ウォーターサーバー。思っていたよりも普通な部屋がそこにはあった。
ただし、その部屋の奥半分がベッドと、計測用だろうか、何やらよくわからないごちゃごちゃした機械類に占領されていることを除いては。
「それじゃあおかけください」
机の一方にあるイスに座るよう言われ、それに従う。男性は対面のイスに座る。
「それではまず、今回の実験へのご協力、まことにありがとうございます」
男性はそう言って、深々と礼をする。
「改めまして、私は今回あなたの担当をさせていただきます、相田と申します」
すっと差し出された名刺を、俺は両手で受け取る。そういえば名刺とか持っていないんだが、俺がそう戸惑っていると相田さんは気にしないでください、と言ってくれた。
「それで、今回やってもらいたいことなのですが、求人募集の要綱にも書いていたとおり、眠っていただきたいです。そして――」
「あ、あの、質問なんですけど」
ずっと気になっていたことを、聞くなら今じゃないかと、……説明を遮ってしまったような気がしなくもないが、そう尋ねた。
「本当に1000万くれるんですか?」
「と、いいますと?」
「だって眠るんですよね? それに食事まで出る。それなのに1000万って」
ちょっと信じられない。そう続けようとすると、相田さんはクスクスと笑っていた。
「ああ、すみません。つい。……そうですよね、不審に思いますよね。でも、安心してください。きちんとお支払いはさせていただきます。……って、そんな言葉だけじゃ信用できませんよね」
「いえ、こちらこそ変なことを聞いちゃってすみません」
「では、改めて続きの説明をさせていただきます。後で目を通していただきます書類にサインを頂いたあとに睡眠を摂っていただきます。今の時刻が13時のため、本日の夕食。明日の朝食、昼食、夕食のタイミング。それから明後日の朝食のタイミングで15分の起床時間を設けます。就寝時の水分補給に関しましては、点滴を打つことにより脱水症状を防ぎます」
「はい」
「それでは、こちらが書類ですのでよく目を通した上で、最終確認をよろしくおねがいします」
相田さんは3枚の紙をファイルから取り出し、ボールとペンと一緒にこちらに差し出してきた。紙のうち2枚には読むのが億劫になりそうなほど文章がぎっしり詰め込まれていて、もう1枚は契約書のようだった。
飛びついたのは自分ではあるといえ、なにやら胡散臭いバイトであることには変わりないので、ちゃんと読むか。そうやって文章を上から読んでいく。
読んで、読んで、読んで――、
だああっ! 読んでられっかこんな硬っ苦しい文章!
いや、読まないといけないのはわかってるんだ。けれども、全く持って気が乗らない。
仕方がないので流し目でサラサラと目を通す。……途中いくつか不穏な言葉がよぎる。
そして改めて契約書を見る。
一番気になった文章はこれだった。
当研究所は本実験で発生したことについて責任を負いかねます。
「あの、本当に大丈夫な実験なんですか?」
実験の金額の高さも相まって、よりそんな気持ちが増してきた。
ツーッと今の文章の部分をなぞりながらそう尋ねると、相田さんは「ああ」と少しため息をついて、答えてくれた。
「いちおう実験なので、万が一が発生する可能性は否めません。ですが、眠るだけの実験ですので、よっぽどのことがない限り身体的な損傷が発生することはないと思いますよ。実際、そのような事例は今まで起こってませんし」
「なら、いいんですけど」
正直、不安がかなり強かった。けれど、けれど。
1000万円。一時間で一ヶ月以上の収入。あまりに魅力的なその言葉。
これもひとつの経験だ、と。俺は契約書にサインをした。
「ありがとうございます。それでは早速ですが実験を行いますので、どうぞこちらに」
相田さんは奥のベッドに俺を促す。俺は靴を脱ぎ、横たわる。
天井は真っ白だった。そんなことを考えていると、ペタリペタリとひんやりとした感覚が体中に感ぜられる。何かの機械がつけられているのだろう。
「それでは準備が整いましたので」
「あの、そういえば全然眠くないんですけど……」
「大丈夫です。すぐに眠くなりますから」
「えっ」
ふっと、頭の中にモヤがかかったような、そんな感覚に陥る。
そのまま意識がだんだん遠のいていって、瞼が重くなり、
「それでは、おやすみなさい」
相田さんのそんな声が、聞こえたような、聞こえなかったような。
「――、――、――――ッ! もう、なにやってんの!」
名前を、名前を呼ばれた気がして。
目を開くと、そこは見慣れた景色だった。大学の中、いつもの教室。どこかだるいからだ。
しかし今まで自分が何をやっていたのか想像もつかない。……まさか、寝てた!?
まずいまずい、この教室にいるってことは数学じゃん。ただでさえ授業についていけてなくって単位やべえってなってたのに。
「いい加減返事くらいしたらどうなのよっ!」
ベシッと軽いもので頭を叩かれる感覚がする。ちょっと痛い。
でも、その痛みで意識がハッキリとする。
そして、ここが夢だということにも気づく。
だって、だっておかしいから。
「いや、ええっと、どちらさまですか?」
「はあ!? なによアンタ、彼女の名前も忘れたっていうの?」
そんなこと言われたってなあ。知らないものは知らないんだから。
目の前にいたのはひとりの女性。ふわっとした焦げ茶色の髪の毛が肩ほどまで伸びていて、キレイな顔立ち、それから、その、えっと、胸。……でけえ。
ただ、こんな人知らない。いや、仮にあったことがあったとしても今の俺の交友リストの中にはいない。
当然ながら彼女いない歴イコール年齢である俺の彼女であるはずがない。いや、そんなことあってたまるか。
仮にそんなことがあったならば、どれだけよかったろうか。これが夢じゃなくて現実だったら、どれほどよかったろうか。
「もう、私は真那。ったく、ちゃんと覚えておいてよね」
「あ、はい、えっと、ごめんなさい」
「もう、なんでさっきからそんなに敬語なのよ。私は彼女なんだからそんなにかしこまらないでって、……っていうかいきなりそんな調子で接されるとこっちが対応に困るんですけど」
「はい。じゃなかった、えっと、わかった」
「どうしたのよ、ほんと。昨日変なものでも食べた? 熱でもある?」
そうやって彼女は俺の額に右手を当ててくる。左手は自らの額へ。
ひんやりとした感覚が伝わってきて、一瞬ここが夢であることを忘れさせる。
「うーん、別に熱はなさそうね。……って、そんなことよりも早く行きましょうよ!」
「行くって、どこに?」
そう尋ね返す。すると彼女はぷくうっと、頬を膨らませた。
「なんで忘れてるのよー! デートよデート! 約束してたでしょ、信じらんない!」
「あー、ごめんごめん、忘れてない忘れてない! 忘れてないから!」
「…………ほんとは?」
「ごめんなさい忘れてました」
そもそもそんな約束をした覚えがない。……する機会もなかったし。
「もう。とにもかくにも早く片付けて。そんな忘れたとかでデート無くなるなんて私絶対イヤだから」
そう言いながら真那は俺のノートやら筆箱やらをテキパキと片付けていく。
全部が鞄にしまわれて、満足げの彼女は「それじゃあ」と、
「行こっか」
俺の手を取り、引っ張る。
「痛い痛い痛い痛い! いやお前机越しに人の腕を引っ張るなよ! 体が引っかかって通れるわけ無いだろ」
「ふふん、私の名前と約束を忘れたバツよ」
ニカッと自慢気にそう笑われた。
いろいろ言ってやりたいことはあったが、しかしそれよりも、なによりも、
彼女の笑顔はかわいかった。
「あ、見てこれかわいー!」
「どれ? ……ええ、これか? これそんなにかわいいか?」
「えー、かわいいじゃん。ほら、ここのツノとかさー」
「うーん、わからんなあ」
雑貨屋を巡り、
「じゃーん! どう?」
「おお、かわいいな!」
「次はコレッ!」
「青色か、それもかわいいな」
「これなんかどう?」
「お、それもかわいいな。肌の色とよく似合ってる」
「……全部かわいいとしか言わないじゃん」
「いやあ、そもそもがかわいいからどんな服着てもかわいいっていうか」
「ちょっと! もう、そんなこと言って、誤魔化して……」
服屋を巡り、
「って、なんで俺が着なきゃならんのだ」
「いーじゃんいーじゃん、私がいい服見繕ってあげるからさ!」
「いらねえっての!」
「もう、照れちゃってー」
何故か俺の服も買い、
「ちょっとなんでそこで落とすのよ!」
「まー、クレーンゲームってこういうもんだしなあ」
「絶対に取ってやるんだから……ってあれ? 100円玉がもうない。ちょっとここで待ってて、両替してく――」
「……ったく、取れるかどうかはわからんぞ?」
「やだー、かっこいいー」
「そういうこと言うのなら棒読みはやめてくれませんかねえ」
ゲーセンで遊んで、
「ね? 美味しいでしょ」
「そうだな。たしかに美味い。タピオカってこんな味なんだな」
「ほらー、だから変な偏見とか持たずに1回食べてみなっていっつも言ってたじゃん」
「それもそうだなあ」
「それじゃ、今度は私がいっちばん好きなオススメのタピオカミルクティーのお店に連れてってあげる」
「えっ、待ってまだ飲むの? たしかタピオカってかなりカロリー高かったんじゃ」
タピオカミルクティーを三杯ほど飲んだり、
初めてのデート。今まで行ったことのない、やったことのない、たくさんのコト、モノ、触れて、感じて。
初めてあったはずの女性、真那、だというのに、今日が初めてじゃないように感じられて、もっとずっと前から会っていたような、そしてずっとずっと前から一緒にいたような、そんな感覚に陥ってきて、
もっとこの時間が続けばいいのに。ふと、そんなことを思ってしまった。
しかし、次第に日が暮れてきて、彼女と別れる時間がやってきて、
「それじゃ、また明日、大学でね」
「ああ、また明日」
手を振って、二人別れた。
彼女はそのまま踏切の奥へと行き、降ろされた遮断器、通る電車が消える頃にはその姿が見えなくなっていた。
俺も、家に帰ることにした。帰ろうと思った、
カサリ、手から紙袋が滑り落ちた。
急に体が重くなって、だんだんと足が絡め取られ、腕が引きずり降ろされ、その場に倒れ込んでしまう。
いったいこれは。不安や恐怖が体を締め付ける。心拍が上がっているのがわかる、なんだ、なんだ、なんなんだ。
意識はまどろみ、何者かに奪われたかのように、フッと途切れる。
「おはようございます」
微かに聞こえたのは、男性の声だった。体中からひんやりとした感覚がする。
「食事の……とはいえ、時間もありませんで非常に簡単なものですが、時間です」
ああ、そうか。そういえばそんなこと言っていたな。
相田さんが差し出してくれたパサパサの栄養バーを口に含む。それからコップに入った水も飲む。
動きにくいなと思ったら、左腕には点滴の針が刺さっていた。……あまり動かさないでおこう。
「それで、夢の方はいかがですか?」
「ああ、いい夢でしたよ。……ほんと、これが現実だったらなあって思えるような」
「そうですか。それはよかった」
相田さんはニコッと笑い、栄養バーが乗っていたお皿を下げてくれた。
「さて、もうそろそろ時間になります。準備はよろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
俺は枕に頭を乗せ、目を閉じる。
すると最初のときにも感ぜられたような急な眠気が襲ってきて、
しばらくすると意識が途切れた。
目が醒めると、そこは街のベンチだった。
左には紙袋、右手には必死になって取ったぬいぐるみ。
「あっ、やっと起きた」
隣から、女性の声が聞こえた。
「えっ、ああ、ごめん」
「いいのいいの。でも今日はよく寝るね。そんなに疲れてたのかな?」
「そんなことは……、いや、どうやらそうみたいだな」
どうやら、今はデートの最後の方らしかった。ちょうどこのあと別れる。その証拠に空がもう赤く染まっていた。
「時間もいいくらいだし、そろそろ解散にしよっか」
そのまま、俺たちは歩いていって、前回はちょうど踏切のところで別れた。
今、俺たちが歩いていっているのも踏切の方。まあ、さっきの夢の続きだし、当然か。
踏切までつくと、俺は持っていた彼女の服と、ぬいぐるみを渡し、
そうしてそのまま二人別れ、彼女は踏切の向こうへ。
俺もそのまま家に帰ろうと、歩みを進めた。
電車の走る音が、少し遠くからうるさく聞こえた。
でも、なにかおかしい。何かが鳴っていない。
そう、具体的に言えば、あの耳障りな、
ぐちゃり、
気持ちの悪い音がした。後ろからした、突然した、
電車の走行音はうるさかったが、それでもしっかり、はっきり聞こえた。
「えっ?」
振り返らずにはいられなかった。
そして、振り返ったことを後悔した。
振り返ったから気づいてしまった。何が鳴っていなかったのか。
何が起こっていたのか。
ああ、そうだ。そうか。あの耳障りな、カンカンカンカンという警報音、遮断器が降り、今から電車が通ると知らせるあの音。あの音が足りてなかったんだ。
遮断器も降りず、ただ電車が目の前を通り過ぎていった。
その状況に、思わず口に手を当てた。こみ上げてくる吐き気は抑えられそうにない。
赤く濡れた地面、飛び散る肉塊、白い綿、おそらくそこにあったであろうもの、
堰上げてきたものに上半身を揺さぶられ、頭が直下の地面を向く、そこに流れ落ちる茶色の吐瀉物、ところどころ真っ黒の塊が見れる。
考えられなくなって、意味がわからなくなって、頭が真っ白になって、
ふと気づいたら、家にいた。見慣れた茶色の天井。
ああ、なんだ、夢だったのか。……ひどい悪夢を見た。
しかし、それにしても体がだるいな。節々が痛いし、熱でもあるのか?
「大丈夫? ずいぶんうなされてたみたいだけど」
隣から声が聞こえた。その声に、俺は安堵する。
真那の声だ。よかった、夢だ、夢だったんだ。
……いや、待てよ。真那がいるということはここはまだ夢の中で、さっきまでは夢の中の夢の中? ダメだ、考えていたら頭がこんがらがってきた。
ただでさえ頭が痛くて思考にモヤがかかっているのに。
「ああ、大丈夫だ。問題ない」
いいや、今は。真那も無事だったし。それに、ここは夢の中なんだから。
「ならよかった。それじゃ、私は帰るね。おかゆ、作っておいたから食べてね?」
「ああ、ありがとう」
俺は布団の中から彼女が出ていく姿を見守った。靴の爪先をトントンと地面に打ち付けて履き、ドアを開けて出ていく。
「じゃ、早く元気になってね?」
「ああ、それじゃあ」
彼女はそのまま出ていった。アパートの外階段を降りる音がかすかに聞こえる。
それじゃあおかゆをいただこうか。重い体を起こして、キッチンへと向かう。
キュルルルルルッ! ガシャン! 突如大きな音がした。振動がした。
嫌な予感がした。体に鞭打って外へ出る。左右違った靴は動きにくかったが気にならなかった。
車が追突していた。そして、
「ああ、あ、ああ……」
嘘だろ、そんなことって。
信じられない、そんなこと、そんなことって、
ふと気づいたら、街のベンチだった。
左手に紙袋、右手にはぬいぐるみのビニール袋。
それに気づいたとき、俺は青ざめた。
まずい。このままではまずい。
「ねえ、どうしたの? 顔色悪いよ?」
生きている真那が、そうやって俺の顔を覗き込んできた。俺はその質問に答えるわけでもなく、真那の手を取った。
立ち上がり、駆け出した。
どこへ行けばいいかなんて知らなかった。どこなら助かるかとか知らなかった。
でも、何もしないよりかはマシだろうて。
「ねえ、急にどうしたの? 痛い、痛いっ!」
真那がそう言う。でも、それを気にしている余裕なんて俺にはなかった。
走って、走って、走っていると、突然悲鳴が聞こえた。
真那のものじゃない、周りの誰かのものだった。
俺は気にせずに走った。すると、突然引く手が重くなった。かと思うと軽くなった。
甲高い、音がした。
真那からの抵抗がなくなった。ああ、嫌な予感がする。
その場に立ち止まると、俺の手には、ぶらんと垂れ下がる一本の腕。
後ろを振り向くと、工事現場から落ちてきたのだろうか。一枚の鉄板。
全てを悟ったときには、もう全てが終わっていた。
その瞬間、体中が重く感ぜられる。なにかに足を引っ張られ、腕を引っ張られ、ああ、この感覚には経験がある。
そうだ、これは、あのときの!
よかった、これで、夢から醒め――、
「おはようございます。いかがでしたか?」
起きるや否や、相田さんはそう聞いてきた。
あいも変わらず、いい笑顔で。
俺が何も言わないでいると、相田さんはそのまま続けた。
「そういえば、かなりうなされていましたが、悪い夢でも見ましたか? そうですね、例えば恋人が電車に轢かれるとか」
「…………ッ!? なんで、それを」
「例えば、の話ですよ。例えば……のね? それこそ、夢の話のような」
「おまっ……このっ……」
殴ってやりたくなった。真那を、真那を! ……たとえ夢の中での存在であったとしても、彼女をあんな目に合わせて。
だかしかし、彼らがこれを作為的に行っているという確証はない。なにより、人の夢の内容に干渉できるだなんてそんな機械聞いたことがない。
たまたま、夢の内容を言い当てただけ……? それとも、
「どうぞ、朝食です。腹が減っては戦はできぬと言います。同じくお腹が減っていては快眠もできませんよ?」
「快眠も何も……、くっそ、眠りたくない、夢を、あの夢を見たく……」
「そう言われましても。……まあ、たまたま先ほどが悪夢だっただけで、今度はいい夢かもしれませんよ?」
「そう、だといいなあ……」
仕方なく、栄養バーを受け取った。
味は感じられなかった。
水で流し込んみ終わると、待ちかねたかのように相田さんが「さあ横になってください」と。
眠りたくはなかった。しかし、眠気は変わらず襲いかかってくる。
抗うことを許さず、そのまま深く、落としていく。
あれから、どれだけだったろうか。
何回、食事を摂ったろうか。
何回、彼女が死んだろうか。
何回、俺は真那を助けられなかったろうか。
そのたびに締め付けられる胸。
死にたいと思っても、死ねない。その前に彼女が死ぬ。
俺が車に轢かれそうになると、彼女が俺を突き飛ばして。
通り魔が現れて、俺は彼女を庇ったはずなのに、そのナイフは俺の体すり抜けて彼女に刺さった。
ここが夢だということを忘れていた。
何度も何度も試行錯誤して、あれやこれや手を尽くしてみたが、
結局彼女は死んだ。死んだと思ったら、彼女がいる。
別の場所で、別のシチュエーションで。今までに経験したシチュエーションだったときも何度もあった。
けど、結局死んだ。
死ぬたび、1本ずつ、俺の心臓に針が刺されている気がした。
「ねえ、今日はどこ行こっか」
「美味しいね!」
「もう、また今日の授業寝てたでしょ」
「ありがと!」
「……やっぱり、君と一緒にいられてよかったよ」
いないはずの彼女なのに、虚のはずの彼女なのに、
なのに、どうしてこんなにも苦しいのか。
作りもののはずの真那が、また一人死んで、
存在しないはずの真那が、また一人死んで、
俺の心を抉り取ろうとする。
助けられなかった俺に対して、たったひとことでも恨み言を言ってくれればいいものを。
そんなことをつゆも知らない彼女は、また今回も、俺に対して好ましく接してくれる。
かわいく、無邪気な、彼女が、
道に飛び出した子どもを助けようとして、また死んだ。
意識まどろみ、幾回目。もう何も感じられなくなっていた。
ただひたすらな後悔と、罪悪感と、痛みだけがココロに残った。
微睡み、消えて、目が開く。
真っ白な天井、今度はどんな状況、どうやったら助けられる。
思い巡らせる。けれども、彼女の声は聞こえてこない。
聞こえてきたのは、男性の声。
「お疲れさまです、実験は以上となります」
実験は、以上? 終わり、終わり。……終わり?
「帰って、いいんですか?」
「はい。問題ありません。お疲れ様でした。1000万円は後日指定の銀行に振り込ませていただきます。それでは、ご自宅まで送迎いたします」
何がなんだかもうわからなかった。久しぶりに動かす体は言うことをしっかりとは聞かず、夢の中では走り回っていたというのに、歩くという感覚にすらラグが生じていた。
相田さんの肩を借りつつ、なんとか外へと向かう。そのまま、行きと同じ車に乗り込む。
車は走り出した。住んでいた街へ。
彼女の、真那のいない、本当の街へ。
ああ、ああ。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」