携帯童話
会話中心で、シナリオのように進む5分間の恋愛話。
すべての素敵な女性たちへ感謝をこめて
1
「いらっしゃいませ」
「彼女来てますか?」
「いつもの席に」
「よかった」
薄暗い照明に照らされた店内は、ほんのりとセピアがかっている。透明感のあるカウンターに並んだスツール。
一番奥に、彼女はいた。
「待った?」
「すっごく」
「ごめん」
眉は傾いているけど、その下の瞳は怒っていない。大丈夫だ。
「また携帯切ってたでしょ?」
「あ…ごめん。忘れてた」
右の胸ポケットから携帯を取り出し、電源を入れなおす。普段使う習慣がないから、一度電源を切ると「入れなおす」という行為に思い至れない。こうして毎度毎度僕は彼女に指摘され、毎度毎度電源を入れなおすのだ。
それでも、だいぶ自然になった、と思う。
2
「もう、結構ですから」
――何度、そう言われたかわからない。しかし、僕には忘れるだけの度胸がなかった。
白く塗られたドアを開けると、カーテンごしに赤い光が差し込んでいた。乾いた空気と、定期的な音だけの世界。
部屋の白。ベッドの白。
僕はそこへ足をすすめる。いつもここに来ると心の中も真っ白になる。自分の足では、自分の身体ではないような感覚で、たった3メートルほどの距離を進み、僕は椅子に腰かけた。
3
「どうして、いつも電源切ってるの?」
「仕事の邪魔になるからだよ。君だって勤務時間中は切ってるだろ?」
「マナーにはしてるけど……仕事の連絡が入ることもあるし。それとも、よほど鳴らされたくない相手がいるとか?」
一応笑顔だ。しかし、目は笑っていない。
こういうときの彼女には、注意がいる。
「そんなわけないって。ちょっとさ、携帯があんまり好きじゃないんだよ。別に誰からかかってくるのがイヤとかじゃなくて」
「ふーん」
嘘じゃなかった。本当に携帯が嫌いだった。とても。
4
病室の中はそれなりにあたたかかった。
椅子に座ったまま、僕は彼女の顔を見つめる。眠り姫は、王子様のキスで目覚めた。彼女はそれでは目覚めないことを、僕は知っている。
初めてこうして訪れたとき、僕は謝ってばかりだった。彼女のご両親は僕の来訪を頑として拒んだから、事情を承知の上でのことだと思っていた。だからしばらくは見舞いの品を部屋の入り口で渡して帰った。仕事で遅くなっても、できるだけ通うことは欠かさないように心がけた。
通いはじめて1ヶ月ほどたったころ、両親が何も言わずに病室へ通してくれた。僕は、彼女が両親に話をしてくれたのだと思った。彼女に直接謝りたい――その一心で、僕は病室へ入った。
しかし、そこにあったのは、沈黙と、彼女の寝息。
5
イッツアスモールワールドの旋律。
僕は、自分の右胸から聞こえてきた能天気で、懐かしい曲に飛び上がった。なぜだ?いつものように、電源は入れ忘れていたはずなのに。第一、こんな呼び出し音にした覚えがない。
この曲にだけは、自分では絶対にしない。
僕は不必要なほど取り乱し、胸ポケットの携帯をひっつかんだ。
「もしもーし。驚いた?」
「……やめてくれ」
「え……どうせまた電源入れ忘れてると思ったから、今朝、入れといてあげたのに。着信いじったの、そんなにイヤだった?」
「ちがう……ちがうんだ。そうじゃない」
「ごめんね……そんなに嫌がるなんて思わなかったから」
「ちがうんだ……」
「……?」
「ちがうんだ。オレは携帯で……携帯で……」
「え………?」
6
あの頃の僕は、全てがめんどくさくなってた。
自分では努力してるつもりなのに、結果の出ない仕事と先の見えない生活。両親からの小言。結婚したがってる彼女との催促めいた会話も。
でも、何かを本気で変える覚悟も、面と向かって別れ話を切り出すだけの勇気もなかった。
周りの全部に、自分にとって都合のいい「ぬるま湯」を求めた子供だった。
だから、携帯だったんだ。
「ちょっと待って。今、車だから。ね、あとでちゃんと話そ。」
――僕にとっては、自分の言いたいことだけ言えるチャンスに思えた
最初は、もう、会わないほうがいいと思う――くらいの言い回しだったと思う。
でも、彼女は「待ってってば。ねえ、あとでちゃんと話そうよ」……当たり前の反応だ。
僕はそれでまた身勝手にイラついた。
「いい加減にしてくれよ」
言葉がとまらなかった。だから、
「もう―――――――」
電話の向こうで、彼女が息を飲む気配があった。
「え……」
息の抜けるような、彼女の声が、電話口から聞こえた。
ノイズ混じりの大きな音。そしてツーッツーッと発信音だけになった。
僕には、何が起きたのか全くわからなかった。
彼女の両親から、深夜2時に電話を受けるまで。
7
「彼女のこと、忘れられる?」
「忘れちゃいけないって思ってる。でも、君とこうしてる僕は、卑怯者なんだと思う。」
「……私と別れたい?」
「……僕は卑怯な人間だ。病院へ行ってることを隠していたのも、君との関係を壊したくなかったからだ。責任を忘れる度胸もないし、君にちゃんと話す勇気もなかった。」
「でも、今話してくれたよ。」
「……」
彼女が背中から抱きしめてくれた。
僕が泣きおわるのを待って、彼女は言った。
「今日は帰るね。また来るから」
8
いろいろ話かけもしたし、涙も流したような気がする。
足しげく、お見舞いに訪れ、彼女の目に映らない花を飾り、言葉のない会話をしているような面持ちで、病室の椅子に座る。
もうどれくらいこうしただろう。
椅子に座って、彼女の顔に話しかける。
――オレ、やっぱりずるい人間だよ。オレのしたことだってわかってるのに。……生きなおしたいって気持ちに……いや、綺麗事だな。……君から開放されたいって気持ちに……なってきてる。
9
携帯の呼び出しで、目が覚めた。
懐かしく、胸のつまるこの曲。通話ボタンを押して、耳にあてた。
「もしもし」
誰よりも聞きなれていた、そしてももう何年も聴いていなかった声。
携帯の電源は「入れ忘れていた」のに。
10
深夜だったが、僕は病院へ駆けつけた。救急用出入り口から飛び込み、係員に見咎められたが、足は止めなかった。病室へ、一刻も早く病室へ。それだけが大切なことに思えた。
病室のドアを叩いて、ひったくるようにドアノブをつかんで、あけた。
彼女はいた。ベッドに半身を起こして、微笑んでいる。
「謝りたかった。ずっと……すまなかった。本当に……オレが馬鹿だったんだ。ごめん。本当に、ごめん」
ひざをついて崩れる僕の頭に、彼女の手がなでるように触れる。
「もう充分……。今日まで、あなたのこと、見てたから」
僕は何も言えず、彼女を見上げた。
「あなたは、ちゃんと生きて」
彼女の姿がにじんで、視界がぼやけていく。
「ありがとう」
――彼女の最後の声を、僕は聴いた。
結
相変わらず、ケータイは嫌いだ。こちらの都合に関わらず呼び出されるのも、相手が目の前にいない気楽さも。だから番号はできるだけ人に教えないようにしているが、ひとつだけ変えたことがある。
「彼女のこと、忘れられそう?」
「忘れちゃいけないってやっぱり思ってる。でも君から見たら、気分、悪いよね。ずっと影をひきずってるみたいで。君にも失礼だ……。」
「別れたい?」
「別れたくないけど、やっぱり……申し訳ない気持ちになる。」
彼女は「ふむ」と一言言うと、しばらく黙った。僕から少しはなれ、背中を向けた。
「忘れる、って言ったら、本当に別れ話するつもりだったんだけどなー」
振り向いた彼女の微笑みが、もう一人の彼女と重なった。
「一人で背負うのが辛かったら、私がつきあってあげる。」
番号を知ってるのは、彼女しかいない。
ひとつだけ変えたこと。それはケータイの電源を入れ忘れないようにしたことだ。
(了) 2010年8月