「歩きスマホ」に ご注意!
ごくありふれた、閑静な住宅街で――
時刻は17時を過ぎた頃、日が少し傾き始めていた。
ごく平凡な住宅街の一角を行く、年の頃は30代前半といったところか。顔の色は青白く、体の線は細く、背はやや高めの……そんな男が一人。
その掌にしっかと握っているスマートフォンを凝視しながら必死にその画面を指先でスワイプしてはタップし、またスワイプしてはタップし、そしてまた、スワイプしてはタップしを繰り返しながら、のそのそと猫背で歩いていた。
俗に言うところの「歩きスマホ」である。
昨今、誰もがスマートフォンという画期的な手のひら大の携帯機器を気軽に所持できるようになり、その恩恵によって多々行われるようになった「歩きスマホ」または「ながらスマホ」と呼ばれるこういった行為。
しかしこの行為が今や世界じゅうの至るところで大なり小なりのさまざまな事件や事故を誘発しており、社会問題として大きく取り上げられていることは、もはや周知の事実であろう。
折しも、この男が操作に熱中しているのは……テレビはもちろんネット上でも大々的に宣伝されている中々の知名度を持った有料ゲームのアプリだった。
それをこの男は……自身の寝食を削り、それによる体調不良なども一切省みず、更に職場における自身への評価の低下すら全く考慮することなく傾倒し、そしてその上で、尚もまだ遊び続けていたのだ。
さて、この男。実は歩きスマホをしながら「ある場所」を目指していた。というのも例の有料ゲームアプリでサプライズなアップデートの報告があり、それによりゲーム内で新たなバトルイベントへの参加、そしてレアリティの高いキャラクターが手に入る「ガチャ」の実装などが為されたばかりなのだ。
そして、この男はそういったゲーム内イベントへの参加や新たなキャラクターの入手などのため「歩きスマホ」をしながらやや早足で、最寄りのコンビニエンスストアを目指してプリペイドカードの購入を目論んでいたのである。
更につけ加えると、この男には取り急いでコンビニへと急ぐ理由が他にもあった。
それは、この男が今現在プレイしているその有料ゲームアプリ内において上位登録者に位置しているからであり、その地位を常に保持し続けるという自らに課した強い使命感に他ならない。
課金をすることでレアリティの高いキャラクターを常に自分の手駒に加えて続けておき、ゲーム内における自分の戦力を延々と上げ続けておく。そうする事で、その世界での圧倒的かつ安定的に勝利が、そのゲームの世界における高い地位を約束する事につながるのだ。
余談だが、この男がその有料ゲームアプリに投資してきた課金額の総額は、既に普通自動車を一括で数台購入できるほどにまで達しているという。
「レアリティの高いキャラクターを入手すること」
「常に勝ち続けて上位登録者として君臨し続けること」
──つまり、この2つの事が、この男の今現在の人生における至上の目的なのである。
(――ん!?)
突然、男は自身のヒザの辺りに軽い違和感を覚えた。
「……ふぇ……」
幼い声に気付き、足元を見ると、4~5歳くらいに見える幼い男の子が地面に尻もちをついており、今にも泣き出しそうになっていた。
だが男は、そんな子供の様子を丸きり無視して再び足を進め始めた。直後、その子供の祖母らしき背の低い女性が慌てて子供に駆け寄りその子を抱きかかえると、男に向かって声高に言い放った。
「ちょっと貴方! 子供にぶつかっておいて何なの、その態度は……!?」
(……うっざ)
男は口の中で、他の人間には聞こえない声量で悪態を突いて舌を打ち、そして幼子と老女、たった今関わった全てを無視し、足早にその場から退散する事に決めた。
(――チッ、あれくらい避けろよカッスがッ! 知能の低い猿ガキッとウゼェ婆ァがッ!!)
後方で何やら老女が騒いでいるが、男は完全に無視を決め混み、とにかくそそくさとコンビニを目指す。
この男の理屈としては、こうだ。
自分は、明らかに人通りの少ない場所で歩きながらもスマホを操作していた。
だが、それ故に「歩きスマホ」をしている自分を避けることなど容易である。
それなのに、それが出来ないというのなら、それはもう「相手の知能が圧倒的に低い」
或いは「相手の礼儀が絶望的に悪い」という事……!
よって、この男の基準からすると、先刻ぶつかった小さな男の子は前者……!
つまり「歩いている相手をロクに避けられないド低能だ」と、いう事になる……らしい。
加えるなら、男の子の保護者である祖母も同類であり「この祖母がテメェの馬鹿ガキをしっかり見張って世話をキチンとしてさえいれば、さっきみたく猿馬鹿のクソガキが俺とぶつかるなんて事もなかったんたよボケが――!」と、いう理屈なのである。
「常識」という概念は、それぞれの人間が各々に培った経験、そしてそれに裏打ちされた知識によって形成されるものであり、そうであるが故に、言うならば「十人十色の常識」が存在すると言っても過言ではないと言えるだろう。
とにもかくにも、既にこの男の頭の中では「取るに足らない馬鹿ガキとぶつかった」という、ごくごく些末な出来事などよりも、如何にして速やかにコンビニで課金手続きを終えるかの方が、幾万倍にも優先されるべき事柄なのであった。
いや、この男にとっては、そんな些事に考えを及ばせること。
今こうして、足を進めている時間の浪費すらが口惜しいのである!
そうこうしている間にゲーム内での自分のステータスの微細な変化や、ランキングの上下の変動などといった、ありとあらゆる様々な要因に悪影響を及ぼす可能性があるのだから――……!
とにかく、男はそういった背景に思いを馳せながら、尚もスマホの画面をスワイプし、ひたすらにゲーム画面を凝視し続けていた。
そして、住宅街の曲がり角に差し掛かった瞬間、
――もヨん!
男は、強い衝撃を受けると同時に凄まじい反発力に襲われ、その反動で吹き飛ばされるように1歩、2歩、後ずさった。
「――んァアッ!? ちょッ! なんだァ一体!?」
「…………失敬」
大声で喚き散らすスマホの男に対し、同じく曲がり角で彼とぶつかったのであろうその「紳士」は、冷静かつ慎重に、低く、そして渋い声で返答をしたのだった。
スマホの男は、スマホを片手にしたまま「紳士」を一目見て、そして……
――絶句した。
その「紳士」の立ち姿と……あまに余裕のある佇まいに……!
(――――ッ!?)
「…………なにか?」
ありきたりな住宅街の一角に、不自然かつ不気味なな静寂が生まれた。
戦慄したまま、スマホの男は一切身動きが取れなくなってしまった。
目の前にそびえ立つ「紳士」の、その異質かつ圧倒的な存在感に飲み込まれたのだ。
まさに、蛇に睨まれた蛙……といった所だろうか。
この時のスマホ男の脳内は完全に真っ白になってしまい、まともな思考が一切出来なくなってしまっていた。
ただ一言の言葉を発することも、指先をピクリと動かすことさえも、一切出来なくなってしまったのだ。
もしかしたら、この間、男は呼吸をすることさえも忘れていたのかもしれない……!
この不自然な静寂と均衡を破ったのは、意外にも「紳士」の方であった。
「……歩きスマホ…………危険じゃ……ないですかね……」
「…………はッ……ぁ……?」
何か思うところがあったのだろうか。
この「紳士」は、スマホの男を見据えながら、静かに、そしてゆっくりと語り始めた。
「貴方にも……色々、あるんでしょうね……きっと……
ソーシャルネットワークとか……ネットサーフィンとか……
歩きながら……スマホ触ってる人……よく見かけます……
でも、でもね……やっぱり……危ないと思うんですよ……
まず……歩いてる自分自身が危険ですし……ぶつかってしまう相手の方だって……ねぇ……?」
生唾をゴクリと強引に飲み込み、スマホ男の方も、
「そ、そオッスね、確かに……ッ!」
「紳士」の調子に合わせ、その場でガクガクと頭をどうにか頷かせてみせた。
「分かりますよ……分かります……
何ていうか……「駄目だ」と思ってても、危険な趣味……に、没頭しちゃう気持ち……
私だって……よく……分かります……本当に……」
「う、うッス……! そうッス! そうッスよね!!」
「とにかく……とにかくです……
相手のこと……思いやってあげることから……始めませんか……?
自分の趣味が大事なら……そう…………尚更……
まずは……お互いに……歩み寄らなきゃ…………
やっぱり……他の人に迷惑かけるの……礼儀に反するんじゃ……ないかなって……」
それだけ述べると、「紳士」はその場を後にして、住宅街の奥へと消えていった。
明らかにサイズの合っていないビーチサンダルを踏み締め、ピシャリ、ピシャリ、と足音を響かせながら。
全身汗だくで、女性用のパンツを頭に被り、ブラジャーとパンツを装着した肥満体の紳士が――――
「常識」という概念は、個々の人間がそれぞれに培った経験と、そしてそれに裏打ちされた知識によって形成されるものである。そして、否、そうであるが故に、言うならば人間一人ひとりに「十人十色の常識」というものが存在すると言っても、決して過言ではないと言えるのではないだろうか。
兎にも角にも「歩きスマホ」!
この行為が様々な危険を孕んでいることは、まったくもって疑いようがない事実なのである!!