追憶・紫 2
[ありがとうとダイ〇ン]
呼吸が途切れ、意識が無理矢理睡眠から叩き起こされる。
咳き込み、腹部に広がる鈍痛に耐えながら目を開けると銃を持った男が水の入った容器を持って私の前に立っていた。
男は横たわる私の前に容器を置くと何処かへ行ってしまった。
私は蹴り起こされたようだった。
建物の中は明るく、日が昇ったことを知った。
拘束されてから一日経った。男たちは相変わらず別室にいるようだった。
窓が無い部屋は予想以上に気が滅入る物で、食べ物も出されずに何時間も転がされている私の精神状態は最悪の一言に尽きた。耐えられなくて猿轡をはめられながら大声を出すと、何処からともなく男たちがすっ飛んできて私を殴ったり蹴ったりした。
そんな事があれば誰しも大きな声を出そうとは思わなくなる訳で、私も痛い思いをするのは嫌だったから黙って壁に背を預けていた。
空腹と喉の渇きで目眩がする。でも食べ物は無く、容器に入った水を飲む気にはならなかった。水面に虫やゴミが浮いている水を飲もうとは思わない。
時計も荷物も奪われ、時間が分からなかったが建物の中の明るさで日が傾いてきたことは分かった。
ニュースで流れていたジャーナリスト人質事件。何となく流していたニュースと同じ状況に私はいる事を今更自覚した。見て見ぬフリをしていたニュースの向こう側。あのジャーナリストは結局死んでしまった。私もそうなるのだろうか。
室内と同じように私の心も暗くなってきた。
そんな悲観的な考えに沈んでいると、突然部屋の外から男の悲鳴と熟れた果実が潰れるような嫌な音が聞こえた。悲鳴は一人の物ではなく同時に銃声も聞こえてきたが、それらは三分と経たずに鳴りやんで静寂と風が吹き抜ける音が耳を支配した。
何が起こったか分からなかったけど、命が奪われたということだけは薄々分かった。次は私かもしれない。そう思うと私の意思とは関係無く身体は震え、言うことを聞いてくれなかった。
暗闇と静寂の中で迫り来る死への恐怖と戦っていた。抗おうとすればする程身体の震えは強くなり、私は限界を迎えようとしていた。
その時足音が聞こえた。割れたガラスを踏みつけるような小さな足音が部屋の外から聞こえた。私はその瞬間が来たんだと思った。
私は胸いっぱいの銃弾をうけて、明日の新聞の一面に載り、お昼の情報番組の特集になってしまう。そんなのは御免だが、私の身体をぐちゃぐちゃにする銃弾と引き金を引く者は待ってはくれないだろう。
私は歪む視界で私を殺す奴を見てやろうと思った。あらんかぎりの罵声を浴びせてやろうと思った。それが私に出来る唯一の抵抗だった。
やがて足音の主は部屋に入ってきた。暗闇に溶け込む真っ黒な死神のような装備と真っ黒な銃を持った男。銃の先端からは赤いレーザーが私の額に向かい一直線に伸びていた。
猿轡をはめられながら叫び散らした。普段絶対に言わないような汚い言葉を怨み辛みを込めて吐いた。
すると死神は誰かに声を掛けた。部屋に三人の同じ装備をした男らが入ってきて、最初に入ってきた男に何か指示を出していた。
最初に入ってきた男は私の後ろに回った。何をするのかびくびくしていると、突然呼吸が楽になった。口周りが自由になった私が大きく息をして呼吸を整えていると、男が手足の拘束を外してくれた。何が何だか分からなくなって茫然としていると男が一人近寄ってきて口を開いた。
「アメリカ軍です。救出に来ました。立てますか?」
男は日本語を喋った。私は驚いて辿々しい返事をしてしまった。
「今から脱出します。こちらへ」
男たちに肩を支えられながら立ち上がり、建物を後にする。建物の中を歩いてる時に何故こんな所にいたんだと聞かれたからありのまま答えたら、少し間を置いて「さぞ辛かったでしょうね」と言われた。男たちは全員覆面をしていたけど、言った男の目は明らかに私に同情していた。私は頭がおかしくなったと思われているみたいだった。
建物を出ると入り口に男が二人、喉から血を流して倒れていた。私を救出しに来たというこの男たちがやったのだろう。
建物を出て、ピックアップトラックの荷台に乗せられて銃を突きつけられながら見た景色を戻っていく。
日本語を話す男によるとヘリで脱出するらしい。ついでにここはイラクだと言う。
暫く市街地跡を歩いてると、日本語を話す男が英語で大声を挙げた。すると私たちのすぐ傍の地面が爆発した。私は男の脇に抱えられて建物の陰に隠れた。男たちは銃を撃ち応戦している。
間近で断続的に響く爆発音と銃声、鼓膜が破れそうな大きな音と鼻をつく硝煙の匂い。目の前で繰り広げられる『戦争』に私は目を閉じ、頭を抱えて悲鳴を挙げていた。
しかし『戦争』は案外早く終わった。十分も経たない内に銃声は止み、何食わぬ雰囲気で「さぁ、行きましょう」と言う男たちがそこにいた。
更に五分程歩くと市街地を抜け、砂漠に出た。そこには真っ黒なヘリが私たちを待っていた。
□□□□□□
ヘリに乗った私は日本語が話せる男にやたらと絡んだ。
「私の荷物は?」
「回収しました。こちらです」
「日本人なんですか?」
「アメリカ人です。喉渇いてませんか?」
日本語を話す自称アメリカ人は私にペットボトルを渡してきた。24時間振りの水分を私は一気に飲み干そうとした時、男に「そんなに慌てないで、ゆっくり飲んでください……」と言われた。ペットボトルの中は水では無く経口補水液だった。
水分を摂り終えたらお腹が鳴った。思えば水分と同じように何も口にしていなかった。私は顔が紅潮して耳が熱くなるのを感じて俯いた。
「基地に到着したら何か食べられるように手配します」
「すいません……ありがとうございます……」
すると、別の男が英語で何か言った。よく分からなかった私は自称アメリカ人の方を見た。
「彼は、MREが出たら食べない方がいいと言ったんです。MREはレーション、軍用糧食の事です。きちんとした物が食べられるように手配しますので、ご安心を」
「そのMREって美味しくないんですか……?」
「えぇ……とっても」
それからも自称アメリカ人に話しかけたが、自称アメリカ人は素っ気ない態度を示すばかりだった。
MREの話をした男がやたらと絡んで来るから自称アメリカ人に通訳を頼むと
「彼は君に気があるんだよ」
そう言って絡んで来る男と英語で話し始めた。
自称アメリカ人の声は若く、もしかしたら私とあまり変わらないのかもしれない。覆面から覗く目は切れ長で冷たく、抜き身のナイフを連想させた。
ヘリのローター音を聞いていると段々眠くなってきた。救出された安堵から来るのか睡魔はすぐに私の意識を奪い、夢の世界へと誘った。
次に目を覚ましたのはストレッチャーの上だった。たくさんの飛行機やヘリが見え兵士が行き交う中、私はストレッチャーに乗せられて運ばれていた。
ストレッチャーを押しているグレーの迷彩服を着た女性に場所を尋ねると覚束ない日本語で、ここはトルコのアメリカ軍基地だと教えてくれた。
ストレッチャーから降ろされると、医務室のような場所で検査を受けた。特に問題は無かったようで、外傷も痣と軽い出血だけだった。
点滴を打ち終わると、覚束ない日本語を話す女性がハンバーガーを持ってきた。私はそのハンバーガーにかぶり付いた。気付いた時にはハンバーガー三個を平らげていた。女性に「あなたタフね、軍でもやっていけるわよ」と笑われた。
久し振りの食事の後、私を救出した男たちの事を聞いてみた。すると女性は怪訝な顔をしながら、ある噂話をしてくれた。
兵士たちの中で<幽霊>や<死神>と呼ばれる部隊があるらしい。その部隊は所属も指揮系統も不明だが稀に夜の最前線で目撃されることがあり、凄まじいスピードで戦場を制圧しては姿を消す。夜に溶け込む真っ黒な装備だけが彼らに関する情報だという。
私は死神や幽霊に命を救ってもらったようだった。
ヘリの中で話した自称アメリカ人に思いを馳せた。彼に一言、きちんとしたお礼が言いたかった。また会えることなんて無いのかもしれないけど、また会った時にはお礼を言わなくちゃいけない。
そう思ってると、大使館の人が来たという知らせがきた。彼の手配してくれたハンバーガーは私の身体を動かすエネルギーになってくれた。これからの面倒くさい手続きを乗り切る助けになってくれるだろう。
□□□□□□
これが、私が私になる前の話。
「紫さん、終わりました」
血にまみれて私に帰還を報告する彼。いつかの死神は私の家族になった。
「お疲れさま、シャワー浴びてらっしゃい。藍がご飯作って待ってるわよ」
「はい」
私の愛する娘が愛する彼。私の命を救ってくれた彼。命を投げ捨てた彼。
「亮さん……」
私は言わなくてはならない。あの時言えなかった言葉を、彼に伝えなくてはならない。
「ありがとう」
「どうしたんですか?いきなり」
「いえ……何となくよ」
「そうですか。どういたしまして、別に礼を言われるような事はしないですけどね……」
「あなたが気付いてないだけかもしれないわよ?それと、明日はオフでいいわ。好きにしなさい」
「休暇を入れてくれるのは嬉しいですけど、何していいか分からないんですよね……まぁ、折角の休暇ですから潰されない事を祈りますよ」
「休暇を潰して仕事を入れるような雇い主に見えるのかしら?」
「前の職場が酷かっただけですよ。お陰で休暇に何をしていいか分からなくなりました」
「なら、明日は私に付き合いなさい。外に買い物に行くわ、荷物持ちやってもらえるかしら?」
「それは仕事?」
「いいえ、雇い主からの頼み事♪」
彼はため息をついて、苦笑いを浮かべながら
「喜んで、僕も買い物しますからね……」
そう言った。
「何を買うのかしら?」
「ダイ〇ン、吸引力の変わらないただ一つの(以下略)」




