憧憬
新章です[回帰編]
不思議な場所にいた。
穿たれた大地、血の海、真っ白な空と十字架。
僕は血の海の上に立っている。
十字架には僕の名前が刻まれていた。
『決して入る事の無い墓』
僕の声。
『お前が奪った命』
水面下には僕の足を地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように掴もうとする亡者達が犇めいていた。
『それに彼女達も加わる事になる』
亡者の手が僕の足を水中へ引きずり込む。
手の主は八雲藍だった。辺りを見渡せば見知った顔ばかりだった。
見知った顔達が僕の身体を貪る。骨も噛み砕かれていく。腸は海藻のように揺らめいている。
僕はそれをただただ受け入れていた。
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目蓋を開くと、見覚えのある木目が目に入った。自室の天井の木目。
身体を起こし周囲を見渡す。紛うことなき八雲邸の自室だった。
しかし何故自室に寝かされているか分からなかった。寝起きのせいか頭が上手く回らず考えられない。とりあえず枕元にあったタバコに火を付けた。一服すると大分頭が冴えてきた。
そこで思い出す。藍沢が死んで、殺した奴等を殺して、洩矢諏訪子に負けた事が一瞬の内に頭を駆け巡った。
散々だ。弟子が死に、後始末をしたらボコボコにされて、あげく夢見まで悪い。思い出すと頭が痛んだ。
布団に寝転び大の字になる。
「何処にいるんだろう……僕」
起きてからずっとそうだったが、目に映る全てに現実味が沸かない。じりじりと燃えるタバコの灰にも、天井の木目にも、時折聞こえる鳥の囀りもまるで夢の中の出来事のようだ。
溺れているような感覚だった。身体は重く、言うことを聞いてくれない。
慣れない寝間着からスーツに着替え、一通りの物を持って部屋を出る。
廊下に出ると風が吹きスーツをはためかせた。八雲邸には人の気配は無かった。匂いや音等の五感を刺激する物は無く静まり返っていた。
玄関へ足を進め人里に向かう。
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何処も同じだった。
人は誰一人としておらず、匂いも音も無かった。まるで幻想郷のジオラマのような世界。ゴーストタウン。
ただ人里の外周の森と妖怪の山は違った。森には藍沢が磔にされていて、山にはクレーターと血の海が広がっていた。
僕はクレーターの縁に立って、波一つ立たない穏やかな水面をじっと見ていた。
視界が揺れ、どんどん現実感が薄れていく。
空を見上げると太陽が昇っているにも関わらず満天の星空が広がっていた。
余りにも可笑しな光景に更に現実感が薄れていく。
「あれは《触れられざる世界》だよ」
僕を背後からの声が現実に引き戻す。
「飲まれちゃ駄目だよ。佐山亮君」
「洩矢諏訪子……?」
「やぁ、さっきぶりかな?」
守矢神社の祭神、洩矢諏訪子は続けた。
「あれはね、この世界に存在する者には干渉する事の出来ない世界なんだよ。神だって《触れられない》。アレを見る事が出来る神も少ないだろうね」
「そんな物をなんで僕なんかが見る事が出来てるんですか?」
「それは君が枠組みから外れかけた存在だからだよ。全く新しい存在になりかけた君は何故かアレを見る事が出来るようになったみたいだね」
「あの星空には何があるんですか?」
「知らない」
「神様なのに?」
「神様だって何でも知ってる訳じゃないよ。知らない事は知らない」
「ここは何処なんですか?それに何故あなたがここに………?」
洩矢諏訪子はクレーターの縁を歩き始めた。
「ここは君の意思が及ぶ所であり君の意思が及ばない所だよ。私がここにいるのは君の進化を止めた時に私の力の一部を流し込んだから」
「なぞなぞですか?ちゃんと説明してください。それに何故そんな事を……」
「場所の説明に関してはそうとしか言い様が無いんだよね。この空間は全ての生物が持っているけど決して訪れる事の無い場所だからね。説明が難しいんだよ。私の力の一部を流し込んだのは君がこの空間に来るだろうと思ったから水先案内人を引き受けようかなって」
音の無い世界に足音と洩矢諏訪子の声が響く。
「ここから出られるんですか?」
「うん」
それを聞いて安心した。こんな所にはいたくない。出来る事なら今すぐにでも出ていきたい。
「どうやってここを出るんですか?」
「知らないよ」
水先案内人は屈託の無い笑顔で言い切った。
何が水先案内人だ。こんな、人を茶化してばかりの奴が水先案内人の訳が無い。全く役に立たない。いい加減にしてほしい。
「何か失礼な事を考えてるみたいだけど、元々君がこの空間の持ち主なんだから他人の私が出方なんて知ってる訳無いでしょ。その内君自身が出方を教えてくれるから気長に待ちなよ……」
そう言うと洩矢諏訪子はふらふらと歩き始めた。
言われてみれば最もな話だった。どうやら本当に焦っても意味が無いようだ。
僕も洩矢諏訪子に続き歩き始めた。
「何もいない妖怪の山っていうのも悪くないね」
暫く歩くと洩矢諏訪子は口を開いた。
「そうですね……」
どうでもいい世間話をした。人里のみたらし団子が美味しいだとか天魔が堅物すぎるとか、そんなどうでもいい話を延々とした。
ここには時間の概念が無いのか太陽は動かず、僕の時間感覚は少しずつ失われていった。
世間話をどれくらいしたのかも分からなくなった。ほんの数分間のような気もするし、果てしなく長い間話していたような気もする。
流れる滝は音を立てず、雲は目まぐるしく流れていく。
「やっぱり君は面白いね……、今度ウチに来てよ。神奈子も会いたがってるからさ」
「機会があれば伺わせて頂きますよ……」
タバコに火を付けた。ソフトパックの中のタバコは吸っても吸っても減らない。その点にのみ僕はこの空間の利点を見出だしていた。
「見かけによらずヘビースモーカーだね」
「よく言われます。でもどれだけ酒飲んでもタバコ吸っても死にませんから」
具体的な時間が分からない沈黙の後
「そろそろかな………」
洩矢諏訪子は呟いた。すると何処からか子供の笑い声がした。
その笑い声は二つ聞こえた。一つは男、もう一つは女。
声が聞こえる方向へ足を向ける。木々の間を潜り、茂みに分け入り声の元を目指す。
茂みを抜けると開けた場所に出た。そこは小高い丘になっていて丘の上には一軒の家が建っていた。
その丘と家を見た瞬間、僕は心臓を掴まれたような感覚を覚えた。
記憶の奥底からモノクロの何かが這い出てくる。
僕は必死でモノクロを意識の深層押し込もうとしたが無理だった。
モノクロの何かは吐瀉物として、涙として、鼻水として、叫び声として溢れ出す。
膝から崩れ落ち、地面に額を擦り付ける。
「これが君自身がこの空間から出るための方法なんだね……」
洩矢諏訪子は僕の背中に優しく手を置いた。
家の前で遊ぶ二人の子供――――梨佳と僕。それを優しく見守る二人の大人――――父さんと母さん。
二度と戻らない光景。僕がどう足掻いても二度と手に入れられない光景。
「ここは君の………」
洩矢諏訪子は言葉を途中で切った。
僕達は記憶を遡り、はじまりへと回帰する。




