第5話 八雲主任の采配
「え……えぇぇっ?」
当惑するセイヤの声に、
「あっちゃ~」
という崎杜の声が重なる。
「……まさか、師長補」
「あ、いや、私じゃないよ」
そんな数秒のやりとりの間に、非常灯が点灯しフロアは青白い光に包まれた。
「60秒以内に予備電源が起動しなければ、ちょっと困ったことになるな」
「……困ったこと?」
「ああ、復旧に時間を食うと、構築したデータが飛んじゃうから……」
「マジですか」
そうなれば、最悪、今回の物資の移動はできないということになるのではないか。一同は固唾を飲んでその時間を待っていた。そこへ、
「す、済みませんっ」
端末の一つから、狼狽したような声が上がって、ひとりの師官が立ちあがった。
――ナナミ先輩?
表情を凍りつかせて、そこに佇んでいたのは、間違いなく穂凪ナナミだった。セイヤだけでなく、フロアじゅうの視線がそこへ集中する。
――って、え……まさか、これ、ナナミ先輩が何かしたってことになるのか?
セイヤが当惑しながらナナミを見ていると、そこへ、崎杜が八雲主任と呼んでいた、例のおっかない女性師官が、無表情のまま、つかつかとナナミの元に近寄った。そして――
次の瞬間、パァンという音がフロアに響いた。
八雲主任が渾身の力を込めて、ナナミの頬を叩いたのだ。叩かれた彼女はよろめいてデスクに体をぶつけ、そのままそこに寄りかかるようにして項垂れて頬を押さえる。
そんな光景がセイヤの目の前で展開された。それを見た瞬間に、セイヤはもう自分の持ち場を離れていた。ナナミに駆け寄ると、殴られた頬を押さえたまま、動けないでいる彼女と八雲の間に割って入った。
「ちょっと、いきなり殴るなんて、酷くないですかっ?」
しかし、セイヤが抗議の声を上げると、逆に八雲から睨みつけられた。
「殴られるだけのことをしたのよ、この子はっ」
自分が正しいのだという信念に基づいて発せられた八雲の揺るぎない言葉は、大きな威圧感を伴ってセイヤを圧倒し、その声から最初の勢いを奪い去る。
「それでも……」
「いいのよ、霧月くん……私が悪いの」
ナナミが、心配させまいとしてか、無理やりに笑みを作って、セイヤを押し留める。そこへ更に、八雲の容赦ない声が降って来る。
「見習い風情が、余計な口を挟むんじゃないわよ。役立たずは、引っ込んでなさいっ」
「なっ……」
セイヤが八雲に圧倒されながらも、湧きあがる怒りの感情に、何かを言おうとした時、オペレータの声がそこに割り込んだ。
「予備電源、起動確認しました。あと10秒で、電源戻ります」
「システム、再起動、データの確認急いで」
八雲はそういうと、セイヤたちをそこに残したまま自分の定位置に戻っていく。彼らの存在などもう、眼中にはないとでもいうように、こちらを振り返りもしない。
「霧月くん」
背後から崎杜に呼ばれて、セイヤは我に返った。
「本番は、これからですよ。君は仕事に戻って。それから……穂凪主任補佐官、でしたか? 君は、医務室へ行って、顔を冷やして貰いなさい。もう、ここには、君の仕事はないでしょうから」
「……はい」
ナナミが項垂れて、崎杜の言葉に頷く。
――主任補佐官……なのか。それなのに、あんな扱いをされてるなんて。
上司に恵まれなかったという理由だけで片付けてしまうには、あまりに酷過ぎる。
「霧月くん」
急かすような崎杜の声に、ナナミを気にしながらも、セイヤは持ち場に戻るしかなかった。
ナナミは、慌ただしく動き始めたフロアを、誰にも気づかれないように身を小さく縮めながら、ひとりそこから出て行った。その後ろ姿は、セイヤの心に何とも言いようのない無力感を湧きあがらせた。今の自分は、ナナミ先輩のために何もしてやることが出来ない。ただ、目の前の仕事をこなすだけで精一杯で。情けない限りである。でも、それが見習いである彼の現実だった。
「バックアップ正常に作動、データの損傷はありません」
「全システムの再起動に、掛かる時間は?」
「動作確認を含めて……120分」
オペレーターの告げた数字に、八雲は絶望的な表情を浮かべて天井を仰いだ。
―― それじゃ、間に合わない。
軌道のズレの算出もまだ終わっていない。これだけ予報とのズレが生じたのだ。都市をリンクする刻印を一からやり直さなければならない。
普通にやっていたのでは、時間が足りない。移動させるコンテナを減数するにしても、限度というものがある。下手をすれば、50%を割り込む程の……
――どうする?
八雲は考えながら無意識に唇を噛む。
「刻印師室に繋いで……」
八雲が言うと、オペレーターが庁内回線を切り替えて、ヘッドセットを彼女に渡した。
「……広野刻印師長は?」
内線モニターの中に現れた刻印師官に問うと、しばらくお待ちくださいという声に続いて、画面が切り替わり、中年の女性の顔がそこに現れた。
「またトラブルだって? 要請の来ていた増員は、今、そちらに行かせた」
「ありがとうございます、広野師長。それで、大変申し訳ないのですが、この上更に無理なお願いをしなければならない事態が発生いたしまして……」
「そういう話なら、そちらの師長を通せ」
「こちらの師長、鏑木はサプタディヤーナに出張中なのは御存じかと思いますが」
「八雲主任。規則というものは、理由があって定められている。増員要請に応えた時点で、こちらが果たすべき責務は終わっている。後は、そちらの裁量で、与えられた駒を最大限に使いこなして事態に対処すればいい」
「……緊急事態だと申し上げております。どうか……」
「鏑木なら、与えられた駒だけで上手くやってみせるぞ。それとも、やはり、主任風情では奴の物まねすらも出来ないか?」
広野のキツイ言葉をただ受け止めて、八雲は画面に向かって頭を垂れる。
「……どうか。お願い致します……四宮キセキを、お貸し頂けないでしょうか」
「四宮キセキはイレギュラーだ。便利に使ってもらっては困る」
下げた頭の上から投げつけられたのは、拒否を示す冷たい言葉だった。それでも、八雲は頭を下げたまま、同じ言葉を繰り返す。
「どうか、お願いします……どうか……」
「いいじゃない、そんな意地の悪いことしなくても」
明るい穏やかな声が、頭の先から聞こえて来て、八雲は思わず顔を上げた。
「キセキ……」
画面にその姿は映っていないが、そこから、広野とキセキのやり取りが聞こえて来る。キセキは広野の傍で、今の話を聞いていたらしかった。
「困ってるんだからさぁ。力の出し惜しみとかって、どうかと思うし」
「私は、お前の、体の心配をしているんじゃないか」
「ああ、そんなことなら、今は、全然元気だから。ノープロブレム」
「しかしだな……」
「こっちの変な縄張り意識で、関係のない人たちが迷惑するって、上の人たち、もう少し考えた方がいいと思いますよ、僕は。五年前の時だって、それ…で…」
「キセキ……」
何かを言い掛けたキセキを、たしなめる様に広野がその名を呼んで、結局そこで、広野が折れたようだ。不意に通信画面が切り替わって、そこに四宮キセキの顔を映し出した。
「んじゃ、今から行くから」
「あり……がと……キセキ」
「安堵の涙は、全部終わってからね。ちなみに、作業可能時間は?」
「15分」
「うっは。凄いね、それで完璧に出来たら、僕、神様になれるかも」
言ってキセキが苦笑いした所で、通信が切れた。
「ごめんね。ありがとう」
誰もいない画面に向かって、八雲は改めて頭を下げながら、頭の中でキセキに対するお礼とお詫びの算段を始めた。
四宮キセキは、刻印師室創設以来の天才、と呼ばれるラインメーカーである。
普通の人間が一日掛かる作業をわずか数時間で終わらせる。それでいて、その計算にミスはない。任官2年ですでに、刻印師室の秘密兵器という二つ名を頂いていた。
ただ彼には、作業に夢中になりすぎて、オーバーワークしてしまうという悪いくせがあるのだという。誰かが途中でストップを掛けないと、いつまでも仕事をしている。揚句、体を壊しては病院のお世話になっているという。それで一時期などは、毎月、月の半分は入院していたというから、仕事に対する執着は病的ですらある。広野が彼を出し渋るのは、そんな理由があってのことなのだ。
――それでも今は。その力に頼るしかない。