第3話 エリートの聖域
タイムカードのレコードでは、ぎりぎり遅刻ではなかったが、地図師室に着くとすでに、見習いの教育官をしている崎杜師長補が、セイヤのデスクで待ち構えていた。
「お、はようございます……」
同じ研修を受けている同期の風花ミツバが、セイヤの姿を見つけるとたちまち眉間に皺を寄せる。
「おっそ~い」
「タイムカードを押した所で、力尽きちゃいましたかね」
そう言いながら、自分に向けられた崎杜のにこやかな笑顔は、嫌みなのか冗談なのか判断が付かない。
「いえ、そういう訳では……」
「セイヤっ」
ミツバが彼を睨みつけた。
「あ、っと。どうも済みませんでしたっ」
言って勢い良く頭を下げると、師長補の独特のゆるんとした気配と共に、
「始業十分前には、居て下さいね」
という言葉が届く。
「はい。済みません。明日から気を付けます」
ガミガミと怒鳴られる訳ではないのに、この師長補に言われると妙に堪えるのは何故だろうと思う。
「それでは、今日の実習の説明をします」
その一言で、セイヤはまたいつもの緊張感に包まれる。
「ご存じの通り、今日は、『予報日』です。よって、最終実習は、軌道予報室で行います」
――軌道予報室。
すでに予告はされていた。しかし、実際にその単語を聞くと、改めて身が引き締まる。
そこは、この世界の中枢である。世界を動かす、一握りの人間にしか立ち入ることが許されない特別な場所だ。
「君達には、実際に使われているシステムを使って、地図を描いてもらいます。まあ、システムの動かし方については、さんざん行ったシュミレーションと変わりませんから、それ程難しく考える事はありません。ただ……」
――ただ……?
「適度な緊張は必要ですが、緊張しすぎはいけません。過度の緊張は、平常心を奪い去ってしまいますからね。技術の未熟さよりも、精神の未熟さの方が、事態を悪化させる要因になるのだと、それだけは、覚えておいて下さい」
「「……はい」」
セイヤとミツバが声を揃えて返事をすると、師長補は二人を安心させるように穏やかな笑みを見せた。
「それでは、行きましょうか」
師長補がそう言って歩き出す。それに引率されるように、セイヤとミツバが続く。
「……う~何か緊張するよね」
ミツバがセイヤの袖口を引っ張って、ひそひそ声で言う。
「何だろう、ああ、そう……何だかこれ、予防接種を受けに行く前、みたいな感じしない?」
注射が怖いなんて、子供みたいだ。そう思ったら、自然と失笑が漏れる。
「お前、緊張感なさすぎ」
「だからっ、緊張してるんだって言ってんの」
自分が笑われたことに気付いて、ミツバの言葉が尖る。
「じゃ、手でも繋いでてあげようか?」
「ばっ……」
――その続きは、馬鹿野郎……?いや、こいつのノリだと、ばっかじゃないの……か?
果たして、セイヤの隣を歩く乙女の心の叫びの正解はといえば、
――ばっか、んなことしたら、余計に緊張すんだろうがっ!
だったりする。
霧月セイヤ、乙女心検定は残念ながら不合格。
「あんたのその緊張感のなさ、どうにかならないの?」
「緊張はしてるよ。いつでもね」
緊張はしている。ここにいる間はいつも。ここは、人の命を左右する場所だから。そんな風に言われて、気が抜ける筈がない。
「………」
「ん?」
いつの間にか、マジ顔になっていたセイヤをミツバが凝視していた。
「何だよ?」
「あ、いや……そんなシリアスな顔も……」
「するのか……? ったり前だろうが。こんなに勤勉な人間を捕まえて、緊張感ないとか言うお前が間違っている」
「勤勉な人間は、遅刻なんかしないのでは?」
「だから、遅刻じゃねぇって」
「レコード上はでしょ?」
「……だから……遅刻じゃ……ない……し」
何だか不毛な会話だ。
そう思いながらこの時、彼は帰りに目覚まし時計を買いに行こうと心に決めた。
一方の乙女……それは恐らく、『恋する乙女』。
その心の声。
――あ、いや、そんなシリアスな顔も、カッコイイ。とは、口が裂けても言えない。よな~~
どちらにしろ、両者、緊張感は良い具合にほぐれた様である。
【 軌 道 予 報 室 】
扉横にそう書かれたプレートを見て、セイヤは高まり掛けた緊張を、一度大きな呼吸をしてやり過ごす。崎杜師官補が腕のIDをスキャナーにかざすと、ピッという電子音と共に、扉が開いた。
まず目に飛び込んで来たのは、壁一面に表示されている無数のモニター画面。そこには世界中から収集されるさまざまな情報が、オンタイムで表示されている。部屋の中では数十人の師官たちがそれぞれの場所でコンソールを絶え間なく操作しながら、目の前のモニター画面を食い入るように見据えている。
セイヤは室内を一通り見回すと、壁面のモニターの一つに同じような画像が八つ並んで表示されている動画に目を止めた。それは、各都市に設置されている『ゲート』と呼ばれる巨大な物質転移装置のリアル画像のようである。先人が、多くの困難の末に作り上げた装置――これにより、オクトグランでは都市間で物資の移動が可能になったのだ。
――あの時。
セイヤはこのゲートのひとつで家族と離れ離れになった。
シャトゥラーラのゲートからポーラエーカへ送られた筈の貨客コンテナは、あるものは別の都市のゲートへ激突して大破し、あるものは恐らく亜空間に放り出されて、そのまま行方不明になった。破損したり、行方不明になったコンテナは数百にも及び、死者は数百人を数えた。
行方不明になったコンテナのうち、人を乗せていたものはふたつ。恐らくユノはそのうちのひとつに乗っていた。そしてこの事故は、オクトグラン有史以来、もっとも多くの犠牲者を出した大惨事となった。
その原因は、転移座標の計算ミスとも、都市の移動軌道の予報ミスとも言われたが、結局、原因の特定は可能性の域を出ず、最終的な発表でも、はっきりした原因は明言されなかった。
亜空間に浮かぶ都市は、不規則に移動を繰り返し、その位置を変える。それが特定の周期で、同じ位置に留まる時期がある。通常、ゲートの使用は、都市周辺の空間が安定するその時期に合わせて行われる。
その時期と、都市の留まる位置を膨大なデータ分析による計算によって割り出すのが、『軌道予報師』と呼ばれる師官たちである。
更に、その割り出された座標に合わせて、ゲートの転移装置の起動プログラムを構築するのが、『刻印師』と呼ばれる師官たちだ。
ちなみに、ラインメーカーという呼称は、彼らの作業によってモニター上に都市同士を繋ぐラインが書き込まれて行く様子から、そう呼ばれるようになったらしい。
都市のリンク予想図が完成した所で、セイヤたち『地図師』の仕事になる。
ラインメーカーの繋いだ都市それぞれの位置を考慮しながら、最も効率的な物資の移動方法を考えるのである。各都市から送られて来る物資のオーダー表を元に、物資を効率よく各都市に振り分ける。モニター上の地図に、物資を表す色とりどりのブロックを埋め込みながら、各都市に送る作業指示書を作成するのだ。
ところで、物資の移動が無事に終わると、古来からの慣例として、この時作成された地図は、アナログデータに変換され……つまり、手書きで紙に写し取られて、公文書館に保管されることになっている。文字通り、実際に地図を描く。だから、彼らは地図師という名で呼ばれるようになった。
その地図には、記録上必要なデータの他に、本来は必要のない装飾の類が描き込まれるというのも長く続く伝統で、地図師に絵心が必要だと言われるのは、実はそんな理由からだ。その装飾の腕も、地図師としての評価に影響したというのだから、昔の人は遊び心があったものだと思う。実際、そうして描かれた昔の地図には、今では芸術的な価値も付加される程に、絵画としても完成度が高いものが多い。
さて、こうしてフォアサイトによってはじき出された予報日までに、都市のリンクと物資の移動予定表は完成する。
あとは、その日時に、『門管理師』と呼ばれる師官たちが、ゲートを適切に操作して、指定された通りに物資の移動を行うだけだ。全てが予定通りに進行すれば、都市は次の予報日まで、平穏な日常を謳歌することが出来る。だが――
かつては当たり前のように、何事も無く行われていた、当たり前の行為。しかし、それは次第に、少しずつではあるが確実に、行う回数を重ねていくごとに、その精度が下がり始めた。始めは、数十年に一度の失敗だったものが、やがて数年に一度になり、今では年に数度という割合で頻発する。
フォアサイトのはじき出す都市軌道の予測に、毎回ズレが生じる。つまり、予報が当たらないのだ。その誤差は修正可能な場合もあれば、手のつけようのない誤報となる場合もあるという様にランダムに発生し、毎回、彼らの神経をすり減らしている。
そして、事の始めである予報が外れるということは、当然、それを元に行われる作業はすべて修正もしくは、やり直しということになる。
――今回は大丈夫か?
ほぼ二、三か月に一度といった割合に訪れる、その『予報日』。この行政府は特別の緊張感に包まれる。