第2話 絶望的隔離
図書館のエントランスに続く廊下を、セイヤは猛スピードで駆け抜けた。無論、本来は走ってはいけない場所なのだが、人がいないのを良い事に、遅刻回避のために最大限の努力をしているところである。幾つもの柱が、次々に背後に流れていく。
――18、17、16、……
走りながら、こんな時でも毎朝の習慣で、その柱の数をカウントしている。最奥の柱が30本目。そこから、入口に向かってカウントダウンを始める。
――14、13、12っと。
急がなければいけない筈の足が、そこで止まった。入口からだと丁度、12本目と13本目の間になる。柱の影になった壁に、少女の壁画が描かれていた。
「ユノ……行って来る」
セイヤの言葉に、壁に描かれた少女が微笑みで答える。いつもの様に、その笑顔を確認して、セイヤはそのままエントランスの回転扉を潜り抜けた。
その絵は、セイヤがここに来てまだ間もない頃に、妹に会いたい一心で描いたものだった。彼は、オクトグラン第六の都市であるシャトゥラーラから、父親の仕事の関係でこのポーラエーカに移って来る途中、事故に遭遇した。引っ越しの荷物も妹と共に行方不明で、元の家も引き払ってしまっていたから、彼の手元には写真の類など何ひとつ残されていなかったのだ。
身一つで助け出されて、ここ、第一の都市ポーラエーカの保護施設に送られた。その後、父の友人だったという、不動館長に引き取られてこの図書館に住むことを許されたのだ。
館長には、セイヤより二つ年上のハジメという息子がいた。セイヤは元々、人見知りをする方ではなかったし、友達を作るのも苦手ではなかったが、あまり人を寄せ付けたがらない性格のハジメとは、打ち解けるまでにだいぶ時間が掛かったのだ。だから時折、失ったものを思って、無性に寂しくなると、セイヤは人目を避けて、図書館のあらゆる隅っこに身をひそめた。
この柱の影も、そんな隅っこのひとつであったのだが、ある時、たまたま白く寒々しい漆喰の壁を指でなぞったところ、手が汚れていたらしく、そこに薄く黒い筋が付いた。何も考えずに、その白い壁に二度、三度と指を走らせるうちに、彼の指はいつの間にか、そこに妹の姿を写し始めていた。
その作業に無心になっていると、寂しさが紛れる気がして、彼はやがて木炭を持ち込み、そこにはっきりとした輪郭を描き始めた。そうなれば、そこに色を置いてみたくなるのは、もう自然の流れで、こんな所に落書きしたら、怒られるんだろうなと、そう思いながらも、次第にそこに浮かび上がる妹の姿に、作業を中断する決心も付かず……
コトが露見したのは、そこに美しい壁画がすべて完成した後だった。
その報告を受けた館長は、初めこそ呆れた表情を見せたが、その絵の出来があまりにも素晴らしかったので、絵は消されることなく、そのまま保存されることになった。そして、その出来事がきっかけとなり、館長は彼にひとつの目標を提示した。
ポーラエーカ行政府の師官――平たい言い方をすれば、役所の専門職になるのだが、そのひとつに『地図師』と呼ばれる職種がある。絵を描くのが好きなのであれば、それを目指してみたらどうか、と。
師官と呼ばれるスペシャリストは、都市屈指のエリートであり、簡単になれるものではない。だが、それもまたユノと再会する為に必要な過程なのだと言われれば、セイヤが挑まない理由はなかった。
そして彼は、『地図師』という称号を手に入れた。――今はまだ、その上に『見習い』という冠は付いているのだが。
しかし、それも今日で終わりだ――
今日の研修で、実務演習を終えれば、晴れて一人前の地図師である。
「っしゃぁ、行くぜぇっ」
駐輪場から愛車を引っ張り出して跨ると、気合いを入れてペダルを踏み込む。セイヤの愛車は緩やかな坂道をゆっくりと、そしてすぐに加速を得て、風を切って走り始めた。
ちなみに、それが自動二輪車ではなく、自然に優しい方の二輪車(要するに自転車)であるのは、この世界のエネルギー事情によるところが大きかった。
この世界――オクトグランと呼ばれるこの世界には、八つの都市が存在する。
それらの中核となる第一の都市。
全ての都市の行政を担う行政府が置かれているのが、このポーラエーカである。
全ての都市の中で、最も規模が大きく、人口も多い。残る七つは、産業プラント都市として、エネルギーの供給や、食料を始めとする様々な資源を生産供給する役割を担う。
記録によれば、千数百年の昔、このオクトグランは宇宙に浮かぶコロニー群だったのだという。それはもう、今では伝説に入る類の話になってしまっているのだが、かつて、ドゥルヴァという名の惑星に住んでいた人類が宇宙への足掛かりとして、その衛星軌道上に建設したコロニー。
実はそれがこの都市の始まりである。
無限の宇宙への旅立ちを夢見ながら人々は、ポーラエーカを核に、その周辺に花弁のように資源供給の為の産業プラント都市を七つ配し、宇宙に小さな希望の花を咲かせた。
しかし、彼らの希望に満ちた営みを思いもしない方向へ押し流す悲劇が、やがて起こる。原因は未だ解明されていない。空間の変異とでも呼べばいいのか、彼らの花は、突然にして他には何も存在しない亜空間に飲み込まれてしまったのだ。
気が付いた時には、都市は分断され、プラント群はどこかへ流され所在不明という事態に陥っていた。勿論、元の空間に戻ることも出来ず、母星であるドゥルヴァとの交信も途絶え、彼らは彼らだけの力で、そこで生きていくしかないのだという現実を付きつけられた。
――絶望的隔離。
歴史書を開くと、最初の項目に書かれているその言葉の経緯は、そんなところである。
その後、オクトグランの人類は、多くの時間と多くの人命を失ったのちに、ようやく、亜空間を不規則に移動しながら、さ迷っていた七つのプラントの捕捉方法と、そこへの移動方法を確立することに成功し、ポーラエーカの再建を果たした。
つまり、この世界は隔離された、閉じられた世界。
千数百年の昔から、限りある資源の総量は決まっていて、使い続ければ無くなるだけという現実の前に、エネルギーのリサイクル方法が、かなり早い段階で確立した。元々、宇宙空間において、完全自立を目指して作られたコロニー都市であったから、永久機関の類と物質の完全循環システムは配備されており、それがオクトグラン存続の命綱になった。
それでも、エネルギーの消費に関しては、多くの規制が設けられている。一般の人間に関して言えば、社会に対する貢献度によって、その配分量が決められている。その辺の事情を考慮すると、セイヤのような見習いクラスには自転車あたりが妥当だという結論に至る訳である。
軽快に自転車を走らせて、街の中心部へ向かう。人の数も建物の数も格段に増えていく。そして視線を上方に向ければ、そこにはもうポーラエーカ行政府の高層ビルが見えた。この世界の中心という、シンボル的な意味合いも持つその外観は、堅牢にして壮麗。見る者を例外なく圧倒する言い様のない威圧感を感じさせる。
――ここは、人の命を左右する場所だ。
任官式で師官章と共に授けられた言葉は、未だ緊張感を伴って、セイヤの中に刻みこまれている。自分たちがミスをすれば、それはそのまま、誰かの命を奪う結果を生むのだ。
かつて、自分が家族を奪われたように……
駐輪場に愛車を止めて、セイヤは改めてその入口の前に立ち、自分の上に圧し掛かって来るようなビルを見上げる。彼方に見える空は、今日は晴天の設定だ。光を孕んだその蒼さに、目を細めて正面に向き直ると、両手で頬を叩いて気合いを入れる。
「よしっ。今日も頑張るぞっと」
未だに、ここで気合いを入れないと、その緊張感に飲み込まれそうになる。半年に渡った研修も、もう今日で終わりだと言うのに。いつになったら自分は、この緊張感から解放されるのか。あるいは……解放されない方がいいのか。
いつも以上にナーバスになっている自分に、思わず苦笑いしながら、セイヤは入口に吸い込まれて行くスカイブルーの波に身を投じた。