第17話 八雲兄妹
久しぶりの休みに、ナナミは病院に来ていた。病気の発症が確認された人間は、定期的に検査を受けることが義務付けられているのだ。今回も特に問題なしの結果を貰い、休日の残りをどうしようかと考えながら、待合室で会計の順番待ちをしていた所に、カオルに声を掛けられた。
「お、今帰りか?」
「こんにちは」
「具合は大丈夫?」
「はい、問題ありません」
「それは良かった」
「カオルさんは、お薬ですか?」
「ん、まあね。ついでに、先輩のお見舞い……ああ、待ち人来たるだ」
そう言って、カオルがナナミに別れを告げる。カオルの姿を追っていくと、その先に花束を抱えたマドカが歩いてくるのが見えた。連れだって歩く姿は傍から見てもお似合いで、マドカは仕事中には決して見せないような女性らしい柔らかな笑顔を見せている。カオルに言われてナナミに気付いたらしいマドカは、そんな笑顔のままこちらに手を振った。ナナミは慌てて立ちあがって、軽い会釈を返す。
――二人、付き合ってるのかな。
その後ろ姿を見送りながら、そんなことを思う。
――俺と、付き合ってくれませんか。
書庫で抱き締められてから数日して、セイヤにそう言われた。
――一生懸命なんだよねぇ。それに、真剣で、真っすぐ。
その時の彼の姿を思い浮かべると、思わず笑みが零れる。それでも、その答えは保留にしてしまった。真っすぐ過ぎて、曖昧な答えは許されないと思ったから。自分の気持ちをきちんと整理してからでないと、その答えは出そうもなかったから。あんな話をしたから、同情したのかも知れないという気もするし……。今、自分の気持ちは、間違いなく全部、父親の方へ向いている。
――恋をしたら……
その気持ちが揺らいでしまいそうで。辛い境遇から逃げてしまいそうで、それが怖い。優しさで温められたら、気持ちが折れてしまう。……そんな気がしてならないから。まだ、決心は付かなかった。
マドカが病室に入っていくと、兄のユキトはベッドの上で本を読んでいた。
「調子はどう?」
「まあ、良くも無く、悪くも無くかな」
「そう。なら、とりあえず良かった。花活けて来るわね」
マドカはカオルをそこに残して、部屋を出て行く。
「御無沙汰してました、ユキトさん」
そう挨拶をして、カオルはベッドサイドの椅子に腰を下ろす。
「今は、あいつと一緒に仕事してるんだって?」
「ええ。何か上から遠大な課題を押し付けられまして……」
「いいなあ。面白そうじゃない、謎解き。俺なんか、毎日退屈で」
「お察しします……」
少しおどけて言うと、ユキトが笑う。
「たまには、お相手しましょうか?」
カオルが棚に置かれたチェス盤を指すと、ユキトの顔が嬉しそうに綻ぶ。
「カオル、お前、少しは、腕上げた?」
「上げましたけどねえ……師匠は強いですからねえ…おまけに、退屈しのぎに、毎日手筋の研究なさってるんでしょ?」
「そうでもないよ。……ああ、短路ルールでいいか?」
「ええ…構いませんよ」
「長引くと、集中力切れちゃうからね……」
ユキトが少し残念そうに言って笑う。
ユキトはカオルがゲートキーパーになった時に、指導官として付いてくれた先輩だった。カオルの研修が終わったすぐ後に倒れ、以来、入院生活を余儀なくされている。あの事故の時に、現場の後処理に関わったことがその原因になったのだろうという話だ。彼は、ゲートキーパーに義務付けられている発病のリスクを抑えるための薬を飲んでいなかったのだ。
――子供が欲しかったのだ、と。
ユキトは言った。
彼にはその頃、結婚を考えている相手がいた。薬には、生殖能力の低下という副作用がある。薬を飲み続けている限り、子供を作ることは出来ない。だから、実は転職も考えていたのだという。その矢先の事故だった。その後の人員不足で、辞める機会を逸し、そのまま仕事を続けていたことが、発病の要因になったのか……
それから二年して、彼は病に倒れた……
普通の社会生活と引き換えに、その後、ユキトは結婚して子供も授かった。その子供は生まれながらにして、発病のリスクを負うキャリアになるという。そこまでしても、その幸せが欲しかった――そんなユキトの強い思いに、カオルは圧倒された。
自分には、そこまでの覚悟はないから。マドカを手に入れるために、失うものの大きさに、怯まずにはいられない。自分はそんな弱い人間だ。そんな自分が、マドカを支える存在になどなれないと、分かっているから…。いつしか心のどこかで、逃げ出すタイミングを計っている。
ユキトが駒の数を半分にして、盤上に並べる。短路ルール、即ち、簡略ルールの場合、使えるフィールドは、天界と地上の二つ。こうすると、ゲーム時間が大幅に短縮できるのだ。互いに駒を並べ終えて、ゲームが始まった。
相変わらずユキトの配置には、攻め入る隙がない。
――一度、前線を下げて、フォーメーションを組み直すか……
長考の末、カオルが駒に手を伸ばすと、そこでユキトの声が掛かった。
「ここで逃げたら、全部、崩れるぞ」
「え……」
摘みあげた駒が中空で止まる。だが、咄嗟に他の手も思いつかずに、考えていた場所へ駒を置くしかなかった。
「ほら、ここに付け入る隙が出来た。で、ここをこうして、こうすると……」
「うげ……」
「な。チェック」
「相変わらず、容赦ないですね……」
「お前はさ、体裁とか気にしすぎなんだよ。自分のみっともない姿とか、人には見せられない性質だろう」
「……そうですかね」
「……辛いぞ、そういうのは」
「……」
「マドカはさ、強い女だから。おまえぐらいちゃんと支えてくれるぞ」
「ユキトさんっ」
不意打ちに狼狽するカオルをよそに、ユキトは畳みかける。
「うん。だから、お前みたいなのには、絶対おススメ、お買い得」
――相変わらず、容赦が、ない。
「なに? 早速、始めてんの?」
そこへ花瓶を抱えたマドカが戻って来て、男同士の内緒話は強制終了となった。
「……あれ……何よ。もう負けちゃったの? カオル、よわっ」
「短路ルールだっての」
「にしても、早すぎ。なっさけない」
――たく、ホント容赦ないな、この兄妹は。
カオルは苦笑して立ち上がった。
「じゃ、俺は、これで……」
「あれ、もう帰る?じゃ、これから一緒にお昼行こうよ」
「お前は、もう少しいれば?」
「いーの、いーの。今日は届け物しに来ただけだし。じき、義姉さんも来る時間だし。じゃ、兄さん、またね」
「おう。お幸せにな~お二人さん」
「もう、兄さんっ」
これしきのことで、みるみる顔を赤くするマドカを、横で面白がって見ていると、いきなり腕を掴まれて、「行くよ」と、病室の外に連れ出された。
――これしきのことで……
顔が赤くなったりって、断じてない、筈だ。
そう自分に言い聞かせて、マドカを腕にくっつけたまま歩きだす。すると、下から、顔を覗きこまれるような視線を感じて、そちらに目をやると、マドカと目が合った。
「何だよ」
「うん……赤いよ、顔」
「ばっ、そんな訳……」
否定しかけた途端に、頬が火照った。
―― 玉砕。
「……かわいい」
そう言ったマドカの腕を勢いよく振り払う。
「帰るし」
「うわ~うそうそ、ごめん。待ってよ、お昼ごは~ん」
「……待って欲しいのは、俺なのか、それとも昼メシか?」
「カオルについてくるお昼ごはん」
「何だよそれは」
「二人で食べるのが嬉しいんじゃないの。鈍感っ」
「どんっ……」
「カオルは、私と一緒じゃ、楽しくないわけ?」
ないわけないのか。俺は――
――一緒は楽しい。
それで、答えは出たということになるのか。
「俺はさ……ユキトさんみたいには考えられないから、きっと仕事は辞められない……」
「何……いきなり……」
「お前は、それでもいいのか?」
吐き出すように言うと、マドカがふっと笑った。
「そっか……何か言われたんだ、兄さんに。ごめんね、私、ちょっと愚痴こぼしすぎてたかも……で? いいって言ったら、どうにかなりそう?」
「……いい……のか……?」
「私は、あなたが尊敬する、ユキト先輩の妹なのよ?」
ゲートキーパーがどういう仕事なのかも、カオルが自分の将来について、負い目を持っていたことも、端から承知している。それでも、マドカが寄りかかりたいと思った相手はカオルだけなのだ。側にいて欲しいと思ったのは。
「そんなことが気になるぐらいなら、最初から、ゲートキーパーになんか惚れないわよ」
「……どうしよう……もの凄く……嬉しい」
「ばかね」
少し照れたように笑って、マドカはフロアを先に行く。そして少し離れた所で振り向いて声を掛ける。
「早くしないと、席埋まっちゃうわよ」
自分も寄りかかっていいのだと、そう言われたことで、こんなにも気持ちが軽い。
――一緒は楽しい。
今は素直に、それが嬉しい。歩く速さをあげて彼女に追いつくと、その思いを伝えるように、初めて手を繋ぎ合わせた。




