第1話 図書館に住む少年
――ここには、この世界のすべての知識がある。
その知識を読み解き、世界の理を見つけ出すことが出来れば。
あるいは……お前は、お前の求めるものを手することが出来るかも知れない。
「……本当に?それが見つけられれば、俺は妹を、ユノを探し出すことが出来るのか?」
――知識を読み解くには、自らも知識を身に付けなければならない。だが、今のお前には、まだまだ学ばねばならぬことが多いな。
「そういうことなら、たった今から、心を入れ替えて勉強するっ。それでユノが見つかるっていうんなら、俺は……」
それは、五年前の出来事。
年に数回しか設定されていない雪の日のことだったから、そのやり取りは、未だ鮮明に彼の記憶に残っている。おまけに、彼はこの日、生まれて初めて雪というものを見た。だから、なおのこと。その始まりの日のことは忘れない。
その日から、『そこ』が彼、霧月セイヤの家になった。
そこ――それは一般に『図書館』と呼ばれる場所だった。
「おはようございます」
いつもの時間――つまり、始業三十分前。
いつものように紺のブレザーの制服に、長い黒髪はきっちりと結い上げた格好で、うっすらと、でもしっかりと化粧をした顔で、二妃クルミは図書館の事務室に入って来た。
「ああ、おはよう」
不動ハジメは、淹れたばかりのコーヒーに口を付けながら、パソコンで今朝のニュースをチェックしていた目を、一瞬だけ彼女の方に向けて挨拶を返した。
ハジメの気のない様子に、クルミは軽くため息をつくと、自分のデスクに座って今日必要な書類を並べながら、その内容の確認を始めた。
――ルージュがピンク系から、淡いローズレッドに変わったか。グロスは1割増しってとこだな。制服も、一見、きちんと着ている様でいて、スカートの丈が微妙に短くなってる、と。
いつものように無表情でパソコンの画面をスクロールしているハジメの口元が、わずかに緩んだことにクルミは気付いていない。
――つまり、誘ってんのか……健気にも。
まあ、そういうのは嫌いじゃないから……たまには、ご機嫌を取っておくか、と思う。
「クルミ、ルージュの色、変わった?」
モニターごしにそう声を掛けると、どこかつまらなそうにしていたクルミの表情が、一瞬で明るくなった。
――分かりやすっ。
思わず噴き出しそうになったのを、ハジメは慌てて口元に手をやって誤魔化す。
「うん。少し大人っぽい雰囲気にしてみたの……」
「ああ、そっか、今日、誕生日だったよね?」
そんなデータは勿論、きっちり頭に入っていたが、ハジメは、さも今気付いた風に言う。
「じゃあ、今日は、仕事の後、彼とデートとかなんだ?」
「いえ……そういう予定は特に……ありません……けど……」
――けど?
クルミはそこで言葉を切って、ハジメの顔を見た。その顔には、誘ってくれないかな、と書いてある。
――まあ、そういうことなら。ご褒美にアメをあげないこともないかな。
「じゃあ、今日は昼、外に食べに行こうか?」
「うんっ」
そんなにあどけない笑顔を見せられると、微妙に罪悪感を覚える。まだまだピンクが似合う年頃なのに、そんなに背伸びをしなくてもいい……まだ十九で、たいてい実年齢にプラス五才してみられる自分に合わせて、そんなに急いで大人になることもないと思う。
――お前はまだ、そのままの十八でいい。俺は多分、その方が嬉しい……
「じゃあさ、その代わりに……と言ってはなんだけど、上で眠り呆けている奴を起こしてきてくれない?」
「って……ええ~?」
可愛い顔があからさまに不満の色を浮かべる。
「私は、セイヤくんの目覚まし係じゃないんですよ~。もうっ。十七にもなって、立派な社会人のくせに、なんで朝一人で起きられないんですか~」
「う~ん。なんでだろうねぇ。毎晩遅くまで、書庫に籠って本を読み漁ってるせいかなぁ……」
「信じらんないっ」
「お昼、特別おいしいお店に連れてってあげるから、ひとつお願いされてくれない?あいつ、今日、師官の見習い研修最終日なんだ。遅刻すると、見習い卒業できないかも知れないし……ね、クル~ミちゃんっ」
「……分かりました」
クルミは渋々ながら立ち上がると、部屋の隅に置かれていたハンドベルを手に事務室を出て行った。
しばらくして、館内に盛大なハンドベルの音と、セイヤの叫び声が響き渡った。そのタイムラグから察するに、クルミの移動速度が尋常でなかったことが伺える。そのイライラの矛先を全て向けられたセイヤには同情を禁じ得ないが、そこは自業自得なのだ。仕方がないで済まされる話だったことにしておこう。
そう思いながらコーヒーを口に運んだハジメは、それがぬるくなってしまっていたことに気付いて、顔を顰めた。
セイヤは五年前から、この図書館に住みついている。
いや、棲み付いている、と言った方がいいのかも知れない。
五年前、ロクに読み書きも出来ない子供だった彼は、ハジメの父である不動シュウヤに引き取られた。その少し前に、事故で両親を亡くし、妹と生き別れたのだと聞いた。
シュウヤと彼との間に、どんなやり取りがあったのかは知らない。だがその日から、学者でもあるシュウヤの手ほどきを受け、彼は目を見張る様な勢いで勉学に勤しみ、行政府直轄の養成学校に入学を果たしたのみならず、かなりいい方の成績でそこを卒業した。そして、このポーラエーカではエリートコースとされる、行政府の四つある師官職のひとつに合格した。
ハジメの父の肩書きは、ポーラエーカ行政府公文書館館長である。
つまり、この図書館は行政府の公文書を収蔵している図書館であり、この世界――オクトグランの有史以来、千数百年に及ぶ膨大な歴史資料の保管庫でもある。当然のことながら、一般には公開されておらず、学者と呼ばれる職種の者にのみ、厳しい閲覧規制を設けた上で公開されている。もちろんそれも、所蔵する資料のわずか数パーセントに過ぎない。
そのわずかに公開されている資料の置かれている書庫を、寝袋と懐中電灯をお供にして、セイヤは順繰りに巡って中の資料を読み漁っているのだ。数パーセントとはいっても、それでも書庫の数は相当なもので、彼は数年掛かって、ようやく二つ目の書庫に辿り着いたところである。
――俺は、この世界の理を見つけなきゃならないんだ、と。
到底正気とは思えない理由を掲げて、毎夜、本を枕に眠る酔狂な……弟。義理とは言え、自分の弟になったこの少年の性格が、ハジメには今ひとつ理解出来ていなかった。
ただ、別の理由で、時折書庫を探索するハジメにとって、彼は少し厄介で煩わしい存在だった。
――俺の邪魔だけはしてくれるなよ。
俺たちがいつまでも、仲のいい兄弟でいられるように。
行政府師官のスカイブルーの制服の上着に手を通しながら、目の前の廊下をセイヤがあたふたと走って行く。クルミの開幕ベルから、十分もたっていない。
「一体、どこまで時短記録更新するつもりなんだろうね……」
そんなハジメの声が聞こえた訳でもないのだろうが、セイヤが思い出したようにこちらを振り向いて、笑顔で手を振った。
「急がないと、遅れるぞ」
大きな声でそう言ってやると、たちまち血相を変えて飛び出していく。
そんなに本が好きなら、司書にでもなれば良かったのだ。この俺の様に。しかし、そうなったらなったで、自分はやはり鬱陶しく思うのだろうなと思い、ハジメは苦笑する。
――だからなのか。
セイヤは、相手との距離の取り方を心得ているのかも知れない。自分が司書になったら、ハジメが良い顔をしないだろうと、そう思ったのか。そこは養い子ゆえの遠慮なのか。それは分からない。ただ、自分はセイヤという弟の存在を掴みかねているのに、一応は兄である自分が、そんな風に見透かされたのかも知れないという思いは、ハジメの気分をいささか重くした。