紅の海戦 2
キールが話した作戦を聞いたベルトーネはおおいに驚いた。そして少し裏返った声で「それは運任せではないか?」と言った。
「そのレーダーが使い物にならなくなる瞬間を狙えば有利になるかと」
それに、とキールは続けた。
「大昔は予測できなかったこの現象、今ではいつどこで発生するのか予測がつきます」
「そうか、少尉はその予測ができるというのだな?」
特に感情を込めずに頷いた。
「しかし気象予報士みたいだな。退役したら気象庁にでも勤めるつもりか?」
ベルトーネにしたら軽い冗談だったのかもしれないがキールはそれでもいいかなと本気で思った。海を制するには空の助けが必要だなどというぼんやりとした理由で身に付けた知識なのだがここにきて即興で役に立ったようだ。
他にも小艦隊をさらに二手に分けて攻略しようだとか進言したが上官の耳にはあまり入っていないようだった。大きな情報を聞くと小さな情報をないがしろにする人間なのだ。キールにしてみればこの細事の方が重要なのだが。
ベルトーネは満足した様子で下がるようにと命令をした。それに従ってキールは心なしか速足で司令室から出ていった。卑しい上官と同じ空気を吸いたくはない。どうせなら「この島を攻略するには貴方の犠牲が必要なのです!」と熱弁して海に飛び込ませればよかったのかもしれないがそんなことを言う勇気もない。また自分の功がこの男に吸い取られるのだなと考えると口を押さえていてもため息が出てしまうほどだった。第一呼び出すにしても遅すぎる。十余時間程度でもう着いてしまうのだぞ。
「それ、殴っていいだろ」
一連の横取りを甲板にいるクラウディオに話すとあっけらかんとそう言ったが、もちろんそんなことができるはずもない。彼なりのいつもの冗談だ。
「いつもニヤついてて腹が立つなとは思ってたんだ俺も」
「誰かもっと上の人に密告すればいいんだろうけど不運なことに信頼できる上官がいなくて」
「そうだな。泣き寝入りってやつだ。もう二回目……いや今回で三回目なのか」
茶色い髪を掻きながらクラウディオは呆れたように言った。
「お前、そういうことはもっと早く人に言えって」
「そうなんだけどね」
「頭は悪かねえんだからよ。もっと海以外にも考えろって。人と魚どっちが好きなんだ」
「クラウディオを殺してクエが獲れるならクエを選ぶかな」
「お前はそういう……まったく」
これはキールなりのいつもの冗談だ。他の人間に対してはこんな軽口など叩かない。それはクラウディオも重々承知している。
しかしこのまま黙っているのも自分のために良くないだろうとキールはようやく思い始めたので、どうにか軽い仕返しができないかを考えてみることにした。そう言えば陸にいるときに読んだ北方小説で気に入らない主人を殺した平民の労働者が登場したが、あれは主人の食事に遅効性の毒を少しずつ盛っていた。主人には毒見役がいたので即効性では食事を口に運んでもらえないと予見したらしい。結末としては主人も毒見役も身体が弱り死んでしまうのだが、無関係な毒見役までも殺してしまった労働者は悔恨の後に自ら命を絶ってしまう話だった。自分だったらケーキに一つだけ乗った苺に毒を入れるのにと読んだ当時は思ったものだ。毒見役にも食べられたくないだろう。
陰と陽は仲が悪いが小説や絵画、音楽などの文化に関しては交流を続けている。陰の国の小説……北方小説は貴族流の華やかな生活を描いたものが多い一方で近年は自然主義的なものも増えてきている。たぶん小説を書く余裕のある文化人階級の人生があまりうまくいっていないのだろうなと適当に憶測しているが実際はよくわからない。陽にも小説はあるのだが展開が平易であまり面白くない。もともと同じ国だったはずなのに地域差が出てきているのが不思議だ。
そろそろ夕食の時刻だということを思い出したので食堂に向かった。食堂にはベルトーネの姿も見えた。今手元に毒があれば試しに食事に入れてみてもいいかもしれないと少し思ったが現実には毒などなく、ただその咀嚼するたびに発せられるくちゃくちゃとした音を聞くしかなかった。その後に作戦の説明がベルトーネによって行われたが、あまりにも運任せに見えるその策にキールとクラウディオ以外は目を見開いて驚愕の声を上げた。
そして夜が明けてからキールの読み通りの事態になった。彼が乗っている巡洋艦のレーダーが使い物にならなくなったのだ。随伴艦のレーダーまでも機能しなくなった。十数年周期でこの現象、太陽嵐が発生するらしい。太陽嵐が起こる場所はもっと大仰な機械で磁場を観測しないとわからないものなのだがこの島は太陽風の影響を受けやすい位置にあるらしく、電磁波が乱れやすい。過去にも何度か停電が起きただの機械が動作不良を起こしただの記録に残っている。そのようなポンコツ島を手放さないのは南と北をつなぐ数少ないルートだからだろう。偶然か否かはわかりかねるが、偶然この時期にこの作戦を立てた上層部に感謝せざるをえない。
機能停止を確認した後に脱出用ボート二隻にキールと他十数名の兵卒が銃火器を持って乗りこんだ。ルージュ島一帯では潮の流れが激しいがゆえに座礁の危険性があるため軍艦が容易に近づけない。しかし寒流にゴムボートを浮かべれば島の警備が薄い西側の崖に流れ着くのだ。相当な荒波に揉まれることになるが軍艦はこの強い電磁波のため動けない。レーダーにも映らず小さいため目視されることもほとんどないだろう。海流に任せて行けば大丈夫だとキールは確信していた。
「待て待て待て」
慌ただしくクラウディオがボートに駆け寄ってきた。
「もう一人くらい増えても大丈夫だろう? ついでに俺も入れてくれ」
ちゃんと許可は取ったと口早に付け加えた。きっと何か同乗したい意図があるのだろうとは思ったが特に詮索せず乗せることにした。
想像を遥かに上回る荒波だったがどうにか搭乗員は全員耐えて西岸にたどり着いた。もう太陽嵐は止まっている頃だろう。どうにか頑張って崖を登りきり、二つのチームに分かれてそれぞれ北と南の補給港を奇襲した。いくら陰軍でも奇襲には弱かったようでそれなりに負傷者は出しながらも拠点の制圧には成功。東側もそれに伴い降服し、かくして陽軍はルージュ島を手に入れた。