紅の海戦 1
眼前に在る青々とした海から険しい風が吹いてくる。その海には四隻の軍艦が走っていた。巡洋艦の甲板に佇むキール・ズダーノフは風に危うく飛ばされかけた軍帽を被り直した。
この海の南方にはキールが所属する陽の国がある。およそ三十年前までは世界の全土は陰の国に支配されていたが、北方少数民族出身の武官であったオスヴァルト・サールグレーンによって陽の国は建国された。陰の国は皇帝を絶対君主とした貴族制社会である。平民に圧政を強いて自らはのうのうと豪奢な宮殿で茶を飲んでいる絵に描いたような悪政を行っていた。もっとも陰の建国者は聡明な為政者だったと言われているが、時が経つにつれ朝廷の腐敗が進行してきたのだ。
そのような現状に嫌気が差した平民出身の将校たちが度々陰に対して反乱を起こしたのだが、それを鎮圧してきたのがサールグレーンである。サールグレーンは反乱のたびに八面六臂の活躍を重ね、ついには陰国の軍事最高顧問まで上り詰めた。
また、戦術・戦略の才を持つだけでなく正義感が強い仁徳者であった。彼としても朝廷の腐敗っぷりは目に余ったようで、どうにかして内閣上層部の刷新をできないか考えていたようだ。その様子を見た彼直属の副官が「貴方が新しい君主になればどんなに良いか」とぼやいたという。それを真に受けてか、自分に賛同する者を集めて朝廷に対し計画的かつ確実性の高い反乱を計画し、行動に移した。周囲の者はサールグレーンのような支配者を求めていたのであろう。陰軍のおよそ三分の二がサールグレーンに付いて朝廷を攻撃し始めた。結果として南側の大陸から陰の官僚を全て追いだし共和制政治を行う陽の国を建国した。サールグレーンはその大統領となった。陰に忠誠を尽くした将がいまや敵対勢力の建国者とは皮肉なものである。
そのサールグレーンは現在すでに亡くなっている。キールが生まれる前の昔話だ。サールグレーン大統領の後継は彼の副官だったベン・ダンヴィルに選挙で決まった。
「いつも風が吹いているな、ここは」
友人であり同僚のクラウディオがキールの方へ歩きながらそう呟いた。
「『紅の海』はこの時期北風が強いんだよ。あと一カ月もすれば風は反対を向くんだけど」
「海オタクが言うんならそうなんだろう」
もともとキールは大陸西側の港町の出身で海には慣れ親しんでいた。潮の満引きや流れを知るのが楽しいとこぼしてからクラウディオがたびたび「海オタク」とからかってくるのだが、まんざらでもなかった。
海が好きなので父親の後を継いで漁師になりたいと思っていたが、陰と陽の抗争が悪化したせいで漁獲高に影響が出てきてしまったのだ。そこで自分が海軍に士官して海の平和を守れば良いだろうという安易な幼心で海軍兵学校に入学し、そこそこの成績で卒業できたため現在少尉としてこの巡洋艦に乗っている。安易な気持ちで兵学校に通ったが、訓練はキツいし生活も規則正しいし卒業してからも給料は低いのに雑用は多いし覚えることが多いしで自分がマンボウだったらストレス過多で死んでるなと心の中で笑うほどだった。ただし航海術や兵術、運用術の勉強は好奇心を満たした。そこだけが兵学校に通って良かったと思える数少ない点だった。
「そういえば少佐が呼んでるぜ。司令室に行けよ」
「え? い、行きたくない」
「行きたくなくてもこの船の上じゃ逃げられないからな。いずれ捕まるから速く行け」
「今大物が掛かってるから行けませんって伝えておいてくれないかな」
「お前、この巡洋艦に釣り道具が積まれてると思ってるのか? 軍人だろ、さっさと行け。見たところ怒ってる様子はなかったぞ」
キールは深くため息をついて軍帽をかぶり直す。別に上官を畏怖して足が重いわけではない。以前にも同じようにベルトーネ少佐には呼びだされたことがある。
まるで軍人とは思えないその覇気のない足で司令室へと向かう。空元気を出して司令室の中へと入った。部屋にはベルトーネ一人しかいない。彼はキールの姿を見た瞬間にまるで主人が久々に帰ってきた犬のような顔をした。
「お呼びでしょうか、少佐」
何がお呼びでしょうか、だ。用件はアレに決まっている。
「おお、ズダーノフ少尉。よく来た」
嫌な笑顔だ。ベルトーネはキールより八つほど年上である。カールがかかった黒髪を触りながら彼はこう続けた。
「実はこの任務の作戦を考えてもらいたくてな」
想像通りだった。実は前回の任務にも同行したのだが、その際も同じことを言われたのだ。前回は陰軍の補給艦を叩く任務だったのだが、その際も大まかな作戦はキールが立てた。大まかどころではない、割に細かいところまでキールが立案した。
ベルトーネは自分で考えることをしない男であった。部下に戦略を任せ、うまく事が進めばさも自分が作戦の発案をしたかのように功を横取りし、失敗すれば部下がどうしてもこの方法を使えと言ったなどと主張し罪をなすりつけるこすからい性格だ。もうすでにキールは三回ほどこの男のために功を譲っている。これが正当な評価をしてくれる上官であったら今頃昇進していただろうにと思いを馳せずにはいられなかった。
「『紅の海』の南方六百キロほどにルージュ島なる小島があるだろう? 聞き及んでいるとは思うが今回の任務はその小島の占拠だ」
現在陽軍は陰の国に攻め入る準備を着々と進めているが、補給地点が圧倒的に足りない。そこでまずは敵の補給地点を数か所占拠する作戦に入ったという説明は昨日も受けた。
「どうすればいいかね?」
あまりにもストレートな問いにめまいがした。「君はどう思う?」などではなく「どうすればいいかね?」と聞かれてもこちらも困る。
司令室に掛けられている地図を眺めながらキールはいやいやながらも思索を巡らせた。ルージュ島の補給港は二か所、北と南、それから東にある。西側は小高い崖になっている。今は臨海の『橙の海』で小競り合いが発生しているためルージュ島は手薄だと考えられるが、いくら手薄でも砲撃は仕掛けてくるだろうしこのような小規模艦隊で落とせるわけがない。もっと人員を割いてくれ。
「考えがないことはないのですが……」
危険度は高いが方法がないわけではない。ただそのために必要なものがいくつかある。
「脱出用ボート二隻と、兵術と武術に長けた兵士を十数名のご用意をお願いします」
小説書き慣れないんですごめんなさい…。コツコツ続けていけたらなーと思います