真剣勝負(1)
その日から、私は猛勉強を開始した。今までも抜かされたくない思いから、勉強は毎回必死にやってきた。けど、今回は訳が違う。絶対命令が条件にあるのだ。負けるわけにはいかない。
塾や家にいるときはもちろん、通学時、学校にいるときも教科書かノートを開いていた。毎日予習復習は欠かさない。それが私の勉強スタイルだった。塾でやったところばかり勉強していても、授業でやった範囲を勉強しなくちゃ、意味ないものね。
この日も朝早くから学校に来て勉強していると、ふと教科書に影が落ちた。
「ぎゃ!」
顔を上げてぎょっとする。かなりの至近距離で真美が私を見ていた。真顔でじっと見つめてくるから余計に怖い……。
「なんて声出してんの」
そう言って呆れながらも、真美ちゃんは視線を逸らさない。お願いだからそれやめて。
「真美ちゃんがびっくりさせるから!」
「さっきから呼んでたのに気が付かなかったのはそっちでしょ」
「そうなの?」
全然気が付かなかった。いつもは勉強していても、声を掛けられたら絶対に気付くのに。
真美ちゃんは立ったまま中腰で私の机に頬杖を付くと、言った。
「なーんか最近変よねぇ?」
「な、なにが」
「そんなに勉強頑張らなくても、美代子ならまた一番でしょ? そこまで張り切るなんて何かあんのかなと思って」
「ほら。一年のときと比べて試験の範囲も増えてきたじゃない。だから頑張っておかないと」
しどろもどろになりながら言い訳をする。
友達である真美ちゃんにも、荒川との勝負のことは隠しておきたかった。荒川に乗せられて本気になっただなんて思われたくないし。ただ、真美ちゃんは鋭いから、いつばれてもおかしくはないのだけれど。
まだ怪訝そうにしていた真美ちゃんだったけど、最終的には納得してくれた。
「ふうん。まあ、二年になって進路決める人もいるからね」
「そうだよ。抜かされる前にもっと勉強しておかなきゃ」
「それで、美代子はもう進路決めたの?」
「いや、まだだけど……」
「国立は行けるんじゃない? 危ないのは私のほうね」
危ないと言っても、彼女は頭は悪くない。成績も真ん中より上だ。むしろ私より頭が切れるところがある。勉強とはまた別のところで冴えている人なのだ。
そんな真美ちゃんが進路のことを気にしているなんて意外だった。いつも飄々としていて、進路のことなんて、自分に合ったところをさっさと決めてしまうと思っていたのに。やっぱり自分の一生に関わることだから、真剣に考えて当たり前なのか。
それにしても、真美ちゃんは私立に行く気はないのだろうか。中高大と一貫のこの学校にも一応大学はある。ただ、内部から行く人はあまりいないけど。
「真美ちゃんって、国立狙ってたっけ?」
「いや、べつに」
「じゃあ、もうどこか行きたい大学決めてるの?」
「それも特には。まだ自分が学びたいことも分からないのよ。でも、分からないからこそ選べるようにはしておきたいじゃない」
それもそうか。
私は成績順位のことばかり考えていて、自分の行きたい大学はおろか、学びたいことも考えたことがなかった。真美ちゃんのように、ちゃんと学びたいことを考えてから大学を選ぶのが、普通なんだよね。
私は自分が目指しているものがなんなのか、急に分からなくなってきた。
「これから受験シーズンだし、どんどん追い抜かされていくわけじゃん。だったら私も美代子を見習おうかなって」
「塾でも行こうかな」と呟いた彼女に苦笑する。塾も家庭教師も付けていない真美ちゃんが、本格的に勉強を始めたら、私でさえ危ないような気がする。
「最近変と言えばもう一人いるけどね」
ふと零した真美ちゃんの一言に我に返った。いったい誰の話をしているのかと疑問に思っていると、真美ちゃんが顎をしゃくって言った。
「荒川が来てる」
「え?」
その言葉に思わず聞き返してしまった。
だって、そんなはずはない。いつも遅刻ぎりぎりに来ている彼が、ちゃんと授業前――それも、三十分前に来ているだなんて。そんなことは奇跡でも起こらない限り無理であると思われていた。でも、実際彼はここにいる。教科書を開きながら――。
その様子に、教室にいる皆が訝しんだ。
「熱でもあんのか?」
「さあ。急に目覚めたんじゃない?」
「目覚めたってなんだよ」
「分かんないけど」
教室にいる皆が好き勝手に噂をしているにも関わらず、黙々と勉強を続けている荒川。それを見た真美ちゃんも不思議そうに首を傾げている。
「どういう風の吹き回しなの? 教室で勉強だなんて」
「さ、さあ」
しらを切りながらも、内心はびくびくしていた。荒川は人目につくところで勉強をしたことがない。授業中も大半は寝ている。それはつまり、今までの成績は、家での自習勉強で保たれていたということだ。それが場所も構わないほどに勉強に身を入れ始めたのだ。成績が上がらないほうがおかしい。
いや、まさか。まさかね。
荒川の様子を見て不安になっていたときだった。
「天沢さん。ちょっといい?」
今までなら、絶対に私に話しかけてこないような女の子が二人。好奇心に満ちた瞳で話しかけてきた。
「どうしたの?」
「あのさ、荒川と競ってんの?」
「えっ!?」
いきなり核心を突かれて動揺する。
「二人とも同じタイミングで急に猛勉強しだすんだもん。競ってるかと思うくらい」
「やっぱり天沢さんも荒川のことライバルだとか思っていたりする?」
二人が身を乗り出す勢いで訊いてくる。真美ちゃんは助け舟を出す素振りもなく、興味なさそうに見ていた。
「いや、そんなことは……ないけど」
「なんかさ、今回は天沢さんに負けられないとか言っちゃってんの。馬っ鹿だよね~。勝てるわけないってのに」
そう言いながらも、彼女たちからは荒川が勝つことに期待している様子が読みとれた。馬鹿だ馬鹿だと言われてはいても、皆から愛されていることが窺える。
ふいに、怒りが沸々と沸き上がってきた。
これも荒川の作戦? プレッシャーをかけにきたってわけ? 信じられない。
勝負をしていると疑われたんじゃ、教室で勉強もできないじゃない。いちいちやり方が卑怯なのよ。
私は余裕の佇まいで勉強をしている荒川を睨みつけた。が、あいつが私の視線に気づくことはなかった。