償い
病状など全て想像で書いているので、なにかと矛盾点もあると思いますが、生暖かい目で見ていただけたらなと思います。
「・・・・・・もう、ここでいいわ」
きゅ、と止められる車椅子の音が鼓膜に響くと同時に男が目の前に跪いた。
「わかりました。では、私はこれにて」
そう言って優しげな笑みを浮かべて去っていた男を見送ることなく車椅子を操り、講義のある会館へと向かう。
多分、男は私の姿が見えなくなるまで見送っていることだろう。
そう思うのに、振り返ることはしなかった。
――全ては、愛が存在しない関係だから。
* * *
あれは、私がちょうど高校に入学した頃のことだった。
いつものように学校に登校している途中だった私に、どん、と鈍い音を立てて何かがぶつかった。質量やぶつかった感じからすると、これは。
そう思ったときにはもう遅くて。
ナイフを構えた中年の男が私に腕を回し、ものの数秒で拘束した。
「こ、この女を傷つけられたくないならお、おとなしくしろ!」
男が声を張り上げたその先には、20歳代後半くらいの若い男が佇んでいた。
私は精一杯腕に力を込めたが、ほんの少し動かすことすらできなかった。
――どうして私なの?
必死に思い出そうとするけれど、やはりこの男に見覚えはない。初対面のはずだ。
ふと、若い男に視線をやった。
――待って、この人は確か・・・・・・。
記憶を手繰り寄せて、ようやくその青年が友人の木崎夏美の兄だということを思い出した。
ということは――!
私がある仮定にたどり着くのとほぼ同時に、男が背後で大声を出した。
「おい、木崎! この女はお前の妹だろう!?
妹を傷つけられたくないのなら、俺の要求を呑め!」
男の震える声を聞いても、木崎は表情一つ変える事はなかった。
それもそうだ、私は夏美じゃない。
木崎は無言で、ひたすら私達を眺めていた。
それは酷く奇妙な状況だった。周りはこれ以上ないほど混乱に包まれているというのに、当事者はまるで時が止まっているかのように身動きすることはなかった。
ふいに、木崎が笑いを零した。しかし、すぐにその表情は消え、悲痛な表情に切り替わった。
そのあまりの変わり身の早さに、一瞬哂ったのは嘘かと思うほどだった。
しかし、その言葉は。
「待ってくれ、その女は確かに妹だが、要求を呑むことはできない!」
「どうし、て」
私は夏美じゃなくて、奈月なのに、ああでも、夏美を危険な目には遭わせられない、
でも、でも・・・・・・!
私は、夏美の身代わりにならなきゃいけないの・・・・・・?
「ふざけやがって・・・・・・!!」
熱い痛みが、全身を覆った。
男は持っていたナイフをいきなり私の背中に突き刺したのだ。
私は崩れるように倒れこみ、そのまま意識を失った――。
* * *
「ああ、お目覚めですか」
目が覚めると、私を夏美によく似た男が覗き込んでいた。
私は起き上がろうとしたけれど背中に鈍い痛みが走り、そうすることはできなかった。
男は優しげに目を細め、そしてドアのほうへ歩いていった。
「どこ、へ・・・・・・?」
「お医者様をお呼びします。どうぞ、楽になさっていてください」
男は私に笑いかけ、そして出て行った。
最初は混乱していた頭がだんだん覚醒してきて、私の身に何が起きたのかを正確に思い出した。
――どうして、私を夏美の身代わりにした張本人がこの場所にいないの?
私は今まで感じたこともないような怒りを、コントロールできなくなっていた。
男が医者を連れてこの部屋に入ってきた時には、もう限界だった。
「どうして、あの男がいないのよ! 私にまず謝るべきはあの男でしょう、なのにどうして・・・・・・!」
「落ち着いてください、今説明しますから!」
「どうして落ち着いていられるっていうの!」
枕を男に投げつけようとしたけれど、思うように腕が動かない。
悔しさに、涙が視界を歪ませる。
涙がシーツにしみこむのと同時に、男が私の傍に寄ってきたことを知った。
「今回のことは本当に、申し訳なく思っています。本来ならば私の死を持って償うべきなのですが、それでは奈月様の生活の面倒を見る人間がいなくなってしまいます。
奈月様が天に召された後は、私もすぐに死にます。それで許してくださいませんか・・・・・・?」
「ちょっと待ってよ、どうしてあんたが私に償うのよ!
私に償うべきは夏美の兄でしょう?」
私の言葉に、男は顔を歪ませた。
そして、私の手をとり口づけ、驚くべき言葉を口にしたのだ。
「申し訳ありません、私の愚弟は妹と共に遠い異国へと旅立ちました」
――愚弟は妹を愛する女性としてみていて、妹もまたそうでした。そのため、あなた様を身代わりとしたのでしょう。・・・・・・ええ、もちろん許されることではありません。しかし、妹はあなた様への罪悪感で心を病み、愚弟以外には口も利けなくなってしまったのです。
繰り返される意味のない説明に、私はもう狂う寸前だった。
いや、もう狂っていたのかもしれない。
「・・・・・・じゃあ、あなたでいいわ。あなたの一生で私に償ってよ。
結婚も、許さない」
何故か、その時目の前の男は微笑んでいた。
「喜んで」
* * *
「今日の授業はいかがでしたか?」
「別にどうってことはないわ」
迎えの車の中で、いつもと変わらない会話を交わす。
親が小さい頃に亡くなったことをどこで聞きつけたのか、男――木崎怜はあの事件後すぐに私を自分の屋敷に連れてきた。
それ以来甲斐甲斐しく私を世話し続けている。
あの日からもう五年が経つ。
留年してまで高校を卒業し、大学に進学したが、脊髄をやられてしまったからには就職もままならないだろう。
時間が経って、本当は怜に贖罪の必要がまるでないことを理解している。
だから、怜に結婚したい相手ができたり、そうでなくても私の介護に嫌気がさしたというのなら、いつでも解放する覚悟はできている。
でも、だからそれまでは。
「なにをしているの?早く私を部屋へ連れて行きなさいよ」
「はい、喜んで」
この関係を続けさせて――。
――病室で鋭く私を貫く瞳に一瞬で心を奪われた。
あなたが私を縛り付けていると罪悪感に駆られて私を手放そうとしていることは知っている。
だから。
「奈月様、リハビリはどうなさいますか?」
そう聞くのは数ヶ月前で止めた。数ヶ月前のあなた様ならきっと、
――お前がいるのに必要?
そう言って笑ったろう。
しかし、今はきっと独り立ちなさろうとする。
――そうはさせない。
一度手にした弱った鳥。たとえその鳥が空を焦がれても、もう籠から出しはしない。
憎まれていても構わない。
私はあなたを他の男に奪わせたりはしない――。