一
火事と喧嘩は江戸の華……。
昔の諺であるが、実際に火炎に巻き込まれてみろ! 轟々と恐ろしい音と、熱気。煙は視界を塞ぎ、息を詰まらせる。とてもじゃないが、江戸の華などと、呑気に構えてはいられない。
俺たちは品川方向を目指していたが、あちこちで上がった火事の煙で、方向感覚そのものが失われてしまう。それと避難する町人たちが行く手を塞ぎ、容易には動けない。
小さな子供の手を引く大人がいる。歩けないほど弱った病人や、年寄りは大八車に乗せられ、必死に避難していく。
皆、引き攣ったような恐怖の表情を浮かべ、無我夢中で走っている。俺たちなど、目もくれない。
屋根の上を見上げると、纏を持った火消しが、顔中を口にして指示を叫んでいる。その声に、大声で返事が上がり、がちゃん、どしゃんと建物を破壊する音が加わっている。
江戸の火消しは、破壊消火と呼ばれる手法を採っている。建物を破壊し、延焼を防ぎ、防火線を作る。
纏は「ここより火災を食い止める」という宣言である。当然、火災の最前線で踏み止まるため、最も危険な役目だ。江戸の大火事には、何人もの纏持ちが火事で命を落としている。
「どうなっちゃうの? このままじゃ、江戸中が火事になっちゃうんじゃない? みんな、焼けちゃうわ!」
晶が煙に咳き込みながら、叫んでいた。
俺は叫び返した。
「心配は要らない! 江戸では、何度も大火事が起こっている。火事が起きた後、再建するよう、替わりの材木が用意されているから、復興はあっという間さ!」
江戸には、あちこちに材木置き場がある。しかも、その材木は商家や、長屋が焼失した場合を考え、同じ材木を用意している。だから、焼失しても、すぐに材木を組み合わせ、あっという間に再建されてしまう。要するに、江戸の町はプレハブ住宅なのだ。
晶は憤然として、俺を見た。
「それは、本当の江戸での話でしょ! こっちの仮想現実の江戸は、たった十年くらいしか経っていないはずよ!」
俺は首を振った。
「いいや、こっちの江戸も、本当の江戸と同じく、二百年は経っている! 俺たちは、特別に〝早回し〟を使って、時間を加速させたんだ」
晶は呆れたような表情を浮かべる。俺は言葉を続けた。
「時々──十年くらいかな──経ったら、普通の時間に戻して様子を見て、また〝早回し〟で加速させたんだ。だから、こっちの江戸も、本当の江戸と同じくらいの歴史が積み重なっているんだ」
晶には、俺たちが江戸の町人に大火事を経験させるため、何度か故意に火事を起こさせていた事実は、秘密にしておこう!
避難民でごった返している町並みを進んでいると、悲鳴が上がった。
「子供がっ! まだ家の中に!」
見ると、髪を振り乱した女が、周りの男たちに抱き止められ、必死になって叫んでいる。どうやら、燃え上がる長屋に、子供が閉じ込められているらしい。
晶は前へ出ようとする。俺は晶の肩を掴んで、引き止めた。
「おいっ、無茶はよせっ!」
晶は憤然と、俺を睨み上げる。
「でも、子供がいるのよっ!」
「お前さんが行かなくとも、大丈夫だ。助けはすぐ来る!」
何か言いかける晶を制し、俺は辺りを見回した。これほどの大火事なら、きっとお助け【遊客】が現われるはずだ……。
「俺に任せろっ!」
出し抜けに大声がして、一人のド派手な格好をした若者が飛び出した。瞬時に、俺はその若者が【遊客】であると認めた。
真っ赤な半纏に、頭に鉢巻をして、下帯一つ。しかも身体のほぼ半分に、刺青をしている。刺青は、アニメのキャラである。
【遊客】の若者は、近くの用水桶を手に取ると、ざばりと頭から水を被った。
「あらよっ!」と掛け声を上げ、若者は燃え上がる長屋へ飛び込んだ! ほどなく、若者は両手に子供を抱え、火の中から飛び出してくる。
女は訳の判らない叫びを上げると、子供に駆け寄った。若者の身体から、熱気でじゅうじゅうと水蒸気が上がっている。
何度も女は若者に礼を言う。若者は「気にすんなって!」と手を振った。子供の髪の毛が火に焼かれて、ちりちりになっているのに、若者の頭は、毛一つ乱れはなかった。
晶が「格好いい!」と手を打った。
俺の皮肉そうな顔つきに気がつく。
「何よ、その顔は?」
俺は思わず吹き出した。
「いや、時代劇で、いかにもありそうな場面だと思ってね……。今の若い衆、【遊客】だと気付いていたか?」
晶は、がくっと肩を落とした。
「そ、それじゃ、今のは?」
「そうだ。あいつは火消しに入って、こんな絶好の機会を待っていたはずだ。時代劇で定番の場面を演じたくて、仮想人格も、熱に強い特性を持っている。ほら、あっちで、一人、出し抜かれて残念がってる奴がいるだろ?」
俺が指さすと、若者は俺たちの会話を耳にしていたのか、ちょっとはにかんだ笑いを浮かべる。
頭を掻くと、さっと踵を返し、遠くに見える次の火事場へ走っていく。火に逃げ遅れた犠牲者を探しているのだろう。
若者を見送る、一人の【遊客】らしき男がいた。こちらは刺子の上着に、襷掛けという格好である。出し抜かれて、悔しそうに見送っている。
江戸には、あんな【遊客】がごろごろしている。
俺はポカンと突っ立っている晶に声を掛けた。
「こんな場所で手間取っているわけにはいかんぞ! さあ、雷蔵の教えてくれた、【暗闇検校】のアジトに急ごう!」
三人を急き立て、俺は足を速めた。