九
多門の顔が、憎々しげに歪む。ぜいぜいと、全身で喘ぎ、背筋を曲げて蹲るような姿勢になった。
今まで見た、ギリシャ彫刻のような、堂々とした物腰は、欠片もない。そこにいるのは、ひねこびた身体つきの、世を呪うだけしか知らない、異様な人物だった。
「殺してやる! 貴様だけは許せん!」
俺を睨みつける多門の両目には、狂気が浮かんでいた。瘴気ともいえる、多門の毒を含んだ視線は、俺の全身を突き刺した!
俺は目を閉じ、銃声を待ち受ける。もはや、俺の逃げる可能性は、寸毫も残ってはいない。
だが、俺は死ぬわけではない。この仮想人格が死亡しても、本来の俺は、現実世界で目覚めるのだから。
なーに、仮想現実で死ぬのは、これで二度目だ! ぜーんぜん、平気だよ……。
しかし膝の震えは隠せない。
「ぎゃあっ!」と、異様な叫び声が聞こえた。がちゃん! と重いものが床に叩きつけられる音に、俺は目を見開いた。
見ると、多門が手首を押さえ、苦痛に顔を歪めている。手首には、細い、矢のようなものが突き刺さっていた。
床に拳銃が転がっている。
俺と多門の視線がかち合った!
お互い、無言で拳銃に飛び掛る。
俺のほうが、一瞬だけ早かった。さっと床から拳銃を攫い、俺は一歩下がって拳銃を構えた。
形勢逆転だ!
多門は窓の外に眼を向けている。視線を追うと、熱気球の駕籠から顔を出した雷蔵が、口に吹き矢の筒を押し当てていた。
筒を離し、雷蔵は剽軽な顔つきで、ニヤリと俺に笑って見せた。
「ほ! 飛んだ場所で出会うたな! 鞍家二郎三郎!」
「それは、俺の言う台詞だぜ!」
俺が叫び返すと、雷蔵はぴしゃりと額を叩いた。
「こいつで飛び上がったはいいが、降ろす場所が見つからなくてな。そうこうしているうち、何と風に吹かれて、江戸城まで来てしまったよ。ちと、気球に傷がついてしまったが、も少しなら、浮かんでいられるだろう。見ると、かなりややこしい場面に来てしまったようだから、儂はこれで失礼する!」
雷蔵は火皿に油を注ぎ足し、炎を強めた。熱気が、気球に更なる浮力を与える。
ふわふわと独特の漂うような動きで、気球は再び浮上し、遠ざかる。
駕籠から雷蔵が手を振り、叫んでいた。
「アデュー! ボン・ボヤージュ! チャオ! さらばじゃ!」
今度はフランス語に、イタリア語と来た。いったい、あんな挨拶言葉、どこで覚えてくるのだろう?
俺は多門に向き直る。多門は、膝をつき、俺を見上げていた。多門の奇妙な表情に気付いた。
絶望感を顕わにしているかと思ったが、多門は俺に向かって、薄笑いを浮かべていた。
「その拳銃を、どうするつもりだ? 俺を撃つのか?」
「何?」
多門は立ち上がった。ぱっと、両腕を広げ、仁王立ちになる。
「撃てるなら、撃ってみろ! さあ、殺せ!」
俺は銃爪に掛けている指先に力を込めた。
撃鉄が、ぎりぎりぎりと持ち上がる。あともう少し、力を入れれば、目の前の多門は銃弾に貫かれ、死を迎える。
自信満々で立っている多門は、じっと俺の表情を窺っているようだった。
「鞍家殿!」
玄之介が叫ぶ。
「伊呂波の旦那!」
吉弥も叫んでいた。
晶は、唇に拳を押し当て、真っ青な顔で俺を見詰めていた。
俺の額にじっとりと汗が噴き出す。握っている銃の、筒先がぐらぐらと揺れていた。
多門は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「やはりな……。お前には、俺を殺せない。俺の知る限り、お前は今まで、仮想現実で殺しを一度たりとも、経験していない。お前には、たとえ仮想人格であっても、人殺しはできないよ……!」
多門は息を整え、目を閉じた。何か、口の中でぶつぶつと呟いている。呪文のようである。
何をしようとしているのか?
出し抜けに真相に思い当たり、俺は玄之介と吉弥に叫んだ。
「ヤバイっ! 多門の奴、もう一度、結界を作ろうとしているぞっ! 呟いているのは、プログラムを呼び出す、暗証だ!」