二
階段を上がり、四階に辿り着くと、俺の足がずるりと滑った。
「わっ!」
玄之介が、床を見下ろして「ああっ!」と悲鳴を上げていた。
晶は息を吸い込み、両手で口を覆う。すぐに顔を背け、壁に凭れかかる。
吉弥だけが、じっと目の前の光景にたじろぎを見せないでいる。
一面の赤。立ち上る異臭。血の匂いである。広がる血の海に、一人の男がうつ伏せになって倒れていた。
倒れているのは、弁天丸だった。
「弁天丸っ!」
俺は叫び声を上げ、一歩ささっと室内に踏み込む。血潮の匂いが、むっと室内に籠もっている。
倒れているにも拘わらず、弁天丸は相変わらず、長大な、役立たずと思われる刀を掴んでいる。
血溜まりの中、弁天丸が身動きした。
まだ生きている!
俺は膝をつき、弁天丸の顔を覗きこんだ。微かに弁天丸の顔が動き、俺を見上げる。細長い顔に、弱々しい笑みが浮かぶ。
「伊呂波の旦那か……。やられちまった……。舐めていたな……」
ひひ……と、それでもどうにかこうにか、笑い声を上げた。
「相手は、荏子田多門か?」
俺の質問に、弁天丸はがくりと顔を自分の血潮に埋める。にちゃ……と、乾きかけた血が厭な音を立てた。
うぐ……、と晶が吐き気を堪えている。俺だって、今にも胃の内容物を盛大に吐き散らしたい気分だ。
俺は立ち上がった。
踵を返そうとする俺に、弁天丸が必死に声を掛けた。
「ま……待て……これを!」
震える手で、握りしめた刀を持ち上げる。
「この刀を、持って行け……! この刀を……使って……!」
俺は再び膝をついて、弁天丸の手から、刀を受け取った。最後の力で握り締めているのか、ほとんど毟り取るようにしないと、弁天丸の手から離れない。
弁天丸は最後の足掻きに、呟くような声を上げた。
「これで、消去刑は免れた……本望だ!」
弁天丸は動かなくなった。今度こそ、本当に死んだのだろう。
俺は呆然となっている三人の顔を、順に見詰めて口を開く。
「どうする? 多門は相当に手強そうだ。引き返したい奴は、いないか?」
晶は真っ青な顔をしていたが、それでも唇をきつく引き結び、頭を振る。
玄之介は黙って、懐から十手を取り出し、翳して見せた。決意の表情を浮かべ「御一緒いたしましょう!」と呟いた。
吉弥は、ゆっくりと首を振り、腕捲りした。電柱のように太い腕に、逞しい筋肉が浮かぶ。ぐっと腕を伸ばし、俺が握っている弁天丸の刀を指さす。
「あちしに、その刀をおくれ。それを振り回せるのは、あちししか、いないよ!」
俺が差し出すと、吉弥は両手で受け取り、刀をすらりと鞘から引き出した。
ぎらり、と刀身が照明に冴え冴えと光を放つ。吉弥はずっしりと腰を落として、刀を構えた。
一声「むん!」と唸ると、正眼に構え、さっと振り上げ何度か素振りをくれる。
吉弥が素振りをするたび、びゅうびゅうと切っ先が空気を切り裂いた。恐ろしいほどの迫力だった。
芸者の格好をしているが、今の吉弥は完全に達人の風格を漂わせている。
何度か刀のバランスを試していた吉弥だったが、ようやく満足したのか、ぱちりと鞘に刀を収め、帯に捻じ込んだ。吉弥の巨体に、弁天丸の刀は誂えたように、ぴったりとしている。
吉弥は、にったりと笑いを浮かべた。
「良い刀だ! あちしに、ぴったりだよ!」
俺はすっかり度肝を抜かれ、ぽかんと馬鹿のように口を開いたまんまだった。
のしのしと足音を立て、吉弥は最上階への階段に向かっていく。階段の階に足を掛け、こちらに首を捻じ向ける。
「どうしたんだえ? 多門と対決するんじゃないのかえ?」
俺はぶるっと首を振り、慌てて階段に足を向ける。
多門との対決が待っている!