六
地獄耳の雷蔵は、ぼんやりと立っている吉弥を見上げた。
「そこの、でかいの!」
声を掛けられ、吉弥は吃驚したように目を剥き出した。
「あちし、かえ?」
雷蔵は忙しく、点頭した。
「そうじゃ! 他に、お前さんのような〝でかぶつ〟が、おるものか! ちょっと、儂をお前さんの肩に乗せておくれ。儂は、これ、この通りの老人。とぼとぼ歩くのは、敵わんからの!」
吉弥は、雷蔵の命令に不承不承、頷いた。大きな身体を折り曲げるようにして屈みこむと、ひょいと片手で雷蔵の襟首を持ち上げ、肩に乗せる。
雷蔵は、座り心地を確かめるように身じろぎをすると、吉弥の首に細い腕を絡ませ、しがみついた。
「さあ、行くのじゃ!」
乗馬気分で、吉弥の耳をぐいと掴んで、方向を指し示す。吉弥はあまりに高飛車な老人の態度に、文句を言う機会を失い、大人しく歩き出した。
雷蔵は機嫌よく、手にした杖を鞭代わりに、ぴしゃっ、ぴしゃっ! と吉弥の肩を軽く叩いている。
俺と、玄之介、晶の視線が合った。お互い、可笑しさを噛み殺し、吹き出さないように必死だ。
雷蔵の向かった先は、石川島灯台である。
六角二層の建物で、下半分が裾広がりになっていて、上の灯台部分には、窓が開いている。ここから夜間、灯を点し、夜間の航行をする舟の安全を図ったという。寄場人足によって、建設された建物だ。
建物は実に大きい。高さ五丈は軽くある。
本当の石川島灯台は、こんな大きな建物ではなかったはずだ。だが、こちらの灯台は、見上げるほど巨大で、圧し掛かるように聳えていた。
見上げる玄之介は、首を捻って呟いた。
「遠くから見た際は気付かなんだが、石川島灯台は、このように大きな建物だとは聞いておりません!」
顔には、ありありと「考証間違いである!」と不満が一杯に溢れている。
吉弥の肩に、悠然と跨っている雷蔵は、時折、通りすぎる人足に軽く頷いてやる。
人足たちは雷蔵を見ると、ぴょこぴょこと小腰を屈め、愛想笑いを浮かべて通りすぎてゆく。
雷蔵は玄之介の文句に「ふん!」と鼻を鳴らして顔を顰めた。
「当たり前じゃ! 灯台を建てるとき、儂が設計図に手を加えて、倍の高さに指示しておいたのじゃ! お主は【遊客】じゃな?」
玄之介は、雷蔵の言葉に目を剥いた。
「そ、そうで御座るが……」
雷蔵は皮肉そうに、軽く笑った。
「時々、お主のような知ったかぶりの【遊客】がおる! 何が何でも、自分たちの知っている江戸が総てだと思い込んでいる馬鹿者よ! ここは、我らの江戸じゃ! お主たちの江戸ではないわい!」
雷蔵の逆襲に、玄之介は黙り込んでしまった。
「さあ、ここで良い!」
ぴょん、と雷蔵は吉弥の肩から飛び降りると、灯台に入るため、戸を開いた。
くるりと振り返ると、俺たちに向かい、苛々と手足を舞わしている。
「何をボケッとしておるのじゃ! さあ、早く入らんか!」
雷蔵は実に短気だ。俺たちは老人の気紛れに、大人しく従う。
内部に入ると、灯台部分に上がる階段があって、その他は小屋にあったのと同じような書類が、所狭しと置かれている。
雰囲気は、紅葉山文庫に似ていた。だが、こちらのほうが遥かに雑然としていて、何がどこに置かれているのか、雷蔵本人ですら把握できていないのではないかと、思われた。
早くも玄之介は好奇心を刺激された様子で、手近の紙束を摘んで、しげしげと見入っている。
「これは天気の記録らしいですな……。ふむ、晴れ時々曇り……一日雨、富士山に傘雲を見ゆ……。何でまた、このような記録を?」
「観天望気に決まっておろうが! そんなもの、後にせい!」
階段の途中で、雷蔵はかっかとした様子で、じたばたと足踏みを繰り返した。
身軽な足取りで階段を上がる雷蔵に従い、俺たちは二階へと登っていく。二階と言っても、建物自体の高さが、四、五階分はあるので、階段は長々と続いている。
体重のある吉弥は、長い階段を、ひいはあと、喘ぎながら登っていく。俺の目の前に、吉弥の巨大な尻が揺れている。いつ押し潰されるかと思うと、あまり気分の良い眺めではない。
灯台の二階には、照明を点すための大きな火皿が据えられ、菜種油の匂いが籠もっていた。
その他は、雷蔵の住居になっているのか、いくつかの生活道具が置かれ、窓には遠眼鏡が設置されている。遠眼鏡の先には、江戸の町が望見できた。