六
晶が蹲り、地面に小間物屋を広げている。嘔吐の、婉曲な表現だ。目の前で、人間の首が胴体から離れる瞬間を目撃したのである。無理もない。
源五郎は、太刀をさっと払い、血糊を懐紙で拭い、ぱちりと鞘に収めた。
しかし、一度でも人間の身体を斬りつけたのだ。後で、丹念に手入れをする必要がある。肉と脂、血糊は、懐紙で拭ったくらいでは絶対に取れない。
これだから、日本刀は面倒臭い。俺が、わざと刀身に刃を付けない鈍らを愛用していたのも、面倒な手入れを嫌ったからだ。
「何で殺したの! 相手は、無力になっていたでしょう?」
晶は、源五郎の部下という立場もわきまえず、食って掛かる。が、源五郎は、静かに首を振って答えている。
「武士の情けじゃ! 豆蔵は、我らに捕縛され、白砂に引き出されれば、確実に【消去刑】が待っていた。あのような酷い刑罰は、儂も望まぬのでな……」
晶は口をポカンと開ける。
「【消去刑】ってのは、何よ? それが何で、武士の情けなの?」
俺は説明役を買って出た。
「江戸では、火付けの罪は本来、火炙りとなっている。しかし人権委員会という、お節介な連中が、残酷な刑罰を禁止していてね。死刑の代わりに、【消去刑】ってのを提案したんだ。その刑罰は、文字通り存在の消去だ! 悪党の、今まで生きてきた総ての記録、存在の証しそのものが消去される。初めから、存在しないと同じになるんだ。苦痛も、血の一滴も流れないが、ある意味、磔刑、獄門より残酷かもしれない」
後ろ手に、縄を掛けられ、引き出された豆蔵の手下たちが、俺の言葉に全面的に同意したように頷く。
「【消去刑】ってのにされると、おいらたちの頭の中からも、豆蔵の親分の想い出は、これっきりも残らないんで……。あっしも、【消去刑】だけは御免だ! そんな刑を受けるくらいなら、いっそ、この場で火盗改の頭に、ばっさり斬って貰いてえ!」
豆蔵の手下を運ぶため、大八車が用意された。一塊に、手下たちは縄を掛けられ、江戸市中へと運ばれていく。
あいつらもまた、裁きを受ければ、確実に【消去刑】になる運命である。それを悟ったのか、手下たちは口々に源五郎のお慈悲を願い、この場で殺してくれと叫んでいる。
源五郎は「正直に、おのれの罪を白状いたせば、罪名につき、処断いたすぞ!」と大声で叫んでいる。火盗改方頭の権限として、その場で即日処罰を決められるので、源五郎の言葉は嘘ではない。
手下たちは、源五郎の言葉に救われたように、口々に自分の罪を述べ立てる。
「あっしは親分と押し込みをして、火をつけました! どうぞ、お慈悲でこの場で斬って捨てておくんなせえ!」「あっしも、同じでござんす! あっしは、何人もの娘を、手篭めにしてきやした!」「どうぞ、お慈悲を! あっしは、見張りだけでござんす!」
ふと思いつき、俺は手下たちに尋ねた。
「お前たちの中で【暗闇検校】という名前に心当たりのある者はいるか?」
途端に、しーんと手下たちは静まり返る。俺の言葉に、全員が顔を見合わせる。
「あのう、どこでその名前をお知りになったんでござんす?」
晶を羽交い絞めにしていた、熊のような巨体の男が、恐る恐る、といった表情を浮かべて尋ね返してきた。男の顔には、深甚な恐怖が刻み込まれている。
「弁天丸って奴からだ。豆蔵が連れて来た悪党だ。お前ら、そいつを知らないのか?」
連中は、怖々とお互いの顔を見合った。源五郎が苛々しながら叫ぶ。
「どうしたのじゃ? これなる鞍家二郎三郎の問いに答えよ! さすれば、儂も鬼ではないぞ! 正直に白状いたせば、罪一等を減じ、島送りの刑となるよう、儂が手配をいたす!」
手下たちの視線が、一斉に一人の男に集中した。この中で、一言も喋らず、黙りこくっていた中年の男である。
こいつばかりは、悪党面している仲間に似合わず、穏やかな顔つきで、黙っていると、どこぞの商家の手代くらいにしか見えない。
源五郎の目が光った。
「お主の名前は?」
「久蔵と申します」
久蔵と名乗った男は、静かに返事をする。声は微塵も震えはなく、まるで「遊山に行きます」と答えているように平静だ。
源五郎は大きく頷いた。
「ふうむ……。豆蔵の配下に、右腕として悪名を馳せた男がいたと聞くが、そちが、その男であるか?」
久蔵は、ゆっくりと頷いた。
源五郎は顎を挙げ、高々と質問する。
「では、答えるのじゃ! いったい【暗闇検校】とは、何者じゃ? お主は、何か知っておるのか?」
久蔵は、にやっと薄く笑った。源五郎は、久蔵の不遜そのものの態度に、不審そうに眉を顰めた。久蔵は、まるっきり、恐怖など感じていないようだった。
「【火祭りの豆蔵】など、検校様の前では、小者にしか過ぎませぬ。豆蔵は、検校様の言いつけで、色々と悪事を働きましたので。わっしも、検校様の御指示を頂き、人には言えぬ、非道をなしました。弁天丸は、検校様と、豆蔵の間の、繋ぎ役でござんす!」
淡々と話し続ける久蔵の瞳は、ひたと源五郎を見上げ、身内から高まる何かの自信に、声には一欠片の揺るぎもない。
久蔵は言葉を切ると、今度は俺に視線を移した。
「そちらさんが、【遊客】の〝抜け参りの二郎三郎〟さんでござんすね? 検校様は、あんたを一旦は殺しておりやすが、いずれ、再び相見えるであろうと仰っておりました。【遊客】の方々は、不死身なのだと、検校様は仰っております。わっしら、江戸の悪党は、一人残らず検校様の手下でござんす!」
俺は久蔵に向かって問い掛けた。
「おいっ! 【暗闇検校】の狙いは、何だ?」
久蔵は、ぎらぎらと、奇妙に光る両目で、俺を見据える。
「検校様は、いずれ、わっしら江戸の悪党全部をお救いになられるお方……! そちらの火盗改方頭も、江戸のすべての町人、武士も、すべてお救いになられるおつもりでござんす……。その時が至れば、お判りになられましょう……」
俺は久蔵の言葉に内心、首を捻っていた。久蔵は、完全に【暗闇検校】に信服しているらしい。
「正体は何だ? 何者なのだ、【暗闇検校】とは?」
久蔵は俺の問いには答えず、ぐっと奥歯を噛みしめる。俺は「あっ!」と気付いた。
「源五郎! こやつ、毒を!」
源五郎は目を剥き出した。
「何っ!」
ぐぐぐっ! と、久蔵の全身が震え出す。噛みしめた唇から、どす黒い液体が零れ落ちた。
ぷん、と俺の鼻に、突き刺すような酸性の匂いが漂った。俺は慌てて、久蔵の体から身を遠ざけた。
青酸カリだ! 江戸では存在し得ない、毒物である。
青酸カリの迷信の一つとして「アーモンドの匂い」というのがある。しかし収穫前のアーモンド臭であって、ナッツの甘い臭いではなく、酸性の臭いである。胃酸と反応したシアン化水素による毒で死亡する。よって、患者の息を吸い込むのは極めて危険である。
久蔵はぐったりとなっていた。顔には、俺を嘲笑うかのような、無理矢理に作り上げた笑みが、刻み込まれている。最後の意地に、頬の筋肉を笑いの形に固着させたのだ。
俺と源五郎は、呆然とお互いの顔を見合わせていた。