四
俺たちの報告を受けた、書物同心の吉川は、見っともないほど、取り乱していた。
「まさか! 総ての資料が、消え去っていると申されるのですか? 信じられませぬ!」
小刻みに首を振り、肉付きの良い頬が、たぷたぷと揺れた。
顔色は真っ青で、今にも倒れそうだ。頼むから、俺の目の前で倒れないでくれよ! こんな脂肪の固まり、抱えるのは一苦労だ!
「三日前までの資料が、全消去されている。その後の、江戸に入府した【遊客】の資料は保存されているが……。しかし、江戸開闢以来の、資料は完全に消え去っているな」
俺は書見台を前に、吉川に説明した。
吉川は苦悶の表情を浮かべ、頭を抱え込んだ。
三日前! つまり、俺が何者かに、江戸で殺され、水死体で発見された翌日である。それ以降の情報は保存されているから、俺の名前も表示されていた。
晶の名前も見える。それによると、晶の本名は「大工原晶」とあった。やはり、大工原激というのは、兄らしい。
俺は首を捻り、考え込んだ。
なぜ【遊客】の資料を、総て消去したのか? 理由がまったく、判らない。
「失態だ! 拙者の怠慢で御座る! 定期的に、【遊客】の情報は確認する決まりであったが、拙者は忙しさに取り紛れ、つい怠ってしまった……! ああ、どうすれば良いので御座る? お奉行様に、どう言い訳を致せばよいのやら……!」
吉川は、おろおろと自問自答している。
俺は慰めにもならないが、一応は忠告してやった。
「正直に報告するのが一番だぜ。善後策は、その後だ」
「左様で御座るな……。しからば、暫時、失礼致す。これより、書物奉行様に、報告まいらねばならぬ……」
吉川は朦朧とした顔つきで立ち上がり、ふらふらと頼りない足取りで立ち去っていく。
俺たちはもう、ここには用事はない。収穫の全然ないまま、俺たちは紅葉山文庫の外へ出た。
紅葉山文庫の建物は、奥行き十五間、幅三間の細長い建物が四棟並んで、一棟まるまる書庫であったから、蔵書数の膨大さが判る。一説では、幕末期には、十万冊の蔵書があったとされる。
紅葉山の名の通り、秋には見事な紅葉を見せるが、今は夏の盛りで、新緑の中、東照宮の建物が沈んでいた。
家康を東照神君として祀る建物で、日光と紅葉山の他に、久能山、水戸、東本願寺、世良田、滝山、鳳来山、松平郷、名古屋、岡崎、飛騨、日吉、和歌山、越前、仙波、鳥取、仙台、岡山、広島、弘前、船橋、石見銀山に建てられ、将軍家にとっては、特別の場所である。
実際の江戸では、家康の命日にあたる十七日、歴代将軍が紅葉山東照宮に参拝する慣わしであった。
しかし、こちらの江戸では、将軍は江戸創設の、中心プランナーが務めているので、東照宮は、ただの記念碑的な意味合いしかない。
西ノ丸の向こうに、工事中の天守閣が聳えているのが良く判る。あちこちに工事の資材が置かれ、職人がきびきびとした物腰で働いている。
工事を監督する普請方の役人が、帳面と、進捗状況を照らし合わせていた。
俺たちはその場を通り過ぎようと歩いていたら、役人の一人が、こっちを見て、驚きの表情を浮かべた。俺の知り合いか?
相手の顔を見直し、俺は舌打ちした。
「おい、急ぐぞ!」
玄之介の袖を引き、早足になる。
「鞍家殿、何をお急ぎなのですか?」
「いいから、急げっ!」
俺は小声で叱咤し、足を急がせた。
──おおーい……。
背後で聞こえた伸びやかな堂間声に、俺は益々足の回転を速めた。いかん! 気付かれた!




