十一
結局、吉弥の最初の提案通り、蕎麦屋へ行こうとなって、俺たちは手近な蕎麦屋に、どやどやと入り込んだ。
夏の盛りとあって、蕎麦屋は混雑している。客は大半、盛りを頼んでいる。
出された盛り蕎麦を玄之介は見て、顔を顰めている。俺はちょっと、玄之介をからかう気分になってきた。
「どうした、玄之介の旦那。この蕎麦屋が気に入らないのか?」
玄之介はぶすりとした表情で、答える。
「食卓と、椅子とは、あまりに時代考証を無視していませんか? 普通、江戸時代の食事所なら、座敷でしょう? こんな机などで、当時の庶民は食べていないはずです」
玄之介の言葉通り、蕎麦屋に入ると、木の机と、腰掛ける椅子がずらりと並んでいる。確かに当時の江戸では、椅子に座って食事をする習慣はなかった。普通、座敷で、各々小さな卓を前にして食事をする。
俺は「はいはい」と頷いてやった。
「まあ、そうだ。だが、こっちの江戸じゃ、【遊客】が上客で金を払ってくれるので、【遊客】向けに、こんな形になったんだ。俺たちが強制させているわけじゃない。あくまで、江戸の町人の自主的な判断だよ」
「そっちの旦那は、【遊客】かね?」
隣の卓で、蕎麦を手繰りながら、冷やをちびちび飲んでいた、職人風の町人が話し掛けてきた。職人の食卓には、銚子が並んでいる。これも玄之介の気に障る光景である。本当の江戸なら、銚子は使わず「ちろり」という金属の食器で、酒を燗して呑むのだ。俺が肯定の意味で頷くと、職人は、にやりと笑い掛けた。
「確かに【遊客】の連中が江戸に来るようになる前は、ここらは昔風だったがね。こっちのほうが、食べやすいなあ。何でもかんでも、昔風を守るのは、どんなもんかね? 時々、旦那みたいな【遊客】が文句をつけてくるがね。なぜ時代考証を守らない? ってね!」
職人は、にいーっ、と目を細めた。
「時代考証って何か知らないが、俺たちは、やりたいようにやってるだけさ!」
職人の言葉に、玄之介は腕組みをして、またまた考え込んでいる。
「お待ちどうさまでした!」
紺絣に、赤い前掛けの女給が、吉弥の前にどっさりと、大盛りの蕎麦を運んできた。それも五人前である。
さらに、大皿に天麩羅の取り合わせも付いてきた。これでも足りないのか、お櫃ごと飯が運ばれる。何を頼むにも、吉弥は他人の十倍は注文する。
さっそく、ばくばく食べ始める吉弥を尻目に、俺は冷や酒を、ちびちびと飲み始めた。肴は沢庵程度で、俺は、あまり食事を付き合わない。
仮想現実で食事を摂るという行為は、本体に悪影響を及ぼす。脳は、食事を摂ったという信号を受け取り、胃酸を分泌するよう、神経を刺激する。
結果、胃は空っぽなのに、胃酸が大量に出て、後で胸焼けや、胃潰瘍を引き起こす。仮想現実で、後先を考えずに平気で食事を摂れるのは、吉弥のような〝ロスト〟した【遊客】だけだ。
晶は、俺の隣に席を取り、囁き掛けてきた。
「ね、ちょっと聞きたいんだけど」
「何だ?」
「どうして、あの吉弥って人が、本当は男だって判ったの? 仮想人格なら、完全に女の身体でいられるんでしょ?」
俺は、薄っすら笑ってやった。
「そこなんだな、勘違いするのは。確かに仮想人格なら、どんな身体をデザインするのも自由だ。男女の性別すら、無視できる。だが、男が女に、あるいは女が男に化けるのは、どうしても無理が生じる」
俺は食事に夢中になっている吉弥に目をやった。晶も釣られたように、目をやる。
「確かに最初は、吉弥はどこからどう見ても、本物の女に見えた。俺ですら、ころりと騙された口だ。だが、ちょっと付き合うと、何か、ちぐはぐなんだ」
晶は首を捻った。
「男の仕草が出てきた、とか?」
俺は首を振った。
「違う! むしろ、逆だ! 吉弥は、過剰なほど女らしかった。まるで──そう、女が女の癖に、女装しているみたいだった!」
「ぷっ!」と、晶は吹き出した。目の前の吉弥が、女らしい仕草を懸命に演じている様を想像したのだろう。
「最初、出会った頃の吉弥は、ほっそりして、喜多川歌麿が描くような美人だったよ。だれでも振り返りそうな、美人だった。だが、やっぱり違和感があった。俺くらい、長く仮想現実で過ごしていると、そこら辺は、何となく判ってくるんだ」
俺は言葉を切り、晶を見詰めてやった。
「お前さんは、どうかな? 本当のお前さんは、こんなお嬢さんなのかね?」
晶は、どぎまぎなど余計な感情を見せず、むっとした表情を浮かべただけだった。
「勝手に、そう思えばいいわ!」
おやおや、怒らせてしまったな。
吉弥はすでに食事の大半を平らげている。湯桶を傾け、漬け汁を蕎麦湯で割って、その中に生卵を落として、ぐちゃぐちゃと掻き回している。それをぐいーっ、と一息で飲み干し、満足そうに吐息を洩らす。
うげっ! 何という食事の締めだ!
俺は改めて吉弥に顔を向け、話し掛けた。
「そろそろいいだろう。吉弥、俺が死ぬ前、何があった?」
吉弥は「ちっちっ!」と楊枝を使っていたが、俺の言葉に思い出したように、口を開いた。
「ああ、そうだったね! 伊呂波の旦那は、品川で何か調べ物があるって、船頭の留吉に、川舟を頼んでいたよ」
「何いっ!」
大声を上げたのは、玄之介だった。玄之介の意外な反応に、吃驚したのは俺だった。
俺は玄之介の顔に視線を移した。眉間が狭まり、肩が上下している。玄之介は指先でがっしりと食卓を掴み、吉弥に襲い懸かりそうな勢いで尋問する。
「吉弥とやら! その話、本当かっ? 確かに、船頭の留吉と申すのだな? 鞍家殿が舟を頼んだのは?」
「ああ、そうさ……」
玄之介の詰問に、吉弥は呆然と頷く。俺は玄之介に尋ねた。
「どうした、玄之介の旦那。留吉って名前に、何か心当たりでも?」
玄之介は、きっ、と俺を睨む。
「今朝方で御座る。若い男の死体が、品川で発見された、との報告が御座った。持ち物から、品川の川舟を漕ぐ、船頭の留吉と判明いたした。それがお主の件と、関わりがあるとは、今の今まで、ついぞ思い浮かばなかったが、これで二つの線がぴたりと繋がり申した!」
俺は玄之介の言葉に、引っ掛かった。
「死体、と言ったな? どんな死体だ」
玄之介は軽く首を振った。
「真っ向から切り下げられた、刀傷が御座った。明らかに、他殺で御座る!」
俺は「そうか……」と呟く。
晶が目を光らせた。
「これで、伊呂波の旦那の事件は、殺人事件に決まりね!」
俺は深く頷いた。