十
吉弥の八面六臂の活躍で、俺たちは逃げ遅れた芸者たちを引き連れ、神田明神から大慌てで逃げ出した。吉弥が殿軍を守っているので、ゆうゆうと逃走できる。
最後に、ちらりと振り返ると、乱闘の中で松戸検校が「わはははは!」と高笑いを上げ、鉄扇を手当たり次第に揮っている姿があった。
検校は顔一杯に闘争の喜びを漲らせ、奮闘している。実に、幸せそうだ! 少なくとも、俺の趣味ではないな。
明神から昌平橋を渡って、駿河台方向へと足を向ける。もう、喧嘩騒ぎは聞こえず、辺りには静寂が戻ってきた。武家屋敷が立ち並んでいるせいだ。
俺たちが芸者をぞろぞろ引き連れているので、途中の町人、侍たちが奇異の目で見送っている。
どうしようかと思っていると、騒ぎを聞きつけたらしい、芸者たちを抱えている遊郭の牛太郎たちが、見当をつけて探しているところに行き当たった。これで俺たちはお払い箱だ。
牛太郎たちは口々に「いずれ、お礼に上がります」と丁寧に頭を下げて、芸者たちを引き取って行く。
俺は良い厄介払いと、喜んだ。
「ああ、お腹が空いた! ねえ、ちょっと腹塞ぎで、蕎麦でも手繰ろうよ!」
吉弥が能天気な大声を上げる。晶はポカンと口を開け、質問した。
「あんたは、戻らなくて良いの?」
吉弥は、ぐい、と身を仰け反らせる。
「あちし? あちしは勝手気儘な、自前の芸者だもの! 伊呂波の旦那と良い所で出会ったから、これから、しっぽり……」
俺を舐めるような、実に不気味な視線で見詰める。蛇が蛙を睨む視線だ。
俺は、ぶるっ、と身震いをした。
「よ、よせ! おれは、そんな趣味はねえ!」
晶は横目で俺を見る。
「ふうん。お似合いじゃない?」
吉弥は喜んだ。
「あら! あんたもそう思う? あちしと、伊呂波の旦那、お似合いだって言ってくれるんだねえ……」
パチパチと、俺を見詰めたまんま、瞬きを繰り返す。ぽっと、頬がピンクに染まる。
わあ! やめてくれ!
何か言うと、また妙な勘繰りを晶がしそうなので、俺は吉弥に背を向け、ずんずんと歩き続ける。ちょこちょこと晶が近寄り、肩を並べて囁き掛けた。
「ねっ! どうしてあの人を、そんなに毛嫌いするの? 可愛そうじゃない!」
俺は晶をちらっと睨んだ。晶は、天真爛漫を、絵に描いたような無邪気な表情である。
俺は口一杯に頬張った苦蓬を、吐き捨てるように答えた。
「だって、あいつ、正体は男だぜ!」
晶は目を見開いた。
「えーっ!」と大声を張り上げ、一拍、間を置いて、もう一度「ええ──っ!」と辺りに響き渡るような叫び声を上げる。
吉弥は、くねくねと身をくねらせ、不満そうな鼻声を上げた。
「旦那~っ! それは、言いっこなしだよお! それに、あちしが男だったのは、昔の話じゃないか! 今はあちしは、身も心も、正真正銘の女なんだから……!」
玄之介が、両目を飛び出さんばかりに見開き「聞き捨てならぬ!」とばかり、大声を張り上げた。
「それは、本当で御座るか? で、では、この江戸で性転換手術が……?」
「違う!」
俺は、大急ぎで訂正した。
「こいつは……吉弥は、本当は俺たちと同じ【遊客】なんだ。仮想人格の性別は、普通は本来の性別でデザインするが、こいつは男なのに、女の性別を選びやがった。つまり、電脳オカマってやつだ!」
吉弥は恨みを含んだ目つきになった。これが正真正銘の女なら、それなりに色っぽい風情なのだが、吉弥がそれをやると、二本足で立ち上がった河馬か水牛に睨まれている気分である。
玄之介は首を捻った。
「となると、吉弥殿は我らと同じ【遊客】という事実になりますな。しかし……」
俺に向かい、尋ねかけるような目つきになる。
玄之介の言いたいのは、【遊客】ならなぜ自分たちに判らなかったのか、だ。【遊客】は、【遊客】同士、すぐに直感的に判り、正体を隠せない。また性別も判別できるから、吉弥のような電脳オカマはすぐ判る。
「こいつ、自分が男だって判らないよう【遊客】の気配を消す技を習得しているんだ。【遊客】の気配を消している間は、【遊客】の能力は封印されるが、気配が判らなければ、見かけが女なら、相手にばれないからな」
俺の指摘に、玄之丞は「ああ、そうか」と納得顔になった。が、晶はまだ小首を傾げている。
晶は、ゆるゆると首を振り、呟く。
「でも、そんなら、どうしてもっと……」
晶が口篭るので、俺が代弁してやる。
「もっと女っぽい仮想人格にしなかったのか? と言いたいんだろう?」
「うん」と素直に頷き、慌てて自分の口を押さえる。
俺は暴露を続けた。
「最初、出会った頃は、こいつも普通の女の姿をしていた。だが、吉弥は、この江戸で、飛んでもないポカをしちまったんだ!」
吉弥の口がへの字に曲がっている。思い出したくもないのだろう。
俺はニヤニヤ笑いながら晶に教えてやった。
「〝ロスト〟って、知っているか?」
俺たちの間に、厭な静寂が走る。玄之介も、晶も、吉弥すら黙り込んだ。
いつの間にか、一同はゆっくりとした歩みになっている。晶が口火を切った。
「知ってる……。仮想現実接続装置の取扱説明書にくどいほど、注意されていた……。〝ロスト〟という大変な事態を引き起こさないよう、注意するようにって……」
「そうだ」
俺は大きく頷いた。
「仮想現実接続装置には、使用者の健康を守るため、安全装置が組み込まれている。接続しっぱなしで、七十二時間……つまり、三日間だな……過ぎると、強制的に接続が断たれるんだ。強制切断が起きると……」
俺の言葉に、玄之介が、大真面目な顔つきになって、後を引き取った。
「仮想現実に仮想人格は取り残される。使用者は仮想現実で過ごした記憶を失い、仮想現実に取り残された仮想人格は、コピーされた人格のまま立ち往生する……!」
俺は自分の胸をぽん、と叩いた。
「俺たちは、【遊客】として仮想現実に何度か足を運んでいる。接続するたび、仮想人格の初期データが更新されるから、いつまでも、この姿でいられる。が、〝ロスト〟しっぱなしだと、普通のNPCと同じに年齢を重ねるし、食っちゃ寝、食っちゃ寝の生活を続けりゃ、どうしたって肥満する状態になる。吉弥の本体は、どんな奴か知らないが、恐らく、大変な大食漢だったんだろうな。江戸でどんどん食い続け、今じゃ、あのざまだ!」
吉弥は拗ねたような顔付きで、足元の小石を蹴ったり、空を見上げていたりしている。
不意に、吉弥の顔がくしゃくしゃと歪み、天を仰いで、大声で吠え声を上げた。
「ぐええええええーっ!」
吉弥の、糸のような細い両目から、どーっとばかりに涙が溢れた。
泣いているのだ!
「口惜しいよおおっ! 折角、伊呂波の旦那に、水死体になった前日の行動を教えて上げようと思っていたのにい──っ!」
俺は今度こそ、本当に、心底から驚き魂消ていた。
「何だと!」
俺は、つかつかと吉弥に近づき、胸倉を掴み上げた。
「おい、もう一遍、言ってみろ! 俺が死ぬ前、何をしていたっ! お前、知っているのかっ?」
「知らないっ!」
吉弥は顔を真っ赤に染め、プイっと俺から視線を背ける。
俺は掻き口説いた。
「おいっ、頼むっ! 何か手懸りがあるなら、教えてくれっ!」
「ぐううーっ!」と、吉弥の下腹部から空腹を訴える音が響く。
「あちし、お腹ぺこぺこだよお……」
吉弥は流し目で俺を見詰め、にんまりと笑いを浮かべた。