七
♪祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
♪沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
♪驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし……。
『平家物語』冒頭である。
松戸検校は、彌環を掻き鳴らし、声を張り上げ、吟じている。が、曲調はロックで、時折「イエーィ!」と、合いの手を入れた。
群がっている見物客は、ノリノリで、上下に身体を揺すりながら、忘我の状態になっている。
ひとしきり曲を演奏すると、検校は汗みずくになって立ち上がり、演台から身を乗り出すようにして、観客に叫ぶ。
「おのれら、成仏しておるか~っ?」
「おおーっ!」
「善哉、善哉! おのれら、この佳き日を、忘れるでないぞ~っ!」
検校が手を振ると、観客も一斉に手を振り返し、騒然となった。わっ、わっと大声を上げ、首を振り、熱気が湧き上がる。
俺たちは騒ぎの中、ぽつんと静まり返った孤島のように、ただただ唖然呆然慄然、呆気に取られていた。
晶だけは、頬を真っ赤に染め、他の観客と一緒に声援を送っている。
検校は満足そうに頷いていたが、ふと顔を傾け、片方の眉をぐいと持ち上げて見せた。
ただそれだけの変化に、観客たちがしーん、と静まり返った。
撥を振り上げた検校は、弦を「びーんっ!」と、一度だけ掻き鳴らした。余韻が静寂の中、滲み込むように響き渡る。
検校は唇を「ほ!」と窄める。
「この中に、儂の知らない御仁が混じっておるようじゃな。それも、三人!」
ぐっと俺たちに向かって、首を捻じ曲げる。黒眼鏡の奥から、検校の視線が突き刺さるように感じる。検校は、にやっと笑った。
「そこな三人! 今しがた、儂の許へ、面会を申し出てきた客人じゃな?」
玄之介は顔色を真っ青にさせた。
「み……見えるのですか?」
小声で俺に呟く。俺は首を振った。
「いいや、あいつは、目が見えないはずだ……。そうでなくては、絶対に検校にはなれない」
検校は、俺たちの会話を耳にしていたのだろう、にんまりと笑って大声で吠え立てた。
「儂はこれ、この通り、目は不自由じゃ! しかし、目明きに負けず劣らず、物はちゃんと見えておるぞ!」
たたたっ! と、演台を駈けると、ぱっと空中に飛び上がる。そのままぽーん、と空中で一回転をして、地面に飛び降りた。
ばさばさと、肩から提げている袈裟が風音に靡いた。のしのしと大股で歩くと、俺たちに向かって近づいてくる。
でかい!
江戸にこのような巨体を誇る人間がいるとは、意外であった。
背は完全に俺の頭二つ分は高く、体重も俺より倍はありそうだ。
「【遊客】の侍二人に、若い女が一人とは、ちと妙な組み合わせじゃな? ふむ……」
晶に近々と顔を寄せ、くんくんと鼻を鳴らし、空気の匂いを嗅いでいる。やがて会心の笑みを浮かべ、背筋を伸ばした。
「そこのおなご、中々の別嬪と思ゆる! よしよし、儂に従いてまいれ! 屋敷に案内いたそう!」
くるりと背を向けると、さっさと歩き出す。俺たちが従いて行くと、確信しているようだ。
俺たちは、完全に毒気を抜かれ、ぼんやりと顔を見合わせた。
玄之介が一、二度、ぱくぱくと口を何度か開閉させ、やっと声を絞り出した。
「ど、どうしましょう?」
俺は顎をしゃくった。
「行くぜ! あっちが、従いてこいと言っているんだ。御招待に応じようじゃないか!」
俺が歩き出すと、玄之介は釣られたように歩き出す。晶はボケッとしたまま、呆然と立ち竦んでいたが、俺たちが遠ざかると、慌てて小走りに従いてきた。
大股に歩く検校は、完全に目が見えるように、自信ありげに進んでゆく。時折、思い出したように、腕に抱えた彌環を「びーん、びーん」と鳴らした。
あの弦で、反響音を探っているのか? まるで蝙蝠のエコー・ロケーションである。この分では、真っ暗闇でも、何不自由なさそうだ。
検校は表通りから裏へずんずん歩いて行く。時々、通りすぎる町人が、検校に気付いて会釈すると、検校は機嫌良く応じている。
とうとう、堪りかねたように、玄之介が足早になると、検校に並んで話し掛けた。
「卒辞ながら、少々お尋ねしたい!」
「何じゃな?」
検校は悠然としている。
「そなた、本当に目が見えぬのか? 信じられぬ……」
検校は仰け反って「わはははは!」と呵呵大笑した。
「この辺りは、儂の掌を差すように判るでな! 初めての場所では、こうは行かぬ! ま、慣れれば、そうではないがな……。おっ、ここじゃ、ここじゃ!」
首を竦めると、ひょいっと小腰を屈め、小ぢんまりとした家屋に飛び込んだ。検校の屋敷にしては、驚くほど手狭である。
「帰参いたしたぞ!」
辺りに轟き渡るような大声を上げると、奥からぱたぱたと足音が近づき、一人の女が飛び出し、式台に指をついた。
「お帰りなさいませ」
「うむ。客人がおる。用意をせよ!」
検校の声に、顔を上げた女は、年齢三十がらみの、落ち着いた物腰の婦人であった。
髪型や、服装から見て、既婚女性らしい。だが、まさか検校の妻ではないだろう。僧形の者が、妻帯はできない。
もしかしたら、妾かもしれない。おおっぴらではないが、浄土真宗以外の僧が、妻帯していたのは、公然の秘密であった。浄土真宗は妻帯できる。
笑いを浮かべると、白い歯が覗く。
眉はそのままで、鉄漿はしていない。
俺たちは江戸を再現する際、女性の眉、鉄漿などは採用しない決定をした。そりゃ、既婚女性が眉を落とし、鉄漿をするのは、史実に合っているかもしれないが、現代で育った俺たちにとっては、ぎょっとする奇っ怪な眺めである。
検校の屋敷は間口は狭いが、奥に長々と伸びている造りで、長い廊下を案内され、座敷に誘われた。
からりと障子を開けると、座敷には黒猫が一匹、香箱を作っている。
どすどすと足音高く検校が踏み込むと、ぴょこりと首を挙げ、横飛びになって逃げていく。
どっかりと腰を降ろし、検校は腕組みをした。その様子は、とんと山賊の親玉だ。
「さて」
検校が口火を切る。
「お主たちの用件、窺おう。火付盗賊改方与力とは、たれじゃな?」
「拙者で御座る」
ずい、と拳を畳に押しつけ、玄之介が膝をにじらせる。検校は俺に顔を向け、叫ぶように声を掛けて来た。
「それなら、そこにおるのは、鞍家二郎三郎とか申す、江戸創業の【遊客】じゃな?」
俺は心底、驚いた。
「俺を知っているのか?」
検校は、ニッタリと笑いかけた。